平城宮にペルシャ人の役人 765年木簡に「破斯清通」

★奈良の都にペルシャ人役人がいた…
 木簡に名前

 読売新聞 2016年10月05日
 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20161004-OYT1T50163.html    
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奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中頃の木簡に、
ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」
という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、
奈良文化財研究所の調査でわかった。

 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が
確認されたのは初めてで、
奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。

 木簡は1966年、人事を扱う式部省があった
平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。
文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、
今年8月、赤外線撮影をした結果、
役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の
宿直に関する勤務記録とわかった。


 表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」
下部に、定員外の特別枠で任じられた役人
「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名、
中国語でペルシャを表す「波斯(はし)」と同じ読み・意味の
「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、
「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。

(引用ここまで)


http://www.sankei.com/west/news/161005/wst1610050057-n2.html
研究所の渡辺晃宏史料研究室長は
「国際的な知識があり、役人として登用された
 可能性がある。破斯清通が、李密翳や
 その関係者と考えても年代的におかしくはない」
と話している。

 来日した外国人には、唐招提寺(奈良市)を開いた
唐の高僧・鑑真や、東大寺の大仏開眼供養(752年)
を行ったインド僧・菩提僊那がいる。
また朝廷に仕えた唐の皇甫東朝の名前が墨書された
土器も奈良市の西大寺旧境内から出土している。

 木簡は同研究所平城宮跡資料館(奈良市)で開かれる
「地下の正倉院展」(月曜休館)で
11月1~13日まで展示される。

 https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/special.html#20161015

(引用ここまで)


木簡の記載内容について

大学寮は儒教や法学などを扱う教育機関。
官僚を養成した。
「解」という言葉から下級官司から上級官司への
報告であることがわかる。
宛先は、式部省であると思われる。
大学料の上級官司であり、発見場所にあたるため。
「申宿直官人事」とあるとおり、
大学寮の宿直担当者に関する報告である。

「員外」とは、令の規定する定員以外の官人であること。
「大属」は、大学料の四等官制の最下級にあたる
「属(さかん)」のうち、上位の者を意味する。




765年、大学寮に員外大属の破斯清通が勤務していた。
その29年前の事、『続日本紀』の736年の記述には
「八月庚午。入唐副使従五位上中臣朝臣名代等率
 唐人三人波斯人一人拝朝」


遣唐使が中国から「中国人三人波斯人一人」を
日本に連れてきて、聖武天皇が面会したことが
記されている。


★奈良のペルシア人
 李密翳と乾豆波斯達阿

 http://www.geocities.jp/gur_bahram/pn/pn03.htm
(引用開始)
時は、東大寺の大仏開眼会の16年前、
天平8(西暦736)年のことである。
そのペルシア人は、帰国する遣唐使に連れられて、
はるばる日本へとやって来た。
日本書紀に続く正史、『続日本紀』(しょくにほんぎ)は
次のように記している。

【続日本紀 巻第十二 聖武天皇 天平八年

(訳)
a.(西暦736年)8月23日、遣唐副使・
 従五位上の中臣朝臣名代らが、
 唐人三人・ペルシャ人一人を率いて、
 帰国の挨拶のため天皇に拝謁した。
b.11月3日、天皇は朝殿に臨御し、(中略)
 唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密翳らには
 それぞれ身分に応じて位階を授けた。

『続日本紀』は、そのペルシア人を、
李密翳(り・みつえい)という中国名で記している。
中国では、シルクロードを通じた交易が盛んになるに従い、
漢の時代からイラン文化の流入が始まり、
隋・唐に至っては、宗教、芸術に始まり衣食住の分野に
至るまで、イラン文化全盛ともいうべき大流行を見せたという。
胡服、胡帽、胡粧、胡楽、胡舞、胡酒、胡食など、
イランの風物にすっかり心を奪われた都、長安の
華やかな空気を伝える漢詩として引き合いに出されるのが
李白の「少年行」である。

(中略)
李密翳の「李」姓は、出身国を表すものではない。
李姓は本来、唐の皇帝の姓であるが、
功績のあった外国人が李姓を与えられる例が
多々見られるという。

李密翳もその一例と考えられる。一方、名の「密翳」は、
ペルシア語の本名(井本英一氏によれば「ミフライ」
または「ミフレイ」)を音の近い漢字で表したものだ。
李密翳に関する記述は上に挙げた2行のみで、
彼の生業やその後の消息などは、一切、触れられていない。
それでも、李密翳は、ペルシア人が古代の日本にも
到達しえたことの例証である。
(続きはリンク先で)




★古代に海東の島国にやってきた
 イラン系渡来人たち

 http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_05_02.htm
”イラン系医者は6世紀に来ていた”!? 
nara0424-01.jpg
昭和57年5月8日付けの朝日新聞夕刊からの切り抜き

