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韓流研究室

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朝鮮日報・新大久保のコリアンタウンを真のコリアンタウンにしよう!

【コラム】新大久保のコリアンタウン(上)
http://www.chosunonline.com/news/20110227000031
 東京・新大久保のコリアンタウンはまさに「韓流」の聖地だ。
サムギョプサル(豚バラ肉の焼き肉)やキムパプ(韓国風のり巻き)、サムゲタン
(鶏の腹に高麗人参、もち米などを詰めて煮込んだ栄養食)などハングルのメニューや
看板を掲げた韓国料理店が立ち並び、韓国食材の専門店まで軒を連ねている。
一見しただけでは、ソウルなのか東京なのか分からないほどだ。
ドラマ『冬のソナタ』が大ヒットした2004-05年ごろ、新大久保にはペ・ヨンジュンや
チェ・ジウなど韓国俳優の関連グッズを売る店が多く登場し、中高年の女性ファンたちが
押し寄せた。韓国ドラマブームが下火になれば、コリアンタウンの人気も冷めるだろうと
冷ややかな声もあったが、KARAや少女時代など「韓国の新生アイドル」が韓流ブームを
再燃させたことで、新大久保は東京の名所として確固たる地位を築いている。
(略)
 新大久保にコリアンタウンをつくったのは、1980-90年代に就職・留学などで東京を訪れた
「ニューカマー」たちだった。
昔から住んでいる在日韓国人とは区別される新世代で、韓国文化をほぼリアルタイムで紹介
している。
新大久保は日本人にとって、現在の韓国文化に最も身近に出会える場所、
つまり日本の中の韓国なのだ。

 だが、チャイナタウンに比べると、物足りない点が多い。
年間1800万人の観光客が訪れる横浜中華街は、規模が大きいだけでなく、
中国文化を伝えるさまざまなイベントが行われている。
今月3日から始まった「中華街春節祭」(春節=中国の旧正月)では、民族衣装でのパレード、
獅子舞公演など、中国文化を紹介する多彩なイベントが17日まで続いた。
中国と日本の関係は最悪の状態と言われるが、
ここでは毎月のようにお祭りや各種イベントが行われる。

【コラム】新大久保のコリアンタウン(下)
http://www.chosunonline.com/news/20110227000032
 一方、東京のコリアンタウンは道が狭い上、建物に特色がないなど、残念な点が多い。
韓流を十分に感じられる文化施設もない。
『冬のソナタ』に出演した俳優パク・ヨンハがこの世を去ったときには多くの韓流ファンが
新大久保に詰め掛けたが、追悼する場所がなく、ある韓国料理店に設けられた小さな焼香所を
訪れるほかなかった。
新大久保では時々、韓流スターによるサイン会が開かれるが、日本のメディアから
「場所が狭いため事故に発展する危険がある」と指摘されることもある。
韓国政府が後援する「日韓交流おまつり」が開催される場所も、新大久保ではなく
六本木ヒルズだ。
韓流ブームのおかげで、新大久保は毎日のように日本のテレビ番組で取り上げられているが、
韓国料理の紹介だけで終わることが多い。
世界を席巻する最先端の韓国製品を紹介する展示スペースもない。
また、韓国政府が2009年に設立した「韓国文化院」も、コリアタウンとは別の場所にある。

 韓流が日本で突風を巻き起こしているにもかかわらず、
 韓国商品で人気が出たのがマッコリ(韓国式濁り酒)と
 焼酎程度しかないことも、こうした理由と関係があるはずだ。


昨年、韓国の貿易黒字は過去最大を記録したが、対日貿易では逆に赤字が拡大した。
新大久保が韓国料理だけでなく、韓国のさまざまな文化や最先端の製品を紹介する
生き生きとした真のコリアンタウンになるためには、韓国政府と企業がより一層の関心と
努力を注ぐ必要があるだろう。

車学峰(チャ・ハクポン)東京特派員


その土地には、歴史がある。
コリアンタウンなどと呼ばれる町ではない。


新宿百人町、これがこの町の本当の名前だ。
かつてこの町は、東京有数の高級住宅街だった。
●江戸幕府 鉄砲百人組
 鉄砲組百人隊の由来と足跡

 http://www.edo-hinawa.com/archives/cat_50150921.html
 11e622da.jpg
 徳川家康が秀吉の命により「江戸」に入府したのは、天正18年8月1日(1590年)
のことであった。この家康とともに先陣を務めたのが伊賀の地侍、服部半蔵正成を頭領と
する鉄炮同心百人および玉薬同心(弾薬製造)であった。

