川越で朝鮮通信使を模した「唐人揃い」、氷川神社祭礼絵巻・仮装のごく一部だけど世界遺産登録目指す!埼玉コリア21

★川越で「唐人揃い」 
 朝鮮通信使模したパレードに400人

 川越経済新聞 2016年11月09日
 
http://kawagoe.keizai.biz/headline/187/
川越市で11月13日、朝鮮通信使を模した
多文化共生・国際交流パレード
「川越唐人揃(ぞろ)い2016」
が開かれる。
主催は川越唐人揃いパレード実行委員会

 朝鮮通信使は、江戸時代に
国家間の外交や学問、芸術などの文化交流を
担っていた使節。
当時、江戸から日光の東照宮に向かって
「朝鮮通信使行列」が練り歩くと、
一目見ようと多くの人が押し寄せた。
行列が川越を直接通過することはなかったが
1700年ごろの川越氷川祭礼(川越まつり)で
「朝鮮通信使行列」をまねた
仮装行列「川越唐人揃い」が行われていた。

同イベントは「川越唐人揃い」
現代に復活させたもので、
今年で12回目を迎える。

例年、パレードには400人前後が参加。
「朝鮮通信使行列」のほかに、
韓国・朝鮮の伝統音楽を奏でるパーカッショングループ、
タイの舞踊、フィリピンの舞踊、アイヌの踊り、
沖縄エイサー、よさこい、
世界の民族衣装を着たグループなど、
多彩な団体がパフォーマンスを行う。
「風の盆」で有名な「おわら盆踊り」グループも参加する。

 朝鮮通信使の正使役は、
1607年に初めて江戸幕府に来た
朝鮮通信使正使である呂祐吉の
11代子孫・呂運俊さんが務める。

 実行委員長の江藤善章さんは
「今年は朝鮮通信使行列と共に華やかな楽隊が
 60人もそろい、ラッパを吹きながら行進する。
 これは見応えがあるだろう。
 ほかにも、多彩なグループのパフォーマンスを
 楽しむことができる。ぜひ足を運んで」
と呼び掛ける。

 当日は蓮馨寺(川越市連雀町7)で開会式が開かれる。

(引用ここまで)




行列が川越を直接通過することはなかったが

★川越まつり
 http://kawagoematsuri.jp/about/hikawajinja.html


★時薫る 小江戸川越 
 山車揃い曳き [歴史]

 http://columneye.blog.so-net.ne.jp/2010-06-06-72


★時代を超えて伝える“祭礼絵巻”
 川越氷川祭の山車行事「川越まつり」

 http://www.shopper.jp/w/2015/10/16/%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%82%92%e8%b6%85%e3%81%88%e3%81%a6%e4%bc%9d%e3%81%88%e3%82%8b%e7%a5%ad%e7%a4%bc%e7%b5%b5%e5%b7%bb-%e5%b7%9d%e8%b6%8a%e6%b0%b7%e5%b7%9d%e7%a5%ad%e3%81%ae%e5%b1%b1/
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 川越まつりの起源となる伝統儀式「神幸祭」。
 厳かな雰囲気の中、神幸行列が巡行します

川越まつりは、川越総鎮守である氷川神社の例大祭の
附祭りとして始まりました。
慶安年間(1650年ごろ)、当時の川越城主松平信綱
氷川神社の例大祭を祝い、神輿(みこし)、獅子頭、太鼓
といった祭礼道具を神社に寄進し、祭礼を奨励したことが
始まりです。

以来行われてきた「神幸祭(じんこうさい)」が
山車行事の起源です。

「鎮守である氷川の神様が街なかに出ていかれ、
 街の様子をご覧になります」
と山田宮司。
各町では山車が出迎え、行列に随行。
神が乗った神輿が通ることで地域の人々に
 御神徳をもたらし、人々が喜びを持って
 お迎えするという意味があります

街を巡った神幸行列は、午後2時半ごろ神社へ還御します。

(続きはリンク先で)


