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韓流研究室

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日本の料理の根元は韓半島、蕎麦は韓国起源・・・またかよ!

さじを持つ前:韓国・日本料理文化、日本の料理の根元は韓半島
【慶南道民日報コラム】[06/22]
http://www.idomin.com/news/articleView.html?idxno=320013 韓国語
 日本は独島(ドクト)を竹島(竹島、たけしま)と呼び、自らの土地だと我を張っており、
私たちは自国の領土問題で国民や政府が強力に対応している。
ごり押し主張には当然強力な対応をとらなければならない。 しかし韓国料理が日本料理に
化けて世界外食市場で大手を振って歩いていることには、誰も関心を持たず、対策をとろうと
する政府、団体、学者など一つもない。 自国の領土侵略だけが侵略でない。
文化侵略も侵略だ。

 日本は韓国のように主食・副食がはっきりした食生活を持っており、韓国料理が日本料理化
するのは冷めたおかゆを食べるよりさらに簡単だ。ニューヨーク、マンハッタン(Manhattan)に
行けば'Gyu-Kaku,Japanese BBQ Dining'(牛角、日本式バーベキュー)という看板を掲げた
日本式レストランがある。このレストランをランチタイムに行けば、100座席余りが満杯になって
店の前に並んでから食事をすることができる店だ。
重要なのは日本料理店、牛角レストランの料理の50~80%が韓国料理を日本化した食べ物だ。
いや、厳密に話して名前だけ日本語に変えた韓国料理だ。
'カルビ(Karubi)'、'ビビンバ(Bibimba)'、'キムチ(Kimuchi)'、'チャプチェ(Chapu Che・雑菜)'
から'ナムル(Namuru)'、'クッパ(Kuppa)'などがそうだ。

 このレストランの現地従業員はもちろん、現地人らすべてが上で数えた料理が当然日本料理で
あると知っている。他人のものをを自分のものに変身させて売る日本人たちが、私たちと隣同士
に生きている。


 日本化された私たちの料理が世界市場で活躍

 日本の代表料理と言われる、日本そばと呼ばれるそば切りがある、そばの根元やはり朝鮮だ。
日本の<本山荻舟>によれば「一説に江戸時代(江戸時代、1603~1867年)始めに、朝鮮の僧である
元珍が南都東大寺に渡ってきて結着材として小麦粉をソバ粉と混ぜる'ニハチ'(2:8)を教え、
はじめて日本にザルソバが普及した」と記録されている。

 日本ソバはソバ粉100%の'十割そば'から小麦粉1にソバ10の割合で混ぜる'ソトイチ'、
1:9で混ぜる'イチク'、5:5で混ぜる'トワリ'まで多様な比率を自らノウハウで掲げる。
元珍僧侶が初めて日本に伝えた比率は2:8だったと伝えられるが、今でも日本のそば屋の中には
この′ニハチ'(2:8)を黄金比率と考える所が多い。

 タクアンは壬辰倭乱直後、朝鮮から当時江戸時代初期の日本に渡っていって京都の地、大徳寺
(京都市)周知にあった高僧の沢庵(タクアン・1573~1645年)僧侶が作った漬物(野菜を塩漬け
する日本保存食物)だ。



 厳然な文化侵略'終わらなかった戦争'

 上の食べ物らは仏教布教次元で伝えられた食べ物だが、豆腐は辛い歴史を持って日本に伝えられた
食べ物だ。日本、四国高知市県立図書館に所蔵された<皆山集>全10冊中、9冊の記録を見れば
「豆腐に関してどんな本に伝えられている話を見ても、昔この国には豆腐がなかった。
 1592~1595年に長宗我部元親が朝鮮の捕虜らを引っ張ってこちらに戻った時、
 その中に朴好仁という人がいた。その子孫もやはりこの国に住んだが、こちらの領主
 山内一豊が高知城を築く時、パク氏を今の唐人町に置いて働かせた。
 土佐郡鏡川の北側の土地で豆腐を製造し始めた」となっている。

 このように、日本の大部分の食べ物がその根元を韓半島に置いていて、今でも日本の食品学者、
料理研究者、外食業者などは韓国に出入りして、韓国料理らを偵察しに通う。

私たちが私たちの食べ物や文化をさげすんで疎かにする間に、日本は私たちの食べ物を日本化して
世界市場に出している。 独島(ドクト)が私たちの土地であるように、「ガルビ」は明確に
私たちの「カルビ」であり、「キムチ」は「キムチ」だ。
私たちの食べ物を少しずつ日本料理化するのを、私たちはひとの家の火事見物するように見ている。
今日本と料理文化戦争をしているのにもかかわらず。

 食生活文化研究者キム・ヨンボク(米国、カリフォルニア州ASU副総長)