 当時の江戸は以前、小田原北条の統治下にあったため、家康はその残党が特に江戸の西郊より
攻めてくることを恐れ、三河時代からの腹心であった内藤修理亮清成に鉄炮百人組を預け、
現在の新宿1~2丁目周辺に駐屯させ、その防備と警戒にあたらせたのが鉄砲百人組の始まり
となった。その10年後(1600年)家康は、「関ヶ原の戦」に勝利し天下を制することに
なったが、以前から「鉄炮」の威力に注目していた家康は、幕府創設にあたり鉄砲百人組を
徳川幕閣の中にとり入れ、駐屯から定住化させるため、
組屋敷を後の内藤宿(四谷大木戸から1,2丁目)と大久保百人町に設けた。

百人組創設当初は老中直轄支配であったが寛永の改革後、旗本へ統合され若年寄が指揮する
ことなり寛永12年久世三四郎広當が組頭となり、現在の都立大久保病院周辺に
1万3000坪の広大な抱屋敷があった。

「百人町」の組屋敷の構造は、道路幅が三間幅(一間は1.8m)と狭く、間口を狭くし
奥行きを三十間から五十間とウナギの寝床のように長細くすることで、戦略上一度に多数の
敵が侵入できぬように設計した。同心屋敷の総面積は、15万2000坪と広大なものだった。

また、北側に隣接(百人町3、4丁目)して火縄銃、大筒の練習場に使用する「角場」
(実弾射撃場)を約8000坪設けていた。
江戸幕府崩壊後の明治6年、これらの敷地は旧日本陸軍発足とともに「戸山ヶ原練兵場」へと
移行された。

大久保百人町の植木は鉄砲百人組が定住後、元来この地に自生していた「つつじ」を
宝暦年間(1751~64)から、任務の傍らに栽培を始めたのが事の起こり。
江戸時代中頃には市中で大変有名になり、文化11年(1814)刊行の「遊歴雑記」や
「江戸名所図会」の錦絵にも掲載されるほど評判になった。

鉄炮百人組同心の俸給は30俵2人扶持と低く、家計を助けようと各屋敷内で栽培が盛んに
なった。特に有名なのは、鉄炮同心・飯島武右衛門屋敷。
明治末まで隆昌を続けたが、周辺は次第に住宅化され、そのつつじも日比谷公園に移された。

戦後、昔日の思いを偲ぼうと「つつじ保存会」の人たちによって、毎年4月に「つつじ祭」が
皆中稲荷神社境内で開催されている。
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●皆中稲荷神社
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%86%E4%B8%AD%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

●大久保百人町
 http://corgi.m78.com/okubo/okubohyakunincho.htm
 保善高校の西,山手線と国鉄戸山アパート,国鉄戸山ヶ原寮に挟まれた三角地帯に,
朝鮮の人々がまとまって住んでいて,国鉄からJRに変わった1987年頃,立ち退き交渉が
まとまったという
(大正時代から続く商店の若主人の話).
1970年と1980年の住宅地図(公共施設地図航空株式会社)でこの場所には
「日朝連合会新宿支部戸山分会」の文字があり,
ほとんど日本姓だが30以上の家がまとまっている.

 明治44年(1911年)の「東京府豊多摩郡淀橋町大久保村」という地図を見ると,
大久保村大字東大久保の字新田裏から流れ出て字前田甫で網目に分かれて北野神社
(いまの西向天神)の西の麓を北上して行く川が描かれている.
大久保の地名の元になった凹地を流れる蟹川(カニガワ)である.

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 1985年ごろから徐々に外国人登録人口の増加が急になっており,これがニューカマーと呼ばれる
人々である.逆に1988年から急激に日本人の住民登録人口が減少している.
近年人口の回復傾向にあるが,外国人の増加の寄与するところが大きい.
「韓国では1988年ソウル・オリンピックを前後して海外渡航の制限が緩和され,
 それまでまばらだった日本留学が本格化した.」(ソン・ウォンソク,2005年)というが,
韓国・朝鮮の外国人登録人口は1982年から中国は1983年から急増している.

 大久保1丁目では外国人登録者数が住民総数(住基台帳住民人口+外国人登録人口)の50%に迫る
勢いであり,2003年から外国人登録者の世帯数が全世帯の過半数を超え,
2005年からは外国人登録者の女性が全女性の過半数を超えた.