★秩父夜祭の基礎・あらまし
 http://www.shunjinkai.or.jp/yataibayashi2/kisochishiki/honbun-2/honbun-2.htm
江戸では、
元禄年間から享保年間(1688~1721年)まで、
「山車」と「屋台」の時代がありました。
「山車」は1本柱構造の曳き山
(「笠鉾」、「吹貫(ふきぬけ)」など)であり、
「屋台」は、 正面12尺、奥行き18尺と大型で
舞台や楽屋が備わった豪華絢爛な曳き山でした。
この時期は、1つの町内で「山車」と「屋台」、
それに母衣武者や唐人などの仮装行列などが
出されていました。


(続きはリンク先へ)

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川越の祭礼行列 氷川神社祭礼絵
http://www.geocities.jp/seiji_maturi/nakasendo.html 

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文政9年(1826)川越氷川祭礼絵巻より
天狗を思わせる姿の猿田彦(さるたひこ)と、
2頭の獅子(青獅子と赤獅子)が行列する様子は、
絵巻を忠実に再現している。

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神馬(白馬)が2人に曳かれる様子と、
赤い大きな傘で日除けし、馬にまたがる
川越氷川神社の宮司の姿

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仮装行列の一つ「唐人」

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江戸時代の「屋台」

1648(慶安元年)当時の城主・松平伊豆守信綱が
氷川神社へ神輿や祭礼用具を寄進し、
祭礼をやらぬかと促したのが始まりの川越氷川祭礼。
氷川神社が、城主の意を受けて、
3年後の1651年(慶安4年)に神幸祭を発案し、
すでに存在した当時の氏子たちによる町方祭礼行事と
合体するような形で発足させたのだそうだ。

その起源となる伝統儀式「神幸祭」で、
氷川神社の神様が神輿に乗って街中をご覧になるのを
市中の氏子達がお迎えして、神様に随行する。

氷川神社の神様に喜んでいただくための
その行列の中のごくごく一部の唐人の仮装
「神幸祭」と切り離してパレードするのは如何なものだろう?


★復活!唐人揃い─朝鮮通信使─
 多文化共生・国際交流パレード
 唐人揃いパレード

 http://tojinsoroi.com/
 朝鮮通信使を世界遺産に!

【主催】
川越唐人揃いパレード実行委員会

【後援】
川越市/川越市教育委員会
川越商工会議所/小江戸川越観光協会
埼玉県/埼玉県教育委員会/埼玉県国際交流協会
川越氷川神社/蓮馨寺/高麗神社
在日本朝鮮人総聯合会埼玉県本部
在日本大韓民国民団埼玉県地方本部
埼玉韓国教育院
駐日韓国大使館 韓国文化院
朝鮮通信使縁地連絡協議会(縁地連)



★「唐人揃い in 川越」 
 朝鮮通信使の仮装行列を再現 
 市民と参加者 心一つに

 朝鮮新報 2005.12.3
 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/01/0501j1203-00001.htm
実行委員会埼玉コリア21の代表・江藤善章さん
「唐人揃い」がかつて川越で行われていたことを知り
「今、日本社会には
 朝鮮との関係悪化を望んでいる動きがある。
 両国の友好の証である唐人揃いを
 再現して、市民レベルのきずなを深め、
 心と心を通わせたい」
との思いから
 この催しを実現させた。


★埼玉県内に息づく韓国…
 地元高校教師ら
 40年間の集大成が本に

 民団
 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=2&newsid=20256
執筆メンバーのひとり、小川満さん
(元埼玉県立越ケ谷高校教諭、
 「埼玉・コリア21」事務局長)
が3月20日、
民団中央本部主催の記者・市民セミナーに
講師として出席し、
「埼玉と韓半島とのつながりの深い歴史を
 知ってほしい」と呼びかけた。
(中略)
近世篇では、
埼玉に立ち寄っていない江戸時代の外交使節
「朝鮮通信使」が、「唐人揃い」という名称の仮装行列で
江戸時代の住民に大きな影響を及ぼしたことを
知ることができる。

