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列島南北、結ぶ縄文土器 東北の亀ケ岡文化、沖縄で確認

★列島南北、結ぶ縄文土器 
 東北の亀ケ岡文化、沖縄で確認

 朝日新聞 2017年7月30日
 
http://www.asahi.com/articles/ASK4V53B1K4VTLZU007.html
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海に囲まれた沖縄は独自の歴史を歩んだ。
縄文時代も例外でなく、
はるか東北地方などとは別世界だったはず。
そんなイメージに再考を迫る物証が
沖縄県北谷(ちゃたん)町で確認された。


縄文晩期の東北を代表する
亀ケ岡文化の土器だ。

どうやら縄文時代、
日本列島の両端はつながっていた――。


 南西諸島の歴史は独特だ。
本格的な農耕社会の登場は本土に比べて
ずっと後だし、戦国の世の本土を尻目に
琉球王国は海上交易で利をなした。
先史時代も同じで、文化的な違いから
貝塚時代の名でも呼ばれてきた。

 そんな沖縄で今年初め、
2500年ほど前の東北の土器が確認された。
米軍返還地内にある平安山原(はんざんばる)
B遺跡の出土品に、大洞A1式という、
縄文晩期後半を中心に青森や岩手、
北海道南部などで花開いた亀ケ岡文化の
土器片があったのだ。台付きの浅鉢らしい。
 表面には「工」の字に似た模様

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(引用ここまで)




★北の縄文 はるか南へ
 /沖縄で亀ヶ岡式?土器片出土

 WEB東奥 2017年1月25日(水)
 http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170125021838.asp


★東北に分布の土器とみられる破片
 沖縄で初めて発見

 NHK「かぶん」ブログ 2017年01月25日 (水)
 http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/261529.html
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沖縄県北谷町の平安山原B遺跡で見つかったのは、
縦横およそ5センチの土器の台座の一部で
「工字文」と呼ばれる帯状の模様が施されています。

町の教育委員会によりますと、
およそ2500年前の縄文時代の晩期に、
今の青森県など東北地方を中心に分布した
「亀ヶ岡式土器」の特徴と一致することが
確認されたということです。

東日本を起源とするこの時代の土器は、
これまで鹿児島県の奄美大島や徳之島などで
見つかっていますが
、沖縄で見つかるのは
初めてだということです。


この遺跡では、ほかにも複数の弥生土器が
確認されていることから、町の教育委員会は
「縄文時代晩期から弥生時代前半に
 文化の交流があったことを示唆する
 貴重な発見だ」としています。

(引用ここまで)




★青森)沖縄で出土の
 「亀ケ岡式土器」、弘前大で鑑定

 朝日新聞 2017年3月7日
 http://www.asahi.com/articles/ASK364FQ7K36UBNB00C.html


★北谷の土器、
 作ったのは北陸・中部出身者

 琉球新報 2017年5月19日 13:03
 https://ryukyushimpo.jp/news/entry-498717.html
北谷町伊平の平安山原B遺跡で発見された
大洞系土器の破片とみられた土器が、
東北地方の亀ケ岡文化の大洞A1式をモデルに
北陸・中部出身者が縄文晩期(約2500年前)に
西日本で制作したものだと分かった。

青森県の弘前大学人文社会科学部の
関根達人教授と弘前大大学院・理工学研究科の
柴正敏教授が18日、北谷町役場で会見し発表した。
(中略)
関根教授の調査後、柴教授が土器片の
原材料となる土の組成分析を行った結果、
鹿児島県の薩摩半島から南に約50キロの
大隅海峡にある鬼界カルデラが約7300年前に
噴火した際に噴出した鬼界アカホヤ火山の
火山ガラスを含むことが分かり、