「外国人と共に住む新宿区まちづくり懇談会」(略称:共住懇)の事務局長である山本重幸氏は
「大久保に外国人が集まった理由について,80年代後半,新宿区のなかでも大久保と百人町は
 バブルの影響をあまり受けず,古くからの住宅地と地域の商店街が残っていて,他の地域より
 安い家賃と交通の利便性で外国人が集まりやすかったのではない(か)」
(ソン・ウォンソク,2005年)という.

しかし,
「大久保2丁目町会会長.スポーツ洋品店を経営し,全国に手広く店舗を展開しているIさん
 『この5年来の変化といえば,バブル以後過疎化しました.
  住民も減りましたし,お店も減りました.
  歩いてみると,空き家,空き地がずいぶんあります.
  地主はほんのわずかですよ.
  借地の人は等価交換で7割の借地権を売って出て行くわけです.
  ・・・バブルの影響で一挙に値上がりした.』」
 
(奥田 道大,広田 康生,田嶋 淳子,1994年,83ページ)という話とは矛盾する.

 土地公示価格の年変化のグラフを見れば大久保もバブルの影響をまともに受けており,
1980年台後半はバブルの真っ最中である

だが,バブルの影響はまともに受けても,バブルは崩壊して地価は下がったし,
たとえ下がらなくても空き店舗や空き地が出来た後には,いずれは安く貸すか,ビルを建てて
テナントを入れるしかないのも事実であろう.
住宅でも空き家が埋まらなければ安く貸すしかない.

奥田は 大久保一丁目の外国人登録人口が20%を超えていることが驚きであるとし,
届け出をしない非登録人口は最低限行政登録人口と同数,
 ないしこれを上廻る実勢にある
」から
「新宿区の調査地域では登録,非登録を含めて外国人人口そのものは
 優に三十%の線を越えていることになる.」
(奥田 道大,広田 康生,田嶋 淳子,1994年,12ページ)と述べている.

大久保1丁目では,いま外国人登録人口が約50%なのだから,
もしここにも,同数の外国人非登録人口が居るのなら,
外国人の割合は人口総数の2/3を占めていることになる.
街で聞こえる言葉が日本語でないのは当然である.

(略)
「1970年代に朝鮮の人々が
 まとまって住んでいた地域があった.
 国鉄がJRになったころ立ち退きが行われ,
 補償金を得て商売を始めた人たちもいた」

(大正時代から続く書店の若主人Mさんの話)というから,
私は,その人たちを頼りに日本にやってくる人がいて,徐々に大久保に韓国人が増えてきて
いたのではないかと考える。
(以下略)
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ウィキにも
「終戦直後、戦地から復員した人々が新大久保駅付近に楽器修理店を出したことが契機となり
 楽器店が増加して、「音楽の町」「楽器の町」と呼ばれた。
 そこに、日雇い労働者や在日朝鮮人などが空き地や山手線・中央・総武線のガード下を
 不法占拠して住みつくようになり、現在の大久保界隈の元になるバラック街が形成された。


 1950年代には
 済州島四・三事件や朝鮮戦争の影響で
 朝鮮半島から逃れてきた朝鮮人が流入。
 現在のようなコリア・タウンが成立した。


 1950年にロッテ新宿工場が操業を開始すると、雇用を期待した本国の朝鮮人や在日朝鮮人
 などが更に集まった。
 簡易宿所も増え、1960年代には一時東京では山谷と並ぶ寄せ場となっていた。

とある。

その中で、保善高校の西,山手線と国鉄戸山アパート,国鉄戸山ヶ原寮に挟まれた
三角地帯にまとまって住み着いていた朝鮮の人々が、国鉄からJRに変わった1987年頃,
立ち退き交渉によって金を手に入れ、新大久保に店を出し始めた。
そして、彼らを頼って出稼ぎにやってきたニューカマー達が、バブルの土地高騰と土地転がしで
この町を去っていった日本人に変わって、住み始めたことが始まりなのだろう・・・