小川さんは元埼玉県立大宮北高校教諭の江藤善章さん
(埼玉・コリア21代表)
らと一緒に
この「唐人揃い」を現代風に復活させた立役者のひとり。

 ふたりは在日児童生徒への差別問題を直視しようと
「在日朝鮮人生徒の教育を考える会」
(その後、「在日外国人の教育を考える会」に改称)を
立ち上げ、まず『くらしの中から考える‐埼玉と朝鮮』(92年)、
続いて日韓対訳版『埼玉とコリア』(02年)を発刊してきた。

 
★多文化共生・国際交流パレード 
 川越唐人揃い

 カトリックさいたま教区
 http://saitama-kyoku.net/our_people/ad_office/justice/event/2012/?cno=7
毎年この時期に川越市の唐人揃いパレードが
おこなわれる。ロバの会は、この実行委員会に
毎年協力し、川越・上福岡教会信徒の方々有志で
参加している。




★朝鮮通信使伝えた
 故辛基秀(シン・ギス)氏

 東洋経済日報 2007/05/11
 http://www.toyo-keizai.co.jp/news/hosenka/2007/post_648.php
辛基秀氏は京都出身の在日2世。
大学院を中退後、民族団体でドキュメンタリー映画の
制作に携わっていたが、
「イデオロギー対立から離れ、自由な立場で活動したい」
組織を辞め、朝鮮朝の国王が徳川政権に国書を
手渡すために派遣した使節団「朝鮮通信使」の
研究を本格的に始める。

「朝鮮と日本の善隣友好関係が
 260年も続いたことをきちんと伝えることで、
 日本の誤った朝鮮観を正す一助にしたい


 これが辛さんを研究に駆り立てた思いだった。
朝鮮通信使の存在が、一部の学者以外
ほとんど知られていなかった1970年代

朝鮮通信使の史料や遺跡発掘のため、
日本全国を歩き回った。
その成果は、辛氏が79年に制作した記録映画
『江戸時代の朝鮮通信使』となって結実した。

いまでこそ有名な朝鮮通信使行列の華麗な絵巻物も、
辛氏がこの映画を通して初めて世に知らせたといえる。
(引用ここまで)


★辛基秀と朝鮮通信使の時代
 ―韓流の原点を求めて

 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784750321677
朝鮮通信使の史料収集家・研究者のみならず、
ダム建設現場や炭鉱町などで植民地支配に
抵抗した朝鮮人労働者への取材を続けた辛基秀。

(中略)
若いころ、朝鮮総連の活動家として
映画づくりの仕事もしていた彼は
イデオロギーの不毛さを肌身にしみて知っていたからだ。


★第6回朝鮮通信使縁地連絡協議会
 (縁地連)牛窓大会参加レポ-ト

 むくげ165号(2001.7.25発行)
 http://zenchokyo.web.fc2.com/165miyaki.htm
江戸期の朝鮮通信使の寄港地や宿館・街道をもつ
自治体が、隣国韓国・朝鮮との善隣友好と通信使を
通じた町おこしや交流をめざしてネットワ-ク
〔朝鮮通信使縁地連絡会(略称縁地連)〕を
対馬の厳原で結成したのは1995年の11月であった。
学校現場の仲間にとっては、
日教組教研や全朝教、全同教大会に比べ
全くといっていいほど馴染みの薄い全国大会であるが、

既に対馬、下関、鞆の浦、高月、対馬と5回を重ね、
昨年度は牛窓で6回目の全国大会が開かれた。
(中略)
牛窓では、役場近くの塩竃(しおがま)神社に
神功皇后腰掛岩が伝えられているほど
神功皇后びいきの土地がら。
当然、地元では、朝鮮通信使の影響を濃密に
受けている「唐子踊り」も、
そのル-ツを「三韓起源説」に置く考え方が
これまで支配的であったこともうなづける。