このオッサン、2008年にも同じ様なコラムを書いている・・・
   koewa320013_241378_427.jpg
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/483576
どんだけ、自国の現在の食文化に自信が無いんだよ・・・

さて、江戸時代の初めに『ニ八蕎麦』の製法を伝えたのは朝鮮僧・元珍と文献に記載した
本山荻舟(もとやま・てきしゅう)とは、明治生まれの小説家・随筆家です。
本名は仲造、高等小学校卒業後の明治33年山陽新報に入社し、記者生活を送りながら、
しばしば同紙上に連載小説を書いた。与謝野寛主宰の「明星」同人となり、地元でも同人誌
「星光」「白虹」などを発行する。
のちに上京して、二六新報、報知新聞、読売新聞などの記者になったという人です。
 確かに、江戸時代初期の文献には、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、
茶席などで提供されたりした例が見られ、1643年(寛永20年)に書かれた料理書「料理物語」には
饂飩・切麦などと並んで蕎麦切りの製法が記載されています。

ニ八蕎麦のように小麦粉を混ぜる製法の他、卵や自然薯・ワラビ粉、豆汁、大豆粉等々と
様々なものをつなぎに混ぜて作る製法も作られてきました。
蕎麦がきや蕎麦団子と言う形状から、蕎麦が一体いつごろから麺となったのか。
因みに、蕎麦を麺として食べる国は世界中でもあまり多くは為りません。、中国では、これを「河漏」
と書きます。字からもわかるように、これは、ところてんのように小さな孔から突き出して麺にする
のがその原形のようです。
今まで、最も古く"蕎麦切り"という言葉の確認できるのは、近江多賀神社の慈性の書いた『慈性日記』
慶長19年(1614)2月3日の条に、
「常明寺(江戸)へ…ソバキリ振舞被申也」とあるものであったのですが、1992年に、それよりさらに
40年古い資料が発見されました。
長野県木曽郡大桑村須原にある臨済宗妙心寺派の定勝寺の古文書に、寺の仏殿修理時の
天正2年(1574)の寄進者の一覧表の中に、「振舞いソバキリ金永」とあり、これが蕎麦切りの
初見とされています。


また、江戸初期の寛永20年(1643年)の「料理物語」や、焼鳥の料理法が掲載されている最古の
書籍として有名な、元禄2年(1689年)の「合類日用料理指南抄」には、蕎麦を上手に麺線に加工
する方法として、おも湯や豆腐をすり潰したもの、蕎麦粉の一部を熱湯で糊化させたものを全体に
混ぜ合わせる
等々が紹介されています。

本朝文選(森川許六 宝永3年 1706年)には、
『蕎麦切りというのは、もと信州の国本山宿(塩尻宿)より出て普く国々にもてはやされる…』 

同じ宝永年間(1704年~1711年)の塩尻巻十三には、
『蕎麦切りは甲州よりはじまる。初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに
 米麦の少かりし故、そばをねりてだごとせし、その後、うどむを学びて、今のそば切りと
 はなせりと信州の人かたりし…』と書かれています。

本朝文選よりも10年程前に書かれた本朝食鑑(人見心大 元禄10年 1697年)には、
『蕎麦切りを食べた後この湯飲まねば必ず中傷される。』と、蕎麦湯についての記載があります。

また、「二八蕎麦」の言葉が最初に登場する文献としては「衣食住記」があり、
「享保半ころ、神田辺にて二八即座けんどんといふ看板を出す」と書かれています。

1958年に創刊された本山荻舟著『飲食事典』には、朝鮮僧・元珍が「つなぎに小麦粉を使う」
事を伝えたと書かれていますが、証拠となる文献は紹介されていません。
「一説には・・・」という程度の、そのような伝承があるという事でしょう。
【うどん】の項には
「細線上に切った現在のウドンは昔は切麦と呼ばれ、それの熱したのをアツムギ、冷やしたのを
 ヒヤムギといったが、いつか転じてウドンの名に包括された」と説明がされていて
延ばして作る素麺に対して、切り麦は一本一本を庖丁で切って作ると
紹介されています。

つまり、粉をこねて伸した後一本一本を庖丁で切って作る製法は、江戸時代よりも前に有った。
当時は、麺を茹でるのではなく、せいろで蒸す『せいろ蒸し』!
朝鮮僧・元珍が「蕎麦のつなぎに小麦粉を使う」と伝えたとしても、ニ八蕎麦という配合比率や
蕎麦を茹でて提供するシステムや、食べ終わった後で蕎麦湯を飲むという事を伝えた訳じゃない!
この「ニ八蕎麦」のニ八って小麦粉とそば粉の配合比率と言われていますが・・・
江戸時代には、二八蕎麦だけでなく二六蕎麦も出現しているのです。
そして、小麦粉と食塩水だけが原料のうどんでも二八うどん・二六うどん、更には二六にゅうめん
などがあって配合比率ではとても説明することのできない矛盾に突き当たります。