今回の発表に至った。

 関根教授は
縄文時代に北海道から沖縄まで
 人の移動があり、
 同様の土器を欲しがる同じ価値観があった
 ことが分かる。
 翁考古学者と地質学者が協力して、
 具体的な土器の制作背景と流れを
 明らかにした考古学会にとって
 大きな発見だ」
と顔を上気させた。
今後関根教授らは、町教育委員会から
平安山原B遺跡や伊礼原遺跡から発見された
縄文前期から晩期の土器片15点の
組成分析を行う。

(引用ここまで)




★沖縄に東北の縄文土器初発見 
 広域な交流の証し

 日本経済新聞 2017/1/24
 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24HC1_U7A120C1CR8000/
北谷町では、
縄文時代にアクセサリーとして重宝された、
新潟県の糸魚川産の縄文時代晩期の翡翠
別の遺跡から出土。

町教委は
「当時の広域交流がうかがえる重要な発見」
としている。
 亀ケ岡式土器は、
沖縄から約2千キロ離れた亀ケ岡石器時代
遺跡(青森県つがる市)で出土したことに由来し、
工芸品のような精緻な模様や作りが特徴。
同じ頃の東北では
精巧な漆器や遮光器土偶なども作られ、
「亀ケ岡文化」として各地に影響を及ぼした。


 町教委によると、見つかったのは、
浅鉢の台部分で、大きさは縦横約5センチ。
全体に工字文と呼ばれる迷路のような模様を
線で表現し、装飾のため表面を赤く塗った跡も
残っているなど、
亀ケ岡式土器の特徴に一致するという。

 2009~10年の発掘調査で、
沖縄のグスク時代(11~15世紀ごろ)の
耕作土の地層から出土。
同じ層からは、縄文時代晩期に相当する
約2500年前の沖縄の土器も多く見つかっている。

見つかった土器片はこの頃に持ち込まれ、
沖縄の土器と一緒に埋まっていたとみられる。
グスク時代の耕作の際に沖縄の土器と一緒に
入った可能性が高いという。


(引用ここまで)


★東北歴史博物館
 http://www.joyphoto.com/japanese/travel/160818/tohokurekishi.html




北谷町では、
 縄文時代にアクセサリーとして重宝された、
 新潟県の糸魚川産の縄文時代晩期の翡翠も
 別の遺跡から出土。



コレですね
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http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/0b6c5ea30a45947b1fddd74be895d4ca
 

★縄文時代に開花するヒスイ文化
 ヒスイの時代

 http://rarememory.justhpbs.jp/hisui/h.htm


★勾玉の歴史(1)勾玉のはじまり
 http://www.magatamaya.com/user_data/jiten01.php
主に、新潟県糸魚川近くの長者ヶ原遺跡や
寺地遺跡に工房のようなものがあった
と思われます。
約3500年前の沖縄県兼城上原遺跡からも
出土され、その翡翠の産地は新潟県
糸魚川産のものと判明しました。
穴もしっかりと開けられたものがこの時代に、
1500Kmもの旅をしたのですね。


大珠は縄文時代の中期に75%
後期には20%と急に少なくなります。
この頃から勾玉をはじめ、管玉や丸玉が
つくられるようになります。
糸魚川周辺から翡翠原石は各地に運ばれ、
玉作りは広まっていきます。
「たまつくり」という現在の地名は、
勾玉をはじめとする「玉作り」が行われていた
ところと考えられています。
(引用ここまで)


★日本の勾玉の歴史は
 紀元前5000年前。

 https://blogs.yahoo.co.jp/ekohousu2006/59248298.html
日本では三種の神器の一つである勾玉。

日本の勾玉の歴史は
紀元前5000年前であることがわかっている。
勾玉というと翡翠(ヒスイ)を連想される方も
多いと思うが翡翠にも
硬玉(ヒスイ輝石)「軟玉(ネフライト」
2種類がある。
世界の宝石で登録されているのは
本翡翠(ホンヒスイ/硬玉)ですが、
中国では硬玉と軟玉のどちらも好まれる。

朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての
新羅・百済・任那の勢力圏内で
大量の本翡翠製勾玉が出土さているが、
実は朝鮮半島では本翡翠は産出されない。


アジアの本翡翠の産出国は
ミャンマーと日本であり、
中国では軟玉(ネフライト)が産出されるが
硬玉の本翡翠は産出されない。

朝鮮半島とミャンマーとの距離を日本との
距離で考えると日本との間に海があるとはいえ
ミャンマーとの距離は20倍以上離れている
ことから朝鮮半島で出土する本翡翠の勾玉は
日本の本翡翠の勾玉ということがいえる。

(中略)
決定的なことに朝鮮半島で大量の
本翡翠製勾玉が出土されているものは、
最新化学組成の検査によって
朝鮮半島で出土される本翡翠の勾玉が
糸魚川周辺遺跡のものと同じものである
ことが判明されている。


私の知り合いの韓国民俗学研究をしている方が
勾玉は韓国から日本へ伝えらえたと
しきりに言っていたことがあったのですが、
最新の化学組成の検査によって
日本が遥かに古く存在していることが証明された。

(中略)
中国の『後漢書』では
"出白珠青玉"
 (倭では真珠と青い玉が採れる)」

と記されてあり、『魏志倭人伝』によると、
「壱与が魏に2つの青い大きな勾玉
 (孔青大句(勾?)珠二枚)を献上した」

と記されている。
また、『隋書81巻 列伝46』 によると、
「新羅と百済は
 倭を珍しい文物の多い大国と崇め、
 倭へ使いを通わしている」
と記しており、
勾玉とくにヒスイ製勾玉が交易品として
重要な意味を持っていたことがうかがわれる。

(全文はリンク先で)




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縄文文化ってロマンを感じますねぇ。
まだまだ解明されていないことが多いけれど
最新の科学分析で、今回のような発見があり
古代の文献に記載された証明をしたり、
イデオロギーに侵された岩盤学説を、
木っ端みじんに粉砕できる。

文科省は、教科書に
もっと縄文時代の記載を増やすべきです。



★沖縄の遺跡から古代ローマの硬貨
 2016 09 27
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4451.html 




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Comments 6

都民です。

 縄文時代は、国内だけでなく海外とも交易をしていたし、南米にも行ったという痕跡があるそうです。勾玉や磨製石器なども非常に高度な技術があったり、色々と興味深いことが多くてロマンを感じます。もっと研究が進んでその成果を教科書に反映させて欲しいです。

2017-08-01 (Tue) 08:16 | EDIT | REPLY |   

sakada

>沖縄で今年初め、2500年ほど前の東北の土器が確認された。

沖縄で使用されていた伝統漁船サバニの造船木材は縄文後期3000年前より、宮崎県日南市の飫肥杉とされている。飫肥杉が杉の中で一番油分が多いので伝統漁船サバニに最適だ。

その、3000年以上の沖縄~宮崎交易の史実の為、10年ぐらい前に沖縄糸満市海人が大型のサバニレプリカを日南市役所に贈呈している。今も沖縄本島中部のうるま市で越来造船が飫肥杉で沖縄伝統船を造船しているが、琉球新報と沖縄タイムスが志位的に内地由来のサバニを報道していない、報道したら琉球民族が先住民族と言う嘘が曝されてしまうさ。

その、北谷町で2500年前の東北の土器に付いて、琉球新報と沖縄タイムスが知る限り報道しない事実が、同じ北谷町で出土した5000年前の福岡県朝倉市の縄文土器だった(福岡では西日本新聞が2015~16年に報道している)。なぜなのだろうか、琉球新報と沖縄タイムスが報道したら先住民族沖縄の夢が更に遠のいてしまうさ。