 しかし「三韓征伐」は史実ではないし、
とうていこれらの説を受け入れるわけにはいかない。

ただ、牛窓の地名も唐子踊りの起源も
“朝鮮”に深く関係しているという点では、同意できる。
要は、歴史観の問題である。
国家・〈ヤマト〉民族を絶対化した“皇国史観”の立場を
とるのか、それとも“複眼的な史観”(上田正昭)の立場
にたって歴史を相対化させることができるのか
どうかである。





朝鮮通信使は
江戸時代、265年の間にたった12回来ただけである。
徳川幕府において新しい将軍が就任の祝賀の際に
日本にやってきた「朝鮮通信使」。

1970年代の在日コリアン達の素人研究と
日教組・全朝教や朝鮮総連・民団、左翼市民団体に
「朝鮮通信使」が善隣外交であるというイメージが
植え付けられたのだが・・・
その実態は


★「朝鮮燕行使と朝鮮通信使」
 -1811年金善臣の通信行と
 1826年申在植の燕行を中心に-

 京都大学本研究科教授 東洋史学 夫馬 進
 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/sympo02-01/01.html
現在の日本の高校の教科書でも
普通に載っている通信使は、江戸時代265年の間に
12回来ただけであるが、
ソウルから北京へ行った使節は、ある史料をもとに
数えると、ほぼ同じ時代に494回行っている。
しかも、これは実は朝鮮国王から北京または瀋陽の
清朝皇帝に対する正式の使節
の数に過ぎない。
これに現在の我々の感覚で言うと外務省レベルの旅行団、
例えば外交文書を運ぶ使節、あるいは北京でつくっていた
暦を朝鮮から取りに行った使節
を含めると、
正確には数えていないが恐らくは600回とか700回とか、
通信使に比べると桁違いの数になるであろう。

 通信使が最後に日本に派遣されたのは、
文化度の通信使と呼ばれる1811年のもので、
通信使はこれで切れるが、
これに対し燕行使のほうは、1894年つまり
日清戦争が勃発する直前まで出されていた。
ソウルからは当時、江戸へそして北京へという
二つの国際線がのびてはいたが、
実はその便数から見るなら二つの使節団は
甚だレベルの違うものであったと言っても過言ではない。
(中略)
清に対する燕行使というものは、丙子胡乱
(崇徳元年=仁祖14年=1636)として知られる、
満州民族が朝鮮を完全に制圧した年から始まるものであり、
服従の証として朝貢のために行く使節であった。
自分の先祖あるいは親子供を殺された者が
敵国にゆく使節であるから、当然のことながら行きたくない。
このメンバーを誰にするかを決めるのは丙子胡乱から
100年近くの間は、大変難しかった。
これと同じように、通信使もやはり行きたくない。
これもメンバーを誰にするか、このメンバー選びからして
大変であった。
江戸時代の通信使は、秀吉による侵略を踏まえて
のものであったから、これもまた嫌々行かざるを
得ないものであった。
なぜ通信使を日本に派遣せざるを得ないかというと、
日本がいつまた再侵略してくるか知れなかったからである。
いつまた野蛮な民族が朝鮮に災禍をもたらすかわからない
からである。これを未然に防ぐためには、
信(よしみ)を通じつづけておくとともに、
敵国の国情を知っておく必要があった。
朝鮮からすれば
通信使の派遣とはいわゆる覊縻政策であった。
すなわち馬があちらこちら飛び跳ねるのを防ぐために、
馬をつなぎとめておくために、
わざわざ高い予算を組んで
通信使を12回にわたって派遣したのである。

(中略)
日本へ来た通信使は、ほとんど自由を奪われていて、
本屋へ行って自分で本を買うことさえもできなかった。
これに比べると、北京にツアーに出かけた人々の
ツアーコースとして、たとえば琉璃廠と呼ばれる書店街
へ行き、自由に読みたい書物をあさってくることがあった。
(中略)
日本へ来た通信使には常に監視の目が光り
両国知識人の交遊も実に堅苦しいものであった。
(中略)
問題は、日本へ来た通信使が伝えた
当時の清朝中国の学術の状況が、
全く現実を反映していないことである。