またロッテの新宿工場がこの地にできたことが大きな要因なのだろう。
何故、この大久保百人町に工場を建てる事ができたのだろうか?
http://unkar.org/r/history2/1171095674/49-52
 太平洋戦争のさなか、さまざまなアルバイトをしながら大学に通っていた重光が、在学中
(46年3月卒業)に事業を始めるきっかけとなったエピソードがある。
「辛(重光)氏自身が語っているところによると、日頃からつきあいのあった“ハナミツ”
 という 質屋を営む老人から、6万円を出すから工場をつくって不足している旋盤用の油を
 生産してみないかと申し出があったという。
 それで工場を始めるわけですが、いくら親しくなっていても、 その当時の在日の置かれて
 いる立場を考えれば、日本人がポンと大金を出すとは考えにくい。
 しかも、辛氏はまだ学生ですよ。眉唾としか思えないんですがね」(韓国紙記者)

 戦時中と現在の貨幣価値を公務員の初任給や消費者物価で比較すると、少なくとも1500倍
 以上。となると、当時の6万円は9000万円以上ということになる。
 日本人か韓国人かは別にしても、それだけの額を借用書1枚で20代前半の学生に出資するとは、
 にわかに信じられない。
 また、ハナミツなる老人についても、質屋だったこと以外、具体的なことはほとんど語られて
 いないのである。

 ともかくも、資金を得た重光は東京・大森に工場をつくり、旋盤用の油の生産に乗り出した。
だが、まもなく空襲を受け、工場は全焼。次に東京・八王子の民家を手に入れたが、工場が
順調に稼動し始めた矢先に、やはり空襲で全焼してしまった。終戦の数日前のことだった。
     (中略)
 戦争が終るとすぐに、重光は油脂を大鍋で煮て、石鹸やポマードをつくり始めた。粗悪な製品
だったが、つくった側からすぐに売れていった。
 それから半年後の46年2月、東京・荻窪に「ひかり特殊化学研究所」という会社を設立した。
石鹸やポマード以外の化粧品も手がけた。商標名は「ロッテ」とした。(中略)最初の頃は飛ぶ
ように売れたが、しばらくすると、大手化粧品メーカーが生産を再開し、次第に売れ行きは落ち
ていった。
「そんなとき、辛氏にチューインガムをつくらないかと持ちかけてきた友人たちがいた。化粧品で
儲けた辛氏の金をアテにした話だったが、やってみると、これがまた、当たりに当たった。ところ
が、しばらくすると、友人たちは辛氏をのけ者にしてガムをつくり始めた。怒った辛氏は、彼らを
見返すために、自らガムの製造販売に乗り出すことに決めた」(韓国紙記者)
 こうして48年6月、ひかり特殊化学研究所を改組し、ロッテが誕生した。
     (中略)
 重光はまずハリスを目標にした。1950年3月には、その2年前に購入してあった東京・新宿区
の土地に、工場と本店を移転し、ガムの生産を本格的に開始。

 徹底した宣伝戦略でライバルを追い落とし、60年代後半にはガムのシェアの5割を占めるまで
 になるロッテだが、重光は気が気ではなかった。68年末に開かれた日米合同会議で、3年後の
 72年初頭からガムを自由化するとの話が持ち上がったのだ。
 リグレー社が日本に上陸すれば、太刀打ちできないのは目に見えていた。(中略)

 「重光氏は脅威を感じ、深い関係にあった岸信介氏にリグレー進出阻止を頼んだ」
 と話すのは、政治部OBだ。
 「リグレーが日本に進出する72年、関税率は逆に35%から40%に引き上げられるという
  事態になりました。岸氏の命を受けた筆頭秘書の中村正芳氏が農林省や大蔵省に強く
  働きかけたん です」
     (中略)
 「岸と重光を結びつけたのは町井久之(韓国名・鄭建永)です。
  兄貴分にあたる児玉誉士夫を通して岸と懇意になった町井が、
  重光を引き合わせたのだと思われます」

 町井は戦後、愚連隊を束ね、暴力団「東声会」を結成。東京・銀座界隈では「銀座の虎」と
 恐れられた。
     (中略)
「戦争末期の物資がない時代に、どうやって旋盤用の油の原料を手に入れたのか。
 さらには、重光は戦争が終わってすぐに、石鹸や化粧品をつくり始めている。
 原料の油脂はどうしたのか。
 闇物資を調達するしかない。
 どうもこの頃、調達に町井が介在していた節がある
」(週刊誌記者)


