韓流研究室

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奈良の木簡に、高い鼻に坊主頭のペルシャ人役人の落書き?

★高い鼻に坊主頭…
 ペルシャ人役人?描いた木簡

 読売新聞 2016年10月13日 09時18分
 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20161013-OYT1T50006.html
ペルシャ人の役人の名前を記した8世紀の木簡が
出土した奈良市の平城宮跡近くで、
外国人とみられる顔を描いた同時代の木簡が
見つかっていたことが、
奈良文化財研究所の調査でわかった。

 ペルシャ人役人を連想させ、
同研究所平城宮跡資料館(奈良市佐紀町)で
15日に始まる地下の正倉院展
木簡の写真を展示する。

 顔の絵の木簡は、
ペルシャ人を意味する「破斯(はし)」と書かれた
木簡が発見された場所から約70メートル北東で
見つかった。一緒に出土した土器などから
同年代のものとみられる。
顔は木簡の表に二つ、裏に一つ描かれ、
いずれも高い鼻と、坊主頭が特徴。
古代の仮面劇「伎楽(ぎがく)」で使われた
ペルシャ人の面に似ている。


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 木簡の顔に似た「伎楽面・酔胡従」
 (第66回正倉院展図録より)

 木簡には字の練習をした跡もあり、
顔の絵も役人の落書きとみられる。

(引用ここまで)


関連記事
★平城宮にペルシャ人の役人 
 765年木簡に「破斯清通」

 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4471.html




伎楽面・酔胡従の顔を見て思い出すのは、
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修験道で有名な山形県鶴岡市の
出羽三山神社(593年開山)の開祖

「蜂子皇子(はちこのみこ)」

  hachiko1_bor.jpg

  hachico_bor.jpg

「羽黒山縁起」などの伝承によると、
蜂子皇子は崇峻天皇の第3皇子で聖徳太子のいとこ
肌の色が黒く、耳元まで口が裂ける異形ながら、
民の苦悩を除く霊力を持っていたとされ、
「能除太子」とも呼ばれる。

木像は17世紀初めまで瀧水寺と呼ばれた
国宝・羽黒山五重塔にまつられ、その後、
羽黒山山頂の開山堂にまつられたとされる。
特定の信徒や修験者の拝観が許されていたが、
明治政府の神仏分離後は「蜂子神社」に改められ
完全非公開となった。

(2014年初公開時の記事)



出羽三山神社の開山は、約1,400年前、
第32代崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子である
蜂子皇子(はちこのみこ)(562-641)が
三本足の烏(八咫烏やたがらす)に導かれ、
羽黒山に登拝し、「伊氏波神(いではの神)」を見出し
羽黒権現を感得、山頂に祠(ほこら)を創建したのが
始まりとされている。

皇子は、更に月山権現と湯殿山権現を感得し、
三山の開祖となり、爾来、羽黒派(古)修験道として
全国に広がった。
葛城山や熊野、大峯など、主要な修験の地の開祖が
役行者(えんのぎょうじゃ)であるのに対し、
出羽三山だけは、蜂子皇子という天才が
修験道の開山となっている。


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 蜂子皇子御尊影 左下は金剛童子、右下は除魔童子
 https://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/season/haguro.html

第三十二代・崇峻天皇の
第三皇子、蜂子皇子(波知乃子王)。

母は小手子で大伴糠手子の娘。
崇峻天皇は、欽明天皇と蘇我小姉君の皇子。
蘇我小姉君は、蘇我の稲目の娘。
蘇我氏は武内宿禰を始祖とする氏族です。

崇峻天皇5年(592年)11月3日、
蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により
暗殺されたため、蜂子皇子は馬子から逃れるべく
丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から
海を船で北へと向った。
そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、
八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、
八人の乙女が笛の音に合わせて
神楽を舞っているのを見て
皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。
八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。

丹後由良は、古くは北前船の港として栄えてきた。
http://www.hikarij.com/vision/hyakuninisyu/kinki/yura.html

蜂子皇子が一人で脱出したとは思えないので
重臣や召使達を伴って北に向かい
山形県鶴岡市由良にたどり着いたのでしょうねぇ。
掛け軸に描かれた蜂子皇子も金剛童子も除魔童子も
どう見ても・・・外国人っぽい。
蜂子皇子と金剛童子はペルシャ系?
除魔童子は巻き髪癖毛のコーカソイドに見える。

京都府京丹後市丹後町に
間人と書いて「たいざ」と読む地名が有る。
由来は、諸説あるが・・・ウィキによると
聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后
蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後[の当地に
身を寄せ、のちに当地を去るに当たって
自らの名をこの地に贈ったものの、
住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、
皇后が退座(たいざ)したのに因み
間人を「たいざ」と読み替えた、との伝承が残る。
死者を大陸に向けて埋葬する風習が長らく残っていた。