文化の通信使の中には、李文哲のように
自ら燕行使の一員として、北京へ行ったものがいた。
金善臣自身、北京ではないが瀋陽まで行ったことが
あった。ところが、彼らの日本人に対して伝えた
中国における学術動向の情報は、
虚偽を大きく含むものであった


 申在植が1826年に北京へ行った時に、
尋ねられて答えた日本における学術動向も、
不正確なものであった。

申在植と金善臣とは、親しい知人であり、金善臣らの
帰国によって、詳しく正確な日本の学術動向を
申在植は知っていた、と考えるのが常識的である。
(引用ここまで)


★通信使研究の現況と課題
 http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/2/2_1_3chang_j.pdf


★日東壮遊歌―
 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録

 https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9D%B1%E5%A3%AE%E9%81%8A%E6%AD%8C%E2%80%95%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%81%A4%E3%81%A5%E3%82%8B%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%91-%E4%BB%81%E8%AC%99/dp/4582806627
江戸時代後期、宝暦13年(1763年)の
第11次朝鮮通信使の書記として来日した
儒者、金仁謙(キム・インギョム)先生の
日本旅行記である。
(中略)
例えば大阪の街並の描写。
“屋根をすべて瓦葺きにしていることに
 感心しているのに、大したものよ倭人らは、
 千間もある邸を建て、中でも富豪の輩は、
 銅を以って屋根を葺き、黄金を以って
 家を飾りたてている。―中略― 
 天下広しといえこのような眺め、
 いずこの地でみられようか。”


 同様に京都・名古屋・江戸の街並みに驚嘆し、
水車や橋の技巧、田地の肥沃、金箔や漆の美麗に
感嘆するのだが、それと同時に、
汚れた犬にも劣る倭人どもが、このような金城湯池を
有し、富栄えていることが、よほど胸くそ悪いらしく、
嘆かわしいだの、恨めしいだの、
倭人どもをことごとく掃討して、朝鮮の国土にしたいだの、
惨憺たる罵詈雑言が繰りかえされる。



★250年前の朝鮮人が
 羨み恨んだ豊かな日本…
 金仁謙「日東壮遊歌」より

 http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1376.html


★日東壮遊歌 金仁謙 
 ハングルでつづる朝鮮通信使の記録

 http://韓国の歴史.com/book/%e6%97%a5%e6%9d%b1%e5%a3%ae%e9%81%8a%e6%ad%8c%e3%80%80%e9%87%91%e4%bb%81%e8%ac%99%e3%80%80%e3%83%8f%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%83%ab%e3%81%a7%e3%81%a4%e3%81%a5%e3%82%8b%e6%9c%9d%e9%ae%ae%e9%80%9a%e4%bf%a1/
最初は反日的な見解が優勢で、
飯がまずいだの対馬人の性根が悪いだの
結構悪口が目立つのですが、
どうやら日本に慣れてきたのか物の見方が
変わってきて、日本の儒者や文士にも
なかなかのものがいると褒めたりします。
また、サツマイモがあまりにも美味しいという
表現などもあります。サツマイモはこの時初めて
朝鮮半島に渡り飢饉対策の農作物として広まりました。


そして、大阪に入り完全に度肝を抜かれたようで、
11隻の金や漆を施された楼船を見て
「万古に例を見ない」と、驚嘆しています。
また、淀川は臨津江(イムジンガン)程は大きくないと
前置きしたうえで、その両岸に漆喰の塀に囲まれた
金や朱で飾られたクジラの背のように大きい人家が
連なる様子を見て、
「仙人の住む金闕銀台」と表現しています。
 