 例えば宝暦前の「絵本江戸土産」や文化年間の「東海道中膝栗毛」などには「二六蕎麦」と
いう看板が登場しているのです。

蕎麦に小麦粉を混ぜるという製法は、元珍の生きた時代の半島で一般的だったのでしょうか?
半島名物の冷麺は、北朝鮮が起源とされていますが、朝鮮半島生まれの冷麺も、小麦の収穫が
困難だったので、緑豆の澱粉をつなぎに利用していますよね。
朝鮮半島に、蕎麦に小麦粉を繋ぎに混ぜ麺状にしたものが存在し、証拠となる古文書も存在し
今でも、その伝統食が半島全体で作られているという現実が無ければ・・・
朝鮮半島が起源だなんて言えやしないですよね!

 生蕎麦は「きそば」と読み本来の意味は、つなきをまったく使わないでそば粉だけで打ったそば
 (生粉打ちそば)の事です。蕎麦は江戸時代中期以降に、小麦粉をつなぎとして使うようになった。
 当初は麺のつながりをよくするために用いられた小麦粉の量が徐々に増え、そばの品質低下を
 招き、『二八蕎麦』が粗悪なそばの代名詞になったのです。
 そのため、高級店が格の違いを強調するために「生蕎麦」や「手打ち」を看板に掲げるようになり
 ました。幕末頃になると、二八蕎麦までもが「手打ち」や「御膳生蕎麦」を看板にするようになり
 その区別がなくなったしまった・・・。
 

 蕎麦はタデ科の一年草で、アジア内陸部、ヨーロッパ各地、南ヨーロッパの山岳地帯、
南北アメリカ等で栽培されています。原産地は、東アジア北部、アムール州の上流沿岸から
中国北東部にわたる一帯とされて来ましたが、最近では中国西南部山岳地帯の雲貴高原(雲南省
だと言う説が有力になっています。
 日本への伝来は古く、縄文時代には既に栽培が始まっていたことが、埼玉県岩槻市の真福寺
泥炭層遺跡(B.C.900~500年)から蕎麦の種子が出土した
ことで確実視されています。
また、最近の考古学的研究の成果として、高知県佐川町の地層から見つかったソバの花粉から、
縄文時代草創期(約9300年前)には既に栽培されていたのではないかとも推定
されています。

 「続日本紀」に、元正天皇の「勧農の詔(みことのり)」(養老6年)に、救荒作物として
その植え付けを勧めている記録がありますので、この頃には栽培が始まっていた確実な証となります。
また文献上「続日本書紀」はそばに関する記述では最古のものとなります。
蕎麦が縄文時代から栽培されていたにも関わらず、食料として余り発展しなかった理由として、
「製粉が難しかった」ことが挙がられています。
当時の(縄文時代)の摺り臼では甚だ効率が低く、多くの時間と労力を必要とし、日々の食事の糧
としては敬遠されたのだと考えられます。
同じ理由から小麦もまた余り利用されることが無かったようです。
 ところが、鎌倉時代(1241年)に入ると、から帰国した聖一国師が、水車を利用した碾き臼の
技術を持ち帰り、製粉技術は著しく進歩し、蕎麦は急速に普及します。

因みに、李氏朝鮮時代に日本を訪れた朝鮮通信使は、この『水車』について
第11次朝鮮通信使従事官書記金仁謙の個人的日記「日東壮遊歌」や、趙正使の海槎日記に
その巧みな仕掛けと技術力の高さに感嘆し、
見ると甚だ不思議なので別破陣の許圭・都訓導の卞璞をして詳しく其の制度と形状を見させた。
 もし其の製作方法を移して我が国で使用すれば潅田の方法に有利となるだろうが、両人が必ず
 成し遂げるかどうか分からない。」

と、水車の技術を盗もうとしますが・・・作れなかったようですね。

 1429 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告。
 (渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を
  導入するように命じられていた 朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、
  学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作らせ、復命した。)
 1430 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
 1431 世宗13年5月17日 中国も日本も水車の利を得ているが我が国(朝鮮)にはそれがない。
 1431 世宗13年11月18日 日本と中国の水車の研究の記述がちらほら。
 1431 世宗13年12月25日 水車導入を試みる。
 1451 文宗元年11月18日 どうやら水車の導入に失敗。
 1488 成宗19年6月24年 水車導入の試みがあります(そして音沙汰無し・・・。)
 1502 燕山君8年3月4日 水車導入の試みが書かれています(そして音沙汰無し・・・。)
 1546 明宗元年2月1日 水車導入の試みが書かれています。
   琉球(沖縄)と中国で教わった福建式の水車の様です。 ここから100年間水車の記述が
   有りません。消滅したようです。
 1650 孝宗元年5月15日 水車導入の試み そして30年記述無し。
 1679 肅宗5年3月3日 水車を造らせたと記述。 そして70年記述無し。
 1740 英祖16年4月5日 水車など無くなりました。『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方,
    今無見存者(今では見た事がある者無し)』
 1740 英祖16年11月20日 また水車を造らせたと記述。一向に普及する様子が有りません。
 1764 1763-1764年 の朝鮮通信使の「日東壮遊歌」に(淀城の水汲み水車の感想)
   「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述有り。
 1795 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。普及している感じはしない。
 1811 純祖11年3月30日 ここの記述でも水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及
    していない事が読み取れる。