糸魚川の翡翠出土に付いて、2000年前の弥生時代富山遺跡の墓地で、同じ地層より沖縄縄文人の混血以外に沖縄縄文人の純血が出土した。依然と、沖縄~内地の交易で沖縄が糸魚川の翡翠を買いに来ていた。その、女王卑弥呼が生まれる150年前に福岡で中國の官僚が外交文書を書く為に使用した硯が2年前に出土した。

2000年前って原始時代ではない、沖縄~内地~中國の海路貿易が盛隆で言葉と文字が文書が共有されていた。その理由は、1万年前まで数万年の間で全て陸続きだったから沖縄本島住民が日本列島往来していた。

その陸続きだった残滓が宮崎県最南部都井岬の国天然記念物の蘇鉄で、DNAが沖縄の蘇鉄と同じだった。いま、18000年前の沖縄本島住民のDNAが一番多いのが西日本だ。日本人の祖先が沖縄本島住民なんだ。その、沖縄~中國3種~シベリアとの渡来人の5種混血が日本人で在り、6000~8000年前より内地で爆発的に増えた、混血は民族を強くする。

序に、日本人が沖縄本島住民由来に付いて、琉球大学医学部が、(今の)沖縄本島住民と内地住民の遺伝子が互いに影響し合っていると発表しているが(中國大陸となんら遺伝子影響がない)、琉球新報と沖縄タイムスが絶対報道しない、先住民族主張が崩壊してしまう。

2017-08-01 (Tue) 23:55 | EDIT | REPLY |   

祖先は縄文人

北東北人と沖縄人は兄弟だ

青森、秋田、岩手の原住民と、沖縄人は本当に似ている。何より美男美女が多い。関西のような、扁平顔はいない。

2017-08-02 (Wed) 17:11 | EDIT | REPLY |   

sakada

>祖先は縄文人さん   北東北人と沖縄人は兄弟だ

日本の先住民族であるアイヌ民族の遺伝子解析が未だ為されていないんだ。ゆえに、なんとも言えない。なぜなら、当時のアイヌ民族の南限地がどうやら群馬県辺りで今もアイヌ民族由来の地名が残っている。2000年前頃の群馬県と言えば、群馬の名の通り軍用や商用の馬の放牧地帯で、住民も主に狩猟採集だった。

18000年前より日本列島を往来していた地続きの沖縄本島住民のDNA(日本人のみ保有するDNAで在り、中國人と朝鮮人の純血にないDNA)が、移動史で北上に連れて減少し関東手前迄で絶えていた。

どうやら、沖縄本島住民の移動史が糸魚川辺り迄だったのだろうと見做している。その、縄文時代に於いて沖縄の交易品が北海道遺跡より出土しているのは周知の事実だが、沖縄本島住民とアイヌ民族の共通性は今時点では見いだせていない(今の伝統文化と言語と思想に共通性が無い)。

今の日本人の原型が、沖縄本島住民・中國人3種(一番多い)・シベリア人の5種混血なので、今後もアイヌ民族の遺伝子解析が待ち望まれる。

東北人の美男美女に付いて、同じ混血でも東北が地勢的にシベリア渡来人が多いのが理由に在ると想っている。そもそも、アイヌ民族なら北海道よりも外国に多いさ。因みに、琉球新報と沖縄タイムスが毎年先住民族のアイヌ民族と沖縄本島住民が伝統を共有するような記事を連発しているが、今時点何等科学的な証明など一切ない、単に先住民族と言う言葉に想いを寄せてアイヌ民族の存在意義を悪用している。

3月に沖縄で民族主義者の方が沖縄の祖先が中國由来(中國より渡来の那覇市久米住民、たった600年前)趣意の妄想論を出版した、その方(奄美大島出自)に科学的な証明で誤り正したら、返信で「私は科学も遺伝子も信用しない(史書と言う)」と来た、逝っていた。