ズラッと並ぶ縁側には
見物人が溢れかえるほどいるのに、
大声をだすものもおらず、
子供は前へ大人は後ろに並び、整然と
自分たちを見ていると描写しています。

お上からお達しがあったとはいえ、
現代の日本人の気質は、この頃から
脈々と続くものだったのですね。

宿所の北御堂についても
建物は宏壮雄大、
 我が国の宮殿よりも大きく高く豪
奢」
と表現しており、
この大阪の地が壬辰倭乱(イムジンウェラン:임진왜란)・
丁酉再乱(チョンユチェラン:정유재란)の元凶・
豊臣秀吉が収めた地であることに忸怩たる思いを
表しています。

(引用ここまで)

★朝鮮通信使
 http://www.iokikai.or.jp/siomatinominato.tusima3.html
1764年第11回朝鮮通信使正史趙の書いた
海槎日記によると、
『昨年(1764年)初て佐須奈に至り、甘藷を見、
 数斗を求めて釜山鎮へ出送し、
 これをして種をとらしむ。
 今帰路において、またこれを求めて 
 州校吏輩に授けんとす。
 行中の諸人、また得て去るものあり。
 この物はたして能く皆生じ広く我が国に布けば、
 文綿(もんめん-木綿)のなせしと共に、
 大いに東民を助けるであろう。 
 州種得る所、もし能く蔓延せば、移して
 済州及び他島に栽培すべきなり』

と記載されている。
このように正史が、栽培方法とサツマイモを持ち帰り、
栽培させたと、記されている。
その後朝鮮では、度重なる飢饉から人々の生命を救った。
1364年、中国に外交使節として出かけた文益漸
(ブンイクチョム)が木綿の種子を持ち帰ったのと
同じ価値があり、国民を助けるだろうと言っている。。
 サツマイモの原産地はアメリカで、
日本には17世紀初頭に薩摩地方に伝わり、
九州で栽培されていた。対馬は平地が少なく、
食料事情は厳しいものがあった。
対馬の原田三郎右衛門は薩摩に渡り、
1715年藩外持ちだし禁止のサツマイモの種芋
対馬に持ち帰り栽培した。痩せ地や傾斜地でも良き育ち、
収穫が多いので対馬では広く栽培され、
孝行芋と呼ばれるようになった。
(引用ここまで)


★朝鮮通信使を偽造する
 英国オックスフォード大教授
 ジェームズ・ルイスの聨合ニュース記事

 「日本で王のようにもてなし受けた
  朝鮮通信使」は嘘・実態は朝貢団で、
 鶏を盗んで町人と喧嘩、
 鶏の生肉を食べ散らかした
 http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/38604744.html
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★明治開化期の日本と朝鮮(8)
 http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi019.html
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朝鮮修信使来る

 2月28日に黒田・井上両大臣一行が帰国してから
1ヶ月後の3月28日、釜山草梁公館に朝鮮政府から
修信使を日本に派遣する旨の決議があったことが
伝えられた。
(中略)
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 修信使 金 綺秀 撮影 明治9年6月9日 内田九一写真館

(中略).
「清道」「巡視」の旗について
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 「海表異聞 巳 廿二 大尾  朝鮮人来聘記」より

なお、「迎接官の心得書」なるものに気になるものがある。
(「朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 一/2」p1)
一 彼レ清道巡視之旗ヲ持来ルハ
 是ヲ拒ムヘシ・・
という項である。

古来、朝鮮通信使が日本で行装して行進する時には
清道」「巡視と大書した旗を先頭に立てるのが
常であった。(中略)
明治の外務省はもっと深い意味があることに
気付いていたように思われる。
すなわち「清道」「巡視」とは、
「清国皇帝の行幸の先払い役」として
日本を「巡視」するという意味であると。

 なぜ「迎接官の心得書」にその旗を拒む項が
わざわざあるのか。それを説明した公文書は
見つからないが、推測としては以下のようではなかろうか。
 
朝鮮は清国の属国である。
(その理由と根拠資料はリンク先を見られたい)
いわば清国の手先として「巡視」の旗を掲げて
中華思想・華夷秩序に従って、夷狄の国である日本に
巡視に来るという意味
でもあったろうか。