(引用開始)
弘前大学医学部麻酔科の助教授だった松木明知氏と
中世ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の
伊藤義教氏の共同研究によって、
イラン系の医師が初めて来朝したのは、これまでの通説である
8世紀ではなく、6世紀の半ばであることを解明した
というものである。

通説では、天平8年(736)に遣唐使に従って来朝した
李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人医師とされていた。

松木明知氏は、麻酔術が日本に伝わった時期を
研究するため『日本書紀』をひもといて、
見慣れない二人の人名に気づかれた。
欽明天皇15年(554)の条に記されていた
医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と
採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)
という人物である。

欽明天皇はその前の年に隣国の百済(くだら)に対して、
軍事支援の見返りとして
医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ
と要求した。
要求に応えて百済から派遣されてきた
交代要員の博士たちの中に、二人の医師が含まれていた。

松木氏は親交のあった伊藤教授に解読を依頼したところ、
王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」の
写音文字で「ワイ(神)によって助けられるもの」という
人名であることが判明した。
潘量豊丁有陀についても、「ボリヤワーデン・アヤード」の
写音文字で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」という意味であり、
イラン系の医師であると判断したという。

その他に、天平8年(736)に来朝した李密翳(りみつえい)は
医師とされているが、翳(えい)は中世ペルシャ語では
楽人を表し、医師ではないこともほぼ確実になったという。
(中略

故・松本清張氏が提唱したペルシャ人飛鳥渡来説 
(略)
飛鳥の「謎の石造物」は古代ペルシャのゾロアスター教
と関係があり、飛鳥時代にペルシャ人が我が国に来て
彼らの宗教であるゾロアスター教を伝えた産物である
とする仮説は、勿論松本清張氏のオリジナリティである。
そのオリジナリティの裏付けと取るために、
氏は執筆前に約10日ほどイランへ現地取材を敢行している。

(全文はリンク先で)




ゴメンね、見つけてしまったの♪
★飛鳥時代(ASUKA)がやって来た
 ヤァヤァヤァ!

 http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/51993678.html
(引用開始)
日本史史上初となる本格的な寺院が
蘇我氏の氏寺でもある飛鳥寺(法興寺)になる訳ですが、
実にミステリーになっているという。
先に四天王寺が発掘調査をされており、
その伽藍(がらん:建物の意)の配置を「伽藍配置」と
いうらしいのですが、四天王寺と飛鳥寺は、
ほぼ同時期に造営が始まっている
ので、
同じ伽藍配置になっていると予測されていたものの、
実際に飛鳥寺が発掘されてみると、
飛鳥寺と四天王寺とは異なる伽藍配置であった――と。

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四天王寺式が南北一直線の線で、
中門、塔、金堂、講堂とが配置されていたのに比べて、
飛鳥寺は塔を中心に北と東と西との三方向に
金堂が配置されているという全く異なる配置だったそうな。

(中略)
日本初の寺院、その伽藍配置は意外なものであった。
四天王寺とも異なり、また、当時の蘇我氏の関係からして
百済(くだら)の影響が疑われた訳ですが、
百済でも発見されていない伽藍配置であったという。
飛鳥寺に似ている伽藍配置を探していくと、
高句麗の古都にあたる平壌の清岩里(せいがんり)廃寺の
伽藍配置などが似ていたという。
(当時の高句麗の古都周辺で複数、似た伽藍配置があった。)

(中略)
いやいや、問題はこの後ですよね。
造営には百済から僧侶や寺工や瓦博士と呼ばれる
大工や屋根職人ら技術者の援助を受けたという事までは
日本書紀の記事で触れられている。
ところが、寺工の名前が問題になっている。
どうも技術者は中世ペルシャ語で読めてしまい、
ペルシャ人が飛鳥寺造営に関わっていたのではないか
という指摘が大真面目に為されている。
(大学教授やらが言っている話であり、岩波あたりの書籍だし、
 山川出版社の日本史リブレットでも触れられているので、
 トンデモ系だと蔑める話じゃなさそう。)

太良未多(タラミタ)
⇒タラが倉庫を意味し、ミタが巧みな人の意味に。

文賈古子(モンケコシ)
⇒モンケは鑿(のみ)を意味しており、コシは定規の意味に。

その他にも瓦博士として登場する
麻奈文奴(マナモンヌ)、画工として登場する白加(ハクカ)
にしても職能や道具の意味で中世ペルシャ語で読めてしまう
らしいんですよね。

飛鳥文化あたりから圧倒的とも言える美術品の時代に
なってしまうワケですが、当時にして、既に
西アジアやペルシャなんてところの文化までもが、
想像以上に流入していた気がする。

(引用ここまで)

私も昔読んだ本に
南梁に朝貢を繰り返した百済が、南梁の王様から
経疏(きょうしょ)・毛詩博士・工匠・画師などを
下賜して貰ったという話。

という事は・・・
欽明天皇が百済に軍事支援の見返りとして要求した
「医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」
というのは、梁から来た人々の一族かも・・・