猛牛(ファンソ)と呼ばれた男―「東声会」町井久之の戦後史猛牛(ファンソ)と呼ばれた男―「東声会」町井久之の戦後史
(2009/02)
城内 康伸

商品詳細を見る

 http://yaplog.jp/kagawakazuko/archive/870
 この書評を読むと、
 ロッテの新宿工場の土地の入手に町井久之(韓国名・鄭建永)が絡んでいたのなら
 まともな方法で入手したのではなさそうですね・・・

大久保百人町がコリアンタウンになってしまった経緯は、どうみても
朝鮮日報記者の車学峰(チャ・ハクポン)東京特派員の思うような、在日の人々が苦労して
頑張って手に入れた町では無い。

町は確かに生き物で、時代によって変幻自在に変わってゆく・・・
だけど、その土地には歴史が刻まれている。
かつて武家屋敷と百人鉄砲隊の宿舎と、長閑な農村だったこの町には
保存会の人々がその歴史を風化させぬように尽力なさっている。
http://www.edo-hinawa.com/
ookubo100206_010.jpg

ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲の屋敷があったのも、この町です。
大正時代、この町の住人に竹下夢路が手紙を書いています。消印は(大正)3年5月28日。
yumezi-1.jpg
宛先は『(東京)府下大久保百人町 幸徳秋子 様』
竹久夢二と社会主義者の幸徳秋水は、機関紙”平民新聞”のカットを通じて親交があり、
手紙を出した頃は幸徳秋水は既に無くなっていて、未亡人秋子宛てに書いたもの・・・

●新大久保商店街の歴史     
 http://www.e-ios.co.jp/ookubo/history.htm

そして、忘れてならないのが
●新大久保駅の東側にある西大久保公園
 ookubo20100723_1999222.jpg
昭和20年の大空襲で、新宿から大久保にかけて激しい空襲にさらされ、
この町は一面焼け野原になってしまいました。
その時の空襲で亡くなった多くの人達を仮埋葬した場所が、この西大久保公園なのです。
今は周囲をハングルだらけの店で囲まれてしまっているこの公園は、
そのような悲しい歴史を持った公園なのです。

脳内花畑の日本人が寒流に浮かれ
korea22a83c79-s.jpg
「韓流大好き! 日本なんかより韓国のほうが良いよね~
 韓国料理サイコー!!!」
などと、暢気に列を作っているあなた達の足元の土地には、この様な歴史があり
大空襲で命を奪われた方々の、悲しい魂が眠っている事を知ってください・・・。  ookubohis22.jpg
戦前、この写真に写っている子供たちが住んでいた街だったことを・・・

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Comments 7

トマト

日本です

日本の土地に何しようとしてるんですか?この人達は…

2011-03-04 (Fri) 03:30 | EDIT | REPLY |   

名無しさん

まともな方法で土地を取得したのではないと思っていました
。神戸には3年近く大半の店がシャッターを下ろしたままの
商店街があります。借りようと思って電話したら日本人かど
うか聞いてきたそうで、日本人だと答えると考えられないよ
うな高額な賃貸料を提示してきたそうです。
そのあたりの土地も昔は日本人が住んでいる所ですが、今は
違います。その場所はトーアロードにあるのですが、その道
路の反対側もどうなるのか気になります。
神戸はもともと中国人が多い土地ですが増えてきていると実
感します。

2011-03-04 (Fri) 08:34 | EDIT | REPLY |   

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2011-03-04 (Fri) 09:10 | EDIT | REPLY |   

名無しさん

ゴミフジのリアルスコープって番組で又放送しますよ、新大久保韓流マンセー!って。フジテレビってマジで日本に要らなくないですか?