 或いは又一説には、
幕府時代に江戸にまで招いていた朝鮮通信使を、
文化8年(1811)の来日の時には
対馬で国書交換と変ったが、それは接待費用の問題
のみならず、
「清道」「巡視」の旗の事が問題となり
つまりは、「巡視」は宗主国が属国を巡視するとの
意味であり、「清道」とは通信使の通る道を清めよ
という意味であると、
時の老中松平定信が指摘したことによるという。

 いずれにしろ、
修好条規第一款にあるように
「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ
 保有セリ。」とした上は、あからさまに
清国の属国として巡視役を勤めるかのごとき
「清道・巡視の旗」を掲げる
ことは、
日本側としても拒まざるをえなかったであろう。
(中略)

陛下への拝礼は朝鮮式で

 さて、6月1日には天皇陛下謁見があった。
皇居昇殿をした者のうち謁見が許されたのは
金 綺秀だけであった。
この時の日本の作法は、
立ったまま深く一礼するもの(粛礼)であったが、
金 綺秀修信使は、拝礼の作法だけは
自国で王へ拝謁する時の礼でしたいということで、
膝を着いて頭を地に貼り付けて立ち上がる
という拝礼を4回する方式
で行った。

(朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 四 六月五日別記 
 宮本大丞朝鮮理事始末 四/1 朝鮮理事日記/1)

(中略)
釜山における初めての近代医療

 修信使一行を迎えに行った船に軍医が乗っていたが、
彼は船が日本に向けて出発するまでの9日間に、
朝鮮人への医療を行っている。
以下は、明治9年6月8日付けで、寺島宗則外務卿宛ての、
海軍中軍医 島田脩海からの報告である。
(中略)
 修信使を迎える汽船黄龍丸に乗って5月13日に
 釜山草梁へ着き日本館へ入る。
 翌日に訓導 玄昔運と会談し、天然痘の病害の話をし、
 種痘による予防法のことを話した。
 訓導天賦の病気がどうして人の手で防ぐことが
 出来ようか。我が国にも一つの方法がある。
 痘のカサブタを薫じて嗅ぐのである。


「それは極めて害がある方法である。」
と言葉を尽くしてそれを止めることを説いた。

(続きはリンク先で)



何故、
朝鮮通信使が「唐人」として伝わっていたのか。
通信使が
清国の属国として巡視役を勤めるかのごとき
「清道・巡視の旗」を掲げていたからでしょうねぇwww

当時の庶民の認識は、
清国の属国の外国人が
新しい将軍様の祝辞にやってきた!
と・・・

民団・朝鮮総連・日教組などの左翼市民による
思いっきりイデオロギーの匂いがする
1970年代からの「朝鮮通信使」ゴリ押し
韓流の原点でも、善隣外交でもなさそうな
真相である。





★川越祭りと朝鮮通信使
 http://members2.jcom.home.ne.jp/hukkatu-tojin/kawagoematuri.html
江戸中期の様子を見ると、各町内が豪華な山車と、
様々な行列の練り物が行われている様子が分かります。
文政九年(1826年)の記録によると
各町内ごとに様々なパフォーマンスが行われていて、
頭には魚をかたどった笠を着けた行列の
竜宮城をイメージした練り物や、
大きなはりぼての象が出ています。
一本の足の中に数人が入り込んでいますので、
本当に大きな象だったのでしょう。
そして、目を引くのは、その中に、
本町の練り物として、「朝鮮通信使」の行列が出ています。
これは「唐人揃い」と描かれていますが、
当時の「唐人」とういうのは、
「とうじん」=中国人ではありません。
「唐」は「から=韓」で、朝鮮人のことをいっています。
「唐人揃い」というのは、
江戸時代行われた「朝鮮通信使」をまねた
仮装行列のことでした。


★江戸時代の見世物……
 異国からの珍奇な動物 ラクダほか

 http://www.photo-make.jp/hm_2/misemono.html
日本人が唐人の格好をして、
銅鑼やトライアングルを敲き、
如何にも異国からの渡来と盛り上げた。