★間人考
 http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49817_44336.html




伎楽は、
「呉楽(くれがく)」「伎楽儛(くれのうたまい)」と呼ばれ
中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞。
そのルーツについては
中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。

『日本書紀』には、
仏教伝来から60年後の推古天皇20年(612年)、

”又百濟人味摩之、歸化、
 曰「學于吳、得伎樂儛。」
 則安置櫻井而集少年令習伎樂儛。
 於是、眞野首弟子・新漢濟文二人習之傅其儛、
 此今大市首・辟田首等祖也。”


百済の味摩之(みまし)が帰化し、自分は呉に学んだので
伎楽の歌舞ができると言った。
そこで、桜井に住まわせ、若者を集めて伎楽を習わせた、
という記述がある。
これを持って、韓国では
「伎楽は韓国人が伝えた!」と自慢しているのだが・・・

百済の味摩之(みまし)は、果たして韓人か?
聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所で
味摩之(みまし)は、真野首弟子(まののおびとでし)と
新漢済文(いまきのあやのさいもん)に教えたという。
新漢済文は、昔から居住していたのではなく
当時、近年渡来した今来の一族の済文(サイモン)さん。

「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、
『日本書紀』欽明天皇(在位 西暦540年~572年)の
項においてである。
呉国の国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、
仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上した
という記述がある。
ただしこのとき、
実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明。

百済の味摩之が帰化する前から、
「伎楽調度一具」が存在している。
献上した和薬使主は、元の名を善那(ぜんな)という。
孝徳天皇の治世〔大化元年(645)~白雉5年(654)〕に
牛乳を献上したという記述もある。
http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/ushi/03_back/200310/p03.html
”和薬使主
 呉国主照淵の孫智聡ヨリ出ヅ。
 欽明天皇ノ御世ニ大伴挟手彦ニ随イテ
 内外ノ典、薬ノ書、明堂ノ図等百六十四巻、仏像一躯、
 伎楽の調度一具等ヲ持チテ入朝ヌ。
 男善那使主、孝徳天皇ノ御世ニ牛乳ヲ献ルニヨリテ、
 姓ヲ和薬使主ト賜イキ。
 渡シ奉レル本方ノ書一百三巻明堂ノ図一ツ、薬臼一ツ、
 及ビ伎楽一具ハ、今大寺に在リ。”


善那の父・智聡は、6世紀中頃(562年)
呉の国から薬方書、医書を多数携えて帰化。
(中国側によると)
日本に針治療の方法を伝えたらしい。

http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-05/10/content_20009413.htm

★弊院のルーツ
 http://blog.livedoor.jp/nanakokotoki-page/archives/1019377832.html
日本書紀には、
『雄略十四年。命臣連迎呉使。
 即安置呉人於檜隈野。因名呉原』

・・・【訓】470年、雄略天皇は、臣下らに命じて
呉(中国)の使いを迎えさせた。
そして呉人を檜隈野(ひのくまの)に安住させた。
そのため『呉原』(くれはら)と名づけた・・・
とあります。
470年といえば、聖徳太子の時代よりも
100年以上も前です。この時代、すでに大和王権は
呉(中国)に使いを送り、最先端の科学・技術・文化を
吸収しようとしていました。
渡来した呉人たちは飛鳥の都の南西部、呉原に
邸宅を与えられました。


そんな中、
562年、呉人の『智聡』(ちそう)が来日します。
彼は、鍼灸・漢方薬の書や仏典を飛鳥に持ち込み、
日本に初めて医学を伝えました。
智聡の子、善那(ぜんな)は、医師として
大化の改新前後の時代に朝廷に仕えています。

(引用ここまで)

この時期、
ペルシャ系の医者も渡来していたというのが前回の話。
 nara0424-01.jpg

因みに、
聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后
身を寄せた丹後国は、丹薬、即ち、
不老長寿の薬の製造で潤っていたという。
聖徳太子のいとこ・蜂子皇子も暗殺の危険を察知し
丹後国に向かい由良から北に向かって船出する。
到着した山形県鶴岡市由良も丹後由良の地名に由縁?
丹後国では、鉱山開発の技術があり水銀を採掘していた。

蜂子皇子の生母・小手子(おでこ)は
現在の福島県伊達郡の川俣町で御隠れになった
という伝承があり、小手姫住居跡も現存する。
晩年、養蚕と織物をこの地に齎した事から、
“機織御前(はたおりごぜん)”とも呼ばれていたそうだ。