★『梁書』百済伝
 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kudara-kanbun1-ryosho.htm
中大通六年、大同七年、累遣使獻方物;
并請涅盤等經義、毛詩博士、并工匠、畫師等、敕並給之。


中大通六年(534年)、大同七年(541年)、
重ねて遣使が方物を献上し、
併せて涅盤などの経義、毛詩博士、併せて工匠、画師などを
請い求め、勅許によりすべてを供与した。



★梁の仏教界と百済仏教
 http://blogs.yahoo.co.jp/umayado0409/41843854.html
武寧王のあとを継いだ聖王(在位523~554)も
仏教の導入に熱心だった。
『梁書』は、541年に百済が梁に朝貢し、
経疏(きょうしょ)・毛詩博士・工匠・画師などを請うた
ことを伝えている。

聖王がそれまでの首都・熊津(現在の公州)から
泗ビ(現在の扶余)に都邑を遷して3年後のことである。
聖王の要請を受けた武帝は、これらを百済に送った。
梁から招いた工匠などで、百済では多くの寺院が造営された。

(引用ここまで)

★百済本紀にみる百済・倭交渉史(5)
 http://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/32367115.html


★ペルシャ人の石工が
 飛鳥にやって来た

 http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/persiad.html
  lion02b.jpg
  ペルセポリスの獅子
  Lion stone carving at Persepolis

  lion05.jpg
  トルファン(吐魯蕃)の獅子
  清朝時代に作られたといわれている。
  Lion stone carving at Torfan

  lion06.jpg
  北京・紫禁城の獅子
  Lion stone carving at Forbidden City, Beijing

  lion07.jpg
  慶州(キョンジュ)掛陵(クエヌン)の狛犬
  掛陵は8世紀末の元聖王の御陵で、
  新羅統一時代の陵墓 制度が、
  完備した時代の代表的な陵とされている。
  Lion stone carving in Kyongju, Korea

  lion08.jpg
  八坂神社の獅子
  Lion stone carving at Yasaka Shrine,
 Kyoto, JAPAN

(中略)
蘇我氏が飛鳥寺を建立するために、
百済から招いた寺工、鑪盤(ろばん)博士、瓦博士、
画工らはペルシア系の人々であったと言われています。
また、仏師の司馬達等(しばのたつと)親子
ペルシャ人であったらしいのです。 
ちなみに、司馬達等は
鞍作止利(くらつくりのとり)のおじいさんです。


天平八年(736年)、遣唐使に従ってきた
李密翳(りみつえい)もペルシャ人でした。
天平勝宝六年(754年)、 鑑真和上に随行して
来日した安如宝もペルシア人であったと伝えられています。
このように古代日本には、ペルシア人は
案外多く来訪して、 その文化を伝えていたようです。

(続きはリンク先で)


★飛鳥のペルシア人 2 
 亀・飛鳥寺伽藍・エンタシスと飛騨匠

 http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54094686.html


★波斯人(はしひと)とはペルシャ人 その1
 聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた

 http://trakl.exblog.jp/17654666/


聖徳太子はペルシャ系だったのでは?
という2013年のテレビ番組の解説

★世界遺産に隠された
 聖徳太子の正体と平家の野望

 http://poyoland.jugem.jp/?eid=760




先日の、沖縄の遺跡で発見されていた硬貨が
古代ローマのものだったというニュースといい
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4451.html

今日も歴史ロマンを掻き立てるニュースです!




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No title

唐にはペルシャ系やトルコ系の民族がいたことが分かってますね。都の長安は内陸部にありましたし。

支那の歴史というのは地域史であって、民族史ではないわけです。元はモンゴル族の国、清は満州族の国ですし。国名の「中国」と地域名の「支那」と民族名の「漢族」は区別すべきですね。

No title

鞍作止利(くらつくりのとり)は「朝鮮からの渡来人」と某歴史漫画や日本史の教科書には堂々と載っていたような・・・
ペルシャの方に申し訳ない話です。

No title

(日本の)天狗のモデルもペルシャ人ではないかとも。
http://ancientanimals.net/ancient04/68/

また、外交官孫崎氏夫人の紀子さんは「かぐや姫」もペルシャ人(トカラ人)がモデルではないかとして、【「かぐや姫」誕生の謎】を著作されています。


お隣からの渡来人説より、はるかにロマンを感じますね。
しつこく「教えてやった」とか絡まれませんし(^_^;)
プロフィール

あや

  • Author:あや
  • 韓流に嵌った母と義母の為に
    韓国情報を調べていたら・・・
    韓流ブームに仕掛けられた
    怪しい罠に気付いてしまった。
    韓流の闇と、利権や陰謀
    仕掛け人を徹底研究!
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