『一般に舶来動物の見世物では、
 疱瘡麻疹除けを典型として、
 種々の「ご利益」が説かれることが多い』
(同書)。
ラクダ興行は、浅草寺側の西両国で行われた。

●「浅草奥山にて興行」
 絵・歌川国重、版元・小玉弥七
 
 zou.jpg

●享保14年(1729)の象 
 牡7才 広何産の象

 mise_kyouho_zou.jpg
(引用ここまで)


>当時の「唐人」とういうのは、
 「とうじん」=中国人ではありません。
 「唐」は「から=韓」で、
 朝鮮人のことをいっています。


はたして、そうでしょうか?
当時の見世物小屋での「唐人踊り」は
”蛇踊り”と一緒に行われ
記録には
「清朝の出扮(いでたち)にて異様成踊りを興行せり」
と記載されていますから
唐人=清朝の人々という認識はあったと思います。
清朝の唐人と属国・朝鮮の唐人を同一視?


★見世物興行年表
 江戸時代 文政3~4

 http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/cat_50048769.html
文政三年(1820)~文政四年(1821)
 【文政三年】
○四月、大阪堀江の荒木芝居にて、
 看々踊りと蛇踊り。

 (『摂陽奇観』巻四十六/『雲錦随筆』)

「同月(四月)、荒木芝居ニ而かん〳〵踊大當り  
 座本棒能三官・二井官・シュ官
 長崎表ニ而ボサ祭祀の蛇ヲトリ、
 長サ十間余の蛇をつかふ看々天狗ニくハし 畫帖ニあり
 荒木芝居にて古今の大當り、其後東武にても流行なしたり。」
(『摂陽奇観』)
〈註記〉『浪速叢書』第六巻・84~85頁より転記。


〈編者註〉唐人踊りの図三枚あり。
 内一枚は前に三人が踊り、
 後ろに四人が腰かけて演奏する(下図参照)。
toujin2593522f.jpg
「年々歳々難波新地および所々の芝居に於て、
 種々の技芸珍奇の獣類を観物に興行す
 といへども、流行(はやる)あり流行らぬ有て、
 興行人の損益甚し。
 就中近来爾(さ)のみ賞すべき者ならずして
 流行せしは、文政三年辰の春、
 浪花堀江荒木の芝居に於て看々踊と号し、
 清朝の出扮(いでたち)にて異様成踊りを興行せり
 其囃子の鳴もの踊の形勢(ありさま)いと珍しとて
 数(しばしば)流行し、前後に双(ならび)なき大当なり。
[割註]其後時々他所にて興行なせども初のごとくならず。』
 今も猶其風色のこりて諷(うた)ひはやせり。」(『雲錦随筆』)

編者註〉『雲錦随筆』には楽器─
鉄皷(トライアングルのようなもの)、胡弓、蛇味線、
朝鮮太鼓(一名水皷)の絵及び囃子方の衣装まで
図説されている。もともと蛇踊りの前芸であった
看々踊りは、このあと名古屋、江戸でも大流行する。


★見世物興行年表
 江戸時代 嘉永1~2

 http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/cat_50048997.html 
 嘉永元年(1848)~嘉永二年(1849)一
 嘉永元年(1848)戊申


○六月中旬より、江戸両国回向院にて、
 唐人踊り(カンカンノウ)の見世物


「六月二十五日より八十日、回向院にて、
 嵯峨釈迦如来開帳(今年の開帳参詣例よりは少し。
 境内唐人踊、奉書渡り杯とて色々の見せもの出たり)。」
 toujin95dee0e.png
右に「口上 太夫元」。口上文中に
「両国回向院にてチンプン漢の音律
 及び障州踊り興行」
とある。
 
 toujin59d68b63.jpg
編者註〉かんかんのうの踊り方を図解したもの。
(引用ここまで)




朝鮮通信使を世界遺産に登録するより
日本人のコスプレ好きの原点を登録しては如何?




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