★蜂子皇子画像
 http://blog.goo.ne.jp/ayame-jazz/m/201304
 hata.png
京都:木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)秦氏創建の神社
 三柱鳥居:石が組まれ御幣が立つ、
 鳥居の真ん中は、本殿の主祭神が鎮座する場所、
 本来は周辺が池であった、主祭神が鎮座する磐座、
 水に囲まれていたため、宮司は
  ゾロアスター教にあった拝火神殿と合致している
  秦氏はペルシャ人であったかもしれない、という 


★ゾロアスター教と天皇
 http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-10611756262.html


飛鳥時代にペルシアの技術者が多数来日して、
明日香に残る酒船石、益田岩船、石人像、須弥山石、
猿石、亀石などは彼らによって制作されたという
松本清張の小説【火の路】
昔夢中になって読んだけれど・・・俄然、読み返したくなる。

そういえば、お伽話「浦島太郎」の源流も
雄略朝(西暦5世紀末)の御世に丹波の地に
おこった出来事という伝承が有る。


★「浦島説話」と伊預部馬養連
 http://blog.goo.ne.jp/urashimasetsuwa1122/e/e28730db59300bd57eb3cda740219209




さて、話を元に戻そう。
百済の味摩之(みまし)は、
百済から呉に「伎楽」を学びに行って百済に戻り
日本に渡来してきた百済人ではなく
「伎楽調度一具」を朝廷に献上した和薬使主のように
味摩之(みまし)も呉の国から、百済経由で渡来した
大陸系の人物と考えられるのでは?

日本書紀の味摩之の記事が
「又百濟人味摩之、歸化」なのは、
その前に重要な記述があるからで、
韓国の歴史学者も、韓国ばかり注目している
日本の歴史学者も、その前文は無視に近い・・・


★呉公にかまれた「奈良の夫人」と、
 呉公の舞

 http://blogs.yahoo.co.jp/fumitomotomu/12536470.html


★呉のムカデ橋との奇妙な一致
 http://blogs.yahoo.co.jp/fumitomotomu/12549001.html
(引用開始)
「この年、百済から日本を慕って
 やってくる者が多かった。
 その者たちの顔や体に、斑白や白癩があり
 その異様なことを憎んで海中の島に置き去りに
 しようとした。
 しかしその人が、
 『もし私の斑皮を嫌われるのならば、
  白斑の牛馬を国の中で飼えないではないか。
  また私にはいささかな才能があります。
  築山を造るのが得意です。
  私を留めて使って下されば、
  国のためにも利益があるでしょう。
  海の島に捨てたりして無駄なさるな』
 といった。それでその言葉をきいて捨てないで、
 須弥山の形と、呉風の橋を御所の庭に築くことを命じた。
 時の人はその人を名づけて路子工といった。
 またの名を芝耆摩呂といった。
 また、百済の人味摩之が帰化した。
 『呉の国に学び,伎楽の舞が出来ます』といった。(略)」

(宇治谷孟訳、講談社学術文庫)

ポイントは
推古20年に百済経由で呉=中国江南地方から、
技術者が多数渡来した。

伎楽は、
橋建設や作庭の土木技術とともにつたえられた。


技術者には、江南地方とはおそらく出自が異なる
白い顔の者がいた。


「呉風の橋」は書紀の原文では「呉橋」となっている。
呉橋って何?

呉の領域の浙江省や福建省には、
いまにのこる伝統的な橋があり、
「ムカデ橋」とよばれている。

(全文はリンク先で)


★日本・謎の石造遺物紀行
 飛鳥編 その一 「奇怪な石像群」

 http://www.geocities.jp/gur_bahram/msrj/msrj02.htm


★伎楽面_呉公
 http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007658
  gigakuC0007658.jpg


★妙顕寺 大法要「奉典 伎楽(ぎがく)」
 京都では初めての
 伎楽奉典による大法要

 http://www.sachio-yoshioka.com/2013/0403.html
  gigaku20130403.jpg




「日本書紀」といえば、
”豐御食炊屋姫天皇 推古天皇”の項に
推古9年辛酉(601年)に
九月八日 新羅の間諜者(うかみひと=スパイ)
迦魔多(かまた)を對馬で捕まえる

という記述がある。
http://ncode.syosetu.com/n2851cy/1/

対馬に、新羅のスパイ・迦魔多が潜入して
捕縛される事件・・・
今も昔も変わらぬ状況が笑えるwww

韓国は、竹島だけでなく「対馬は韓国の領土」と
キャンペーンを行っているが
601年には、対馬で起きた新羅スパイ逮捕事件が
朝廷に報告されているって事で、
歴史は、奥が深いわぁ。




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