2011-03-05 (Sat) 20:30 | EDIT | REPLY |   

原元

大阪鶴橋

JRガート下の問題に歓心かありPegeを読ませて頂きました。
私自身ニューカンマで大阪鶴橋JRガート下の建物を借りて飲食店を経営しています。建物主は在日韓国人です(現在)以前は北朝鮮籍と言ってました。2階が住居なので、家から通いに掛かる時間と交通費を節約する為に借りています。4月始めに雨漏りがあり大家さんに梅雨に入りますので、早く直してくださいと言いましたか、5月中旬にJR関係者と一緒に来て大家さんJRさんに直してもらうつもりで話をしてます。
でもJR側は借りる時の契約は線路の下なので、屋根をつけてのことらしくでも隣も誰も屋根をつけてないです。
JR側は線路の下は雨漏りが予測される上で貸しているので、雨漏りは建物主が直さないといけない契約だそうです。
でも4月からの雨漏りで大家さんはJR側に直してもらうつもりなので、問題が長引きそうなので、雨漏りのよって飲食店経営が難しいので、賃貸解約と資金全額を私から求めると大家さんから内容証明で敷金全額を返さないとの内容と店を現状復帰してちょうたいとの内容でした。この大家さんは強制連行でつれて来られた人でもないのに何の手を使ってJRガートの下を手に入れてたか分かりませんか、40年まえからこちらで喫茶をして自分の住まいまで別に購入したにも係らず
私から賃料も確定申告もしないまま6年3ヶ月マルコと儲けしたのに私が今年の確定申告するさいには自分の奥さんの名前でして欲しいとのことでした、こんなに国際的に人と者が
動く時代なので、いろんな考え方がいるのは当然だと思いますか、まじめに納税をする人がニューカンマで自分らが先に来られて差別されていったからと言って納税しなくても言いと思う人が多くいればその国は国とうしてなり経ったないと
思います。東北地震で沢山の税金が使うことになるのにズルク生きろうと思う人は人間とうしてゆるさないです。

2011-06-26 (Sun) 14:45 | EDIT | REPLY |   

原元さんへ、あや

鶴橋の歴史

1910年の日韓併合後、1923年に済州島と大阪をつなぐ
直行便「君が代丸」の船の就航をきっかけに、
済州島から働き口を求めて多くの人が移住します。
当初は、多くの町工場が有った猪飼野周辺に住んでいたそうです。
終戦後、鶴橋には闇市ができて賑わいますが、警察によって
一旦撤去。
その後、行商の女性がキムチの販売を始め、再び朝鮮半島出身者や
中国・台湾出身者が集まって商店街を作っていきます。
どのような経緯でガード下の使用が認められたのかは
こちらのサイトに当時の大阪の様子が記載されています。
http://osakadeep.info/2007/08/17/143019.html

この町は済州島出身者が多い事から、「済州島四·三事件」の時に
日本に密航してきた人達が同郷人を頼って、移住しているので
済州島出身者が多いのですね。
彼らは、共産主義者と共闘したので北朝鮮籍だったのだと思います。
昭和30年代には、鶴橋には若者を中心とした愚連隊「明友会」が
暴れまわっていたそうです。
読売新聞 昭和35年8月22日の朝刊記事には
「明友会はさる30年3月頃、城東線鶴橋駅前の
 国際マーケットをうろついていた不良朝鮮人約十人が
 中心となって会を結成。
 始め生野、東成を縄張りにしていたが、その後、ミナミに進出。
 31~32年頃、キャバレーHやマージャン屋などを根城に
 恐喝、傷害などのあくどい暴力で千日前一帯を縄張りに
 収めた。

 32~33年に掛けて、縄張りをめぐって同じくミナミの
 愚連隊「ゼロクラブ」(南道会)、交星会(蔡林錫会長)
 と再三乱闘を繰り返し、ミナミの無法者として市民に恐れられている」
 と、報道されています。
 この愚連隊「明友会」は、全盛期は1000~2000人
 の在日朝鮮人組織でしたが、日本最大の暴力団・山口組3代目組長に
 逆らった事から、猛烈な襲撃に遭い解散したそうです。
 そちらではとても有名な話なのだそうですから、
 原元さんもご存知ではないでしょうか?
 「明友会」解散後、幹部は別の暴力団に入ったり東京に進出したり
 済州島でホテルを経営している人もいるそうです。
 鶴橋の商店街には、元「明友会」という人も多数いるそうです。
 犯罪歴があったり暴力組織にいた人は、日本国籍を取得できませんから
 帰化せず韓国籍のまま居住しているのでしょう。

 正規の手続きで永住しているニューカマーの人達にとっては
 役所などがオールドカマーの問題を放置している状況は
 納得がいかないかもしれませんね。
 彼らは昔、役所に押しかけて脅したり、組織的に活動して
 今の状況を"勝ち取った"のですから・・・

 雨漏りの件ですが、弁護士に相談してみてください。
 市役所に相談すると、紹介してくれる場合もあります。
 きちんと税金を納めている人が、損をする事はおかしいですね。
 JRと大家さんの契約が優先されると思いますが、
 弁護士や市役所に相談して解決される事を祈っています。
 頑張ってください!

2011-06-27 (Mon) 02:11 | EDIT | REPLY |   

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2012-01-20 (Fri) 14:48 | EDIT | REPLY |   

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