 聖一国師が伝えた水車以前にも、「日本書紀」に推古天皇18年(610)のころ、水力を利用した
臼があったことが記録されています。
これは、(平等を記すと)高麗王の命により、曇徴(だむじん)という僧により灌漑のための揚水
用の水車の技術が日本にもたらされたと書かれています。
但し、これは中国で発明された技術なので、高麗起源では有りません!
聖一国師は、宋の寺院で茶や小麦粉を挽いていた水車の詳細な図を書いて日本に持ち帰ります。
これは今でも、東福寺に残されています。

つまり、聖一国師の図を参考にして、実物を見た事の無い日本の職人が【水車】を作り上げた!!
水車を動力源として石臼に連動させる仕組み、水車の輪を作る専門的な技術、輪のジョイント部分
の巧みさ、臼と杵の関係の構造など・・・朝鮮通信使が何度も見学し図面を持ち帰ったにも係らず
その技術を盗み、同じものを作る事が出来なかったのです。

このオッサンは、沢庵和尚も朝鮮人などと言っていますが・・・
   karakao.jpg
 沢庵和尚は、天正元年(1573)但馬国(現在の兵庫県豊岡市出石町)に生まれました。
父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)。

 沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺に入りました。
彼が20歳の時、藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠が住職に任じました。
宗忠は大徳寺住持の春屋宗園の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。
 22歳の時、宗忠が大徳寺の住持となるのに従って上京し、大徳三弦院で春屋宗園に仕えました。
沢庵は29歳の時、勅令によって大徳寺の住持に出世しましたが、立身出世を求めない彼は3日間で
野僧に徹すべしとして退山してしまいました。
 31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、沢庵の称号を受けました
やがて住持を兼ねるようになります。

こんな、不見識でいい加減なコラムを書くような人間が、韓国伝統料理研究家で大学教授・・・
韓国起源というのなら、日本に有る文献を徹底的に読み下してから、言ってみろってんだ!
本当に、半島人と言うのは・・・息をするように嘘をつく。
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Comments 5

Alicia

ほんとに嘘つき・・・

今に始まったわけではなく、自分たち以外の国の人には全てそう思われていることを知らない哀れな人たちですよね。そしてはた迷惑!
資料の裏づけ、勉強になります!

2010-06-25 (Fri) 23:00 | EDIT | REPLY |   

慶次郎

歴史は無い

歴史の無い国ですから「作り放題」一番近い「李承晩」「李朝」だけでも調べればすぐ判るのに「怖くて」触れない、確かに日本が歴史を正直に作れば、お隣は「悲惨」なものです。
しかし、中国・韓国にもバカにされる「近隣諸国条項」を作りだした自民党も、村山談話・河野談話も含めて反省してほしい、民主党じゃ改善できるわけがない。

2010-06-26 (Sat) 16:46 | EDIT | REPLY |   

韓国人

韓国人ですが。。。。

日本語は よく 知りませんが、韓国の 意見と 言えば、

「沢庵は 韓国人も 偽者」と 皆か 知ります。

蕎麦きり(韓:メミル)に ついて 韓国人は 大多数 良く知りません。

良い 情報 ありがとございます ^^;;
 

2011-02-21 (Mon) 12:56 | EDIT | REPLY |   

よしお

勉強になります!

親族の方のために韓国を勉強してから、このように深層部にまで探求されるというのは凄いですね。
ここまで資料を集めて詳細に書かれているのは本当に凄いです。
これからもたくさん記事を書いてください。
勉強させていただきます。
その内講演会など開いて勉強させてください。

しかし、韓国人の方にもこのように真相を学ぼうとされる方がいるのにはコメント欄を読んで驚きました。
韓国人みなが悪意のある歴史捏造に加担しているわけではないのですね。
真実を知りたいのに国家が歴史捏造や日本が賠償金を出してくる旨味にとりつかれて、何でもかんでも利用するのではどうしようもないですね。
中国とかでは、真実を公表する高尚な方は過去において革命の名の下に殺害されたりと、やるせないです。

これからも読ませていただきます。
よろしくお願いします。

2013-01-10 (Thu) 08:16 | EDIT | REPLY |   

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2014-01-30 (Thu) 13:41 | EDIT | REPLY |   

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