2017-08-02 (Wed) 21:09 | EDIT | REPLY |   

弓取り

縄文4割 弥生6割

上の上のコメさん。
>関西のような、扁平顔はいない。
笑いかけました。たしかに、特徴のある人がけっこういらっしゃる。だけど古くからの商都ですわいな。
欧米人も、だんだん日中韓の違いを見分けられるようになったとか。

それはさておき、日本人は海洋民族=うみんちゅうということですね。海岸線が大きく変わる中で、生活様式も変わった。海の道は、陸の道より自由度が高い。
江戸時代の高度な物流と経済と文化成熟の秘密は、縄文よりもさらに古くにあるのかも。

2017-08-02 (Wed) 22:46 | EDIT | REPLY |   

sakada

>弓取りさん  縄文4割 弥生6割  扁平顔  海の道  江戸時代

顔に付いて、遺伝子解析の様な分り難い説明よりも、その顔を観たら一目瞭然です。今の現代人の顔で、日本人の顔が中國人の顔とそっくりだ、しかし中國人の顔と沖縄本島住民の顔がまったく似ていない事実が在る事です。

日本人が日本人である証明は、18000年前の沖縄本島住民のDNAがあるのかないのかで在って、それ以外に科学的な日本人の証明が存在しません。

中國人の顔と沖縄本島住民の顔がまったく似ていない事実は、地勢的な位置で交流前提条件が在ったのに沖縄が中國の遺伝子の影響が無いと言う証明です。

今の内地住民が沖縄本島住民の顔に似ていないのは、沖縄本島住民が日本列島を往来していた時代の10000年後の、中國黄河文明の創世記頃の中國渡来人が主な混血が6000~8000年前より急増した事に依ります。

例え、沖縄本島住民のDNA保有した純日本人でも混血急増で大陸の顔に為ったのです。

海の道は日本の場合には、6000年前頃より沖縄と内地の間が貝の道と言う交易ルートが弥生時代迄存在していた。

沖縄と内地の地続きが最終氷河旧石器時代の10000年前に終了して海面上昇で絶えてしまったが、また7000年前の大隅半島沖のカルデラ爆発で九州縄文人が全て絶えてしまったとされているが、その1000年後には沖縄と九州等の内地との間で貝の道と言う交易ルートが盛隆をきわめていた。

その後、2000年前の弥生時代は中國との貿易が急増して大量の中國文化輸入で日本が発展した(沖縄繋ぎよりも直接貿易に為った)、そして7世紀の飛鳥時代に遂に日本国家が誕生したのも、全てが中國文化導入の内地の各々の鴻臚館と言う貿易センターの発展の流れに在った。

その様な各地の鴻臚館の利益の中でも、福岡の鴻臚館に狙いを定めていたのが平清盛だった、利益占有で日本支配が揺るぎないものに成るさ。その後の流れで面白い事実が、仏教が内地より沖縄に伝播した・南下した文化と言う事だ。

その、日本の対中國貿易は江戸時代よりもずっと前から、九州の豪族達が沖縄密交易も一緒に、そして朝鮮半島密貿易迄も、幕府に内緒で行ない利益を上げて、足利時代の薩摩は時の足利将軍の財政を支えていた程だった。

それで、4世紀前に江戸幕府家康公が薩摩の沖縄武力占拠稟議書(沖縄を日本に組入れ)を承認した。因みに江戸幕府前の中國明時代に、薩摩や宮崎の豪族の対明密貿易用の風待ち港が志布志湾の史跡に為って宮崎県串間市のツーリングコースになっている。その宮崎県の志布志湾風待ち港より薩摩の朝鮮半島密貿易船も出港していた。

因みに、沖縄が史上で一番栄えた時代が4世紀前薩摩の沖縄武力占拠間接統治時代で在り、江戸文化の導入で今の沖縄のあらゆる伝統文化が創出された。その沖縄のあらゆる伝統文化の象徴が紅型で在り、図案に沖縄の植物がない、全て江戸の花だった。

2017-08-03 (Thu) 11:00 | EDIT | REPLY |   

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