韓流研究室

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沖縄の遺跡から古代ローマの硬貨

★沖縄の遺跡から古代ローマの硬貨
 国内初、交易で搬入か

 日本経済新聞 2016/9/26 20:51
 
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG26HH8_W6A920C1000000/

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沖縄県うるま市の勝連城跡から見つかった
古代ローマ帝国のコインとみられる銅貨。
皇帝の肖像が描かれていると推定されている
=26日午後、うるま市役所

沖縄県うるま市の勝連城跡(国史跡、12~15世紀)で、
3~4世紀の古代ローマ帝国のコインとみられる
銅貨4点が見つかり、市教育委員会が26日発表した。
市教委によると、遺跡からの出土は国内初。
勝連城が海外交易によって栄えた
14~15世紀の地層から発掘されており

東アジアを経由して持ち込まれた可能性がある。


 市教委は
「西洋との接点もうかがえ、
 当時の流通や交流の実態を考える上で
 貴重な史料」
としている。

 コインは直径1.6~2センチ。
全体的に摩耗が進み、表裏にある図柄や文字は不鮮明。
市教委はエックス線調査の結果から
皇帝の肖像や、やりを持った兵士が描かれた
コインなどと推定している。

 ほかに17世紀のオスマン帝国のコイン1点や、
コインとみられる円形の金属製品5点も出土。
見つかった場所は勝連城跡の「四の曲輪(くるわ)」
と呼ばれるエリアで、それほど身分の高くない人々が
暮らしていたとされる。

 市教委はエックス線で表面の凹凸を読み取ったり、
材質を分析したりしてコインの種類を推定した。
「成分をさらに詳しく調べ、
 産地や搬入路を解明したい」としている。

 勝連城跡は2000年に
世界遺産「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」
の一つとして登録された。

 コインはうるま市立与那城歴史民俗資料館で
11月25日まで開かれる速報展で公開している。
〔共同〕

(引用ここまで)


毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160927/k00/00m/040/094000c
市教委によると、
2013年度に「四の曲輪(くるわ)東区」で
遺構調査したところ、
小さな円形の金属製品10点を発見
ローマ文字やアラビア文字、人物像が確認されたことから、
専門家と分析した結果、
5枚が両帝国時代の銅貨とみられることが判明した。

 3〜4世紀のローマ帝国時代の銅貨とみられるのは
4枚で、このうち2枚は14〜15世紀と推測される
地層から出土した。
大きさは直径1.6〜2センチ、厚さ0.1〜0.17センチ、
重さ1.5〜3.6グラム。
当時の皇帝とみられる肖像や
ローマ字が打たれているものもある。


 また、1枚はオスマン帝国の銅貨とみられ、
直径2センチ、厚さ0.6ミリ、重さ1.2グラム。
「1687年」を示す当時の暦が刻まれているのが確認された。

 勝連城は12〜13世紀に築かれ、
民衆から人気が高かった有力按司(あじ)(領主)の
「阿麻和利(あまわり)」の居城として知られる。
阿麻和利が首里王府軍に攻め入られて敗北したことで
1458年に廃城した。

(引用ここまで)


NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160926/k10010707591000.html
銅貨の年代測定などに携わった沖縄国際大学講師の
宮城弘樹さんは
「江戸時代の琉球が中国と交流していたことは
 知られているが、さらに西の国々とも交流があった
 可能性を示している。
 当時の琉球と外国との交流を知るうえで
 貴重な発見だ」と話しています。

(引用ここまで)




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 サザーク区の墓地遺跡から
 古代中国の人骨2体を発掘

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 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4449.html


★勝連の按司「阿麻和利加那」
 http://www.amawari.jp/amawari.html


★トハラ人
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%8F%E3%83%A9%E4%BA%BA




日本書紀には
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28187169.html
孝徳天皇の白雉五年四月の条、
 「吐火羅國 男二人女二人 舎衞女一人 
  被風 流來 于日向」

という記述がある。

孝徳天皇の白雉5年(654年)4月に、
吐火羅国の男2人、女2人、舎衛の女1人、
風に会って日向に漂着した。

3年後の
斉明天皇の3年(657年)7月の記述では、
「都貨邏国の男2人、女4人が筑紫に漂着。
  『私どもははじめ海見嶋(奄美島)に漂着しました
 と言った。
 朝廷は駅馬を使って彼らを都に迎え、
 飛鳥寺の西に須弥山(しゅみせん)を象ったものを作り、
 盂蘭盆会(うらぼんえ)を行ない、饗を賜った。」


同5年(659年)3月1日には、
斉明天皇は吉野で大宴会を催し、3日、近江へ移動。
10日、吐火羅の人が妻の舎衛の婦人と共にやってきた
と書かれています。

同6年(660年)7月、
都貨羅人乾豆波斯達阿は帰国を申し出た。
「のち再び日本に来てお仕えしたい。
 そのしるしに妻を残して参ります」
と言い、
西海の帰途についた。

天武天皇の4年(675年)元日、
大学寮の諸学生・陰陽寮(おんみょうのつかさ)・
外薬寮(とのくすりのつかさ)および
舎衛の女・堕羅の女・百済王善光・新羅の仕丁らが、
薬や珍しい物どもを捧げ、天皇に奉った
という記事があります。

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「吐火羅・都火羅」とは、
アフガニスタン北部,アム-ダリア上流のバルフ地方を
中心とする古地名,また民族名。
トルキスタンからインド・イランに通じる要地で,
トハラ族がバクトリア王国を滅ぼし,のち大月氏に
属したが,紀元前一世紀末にクシャン朝が成立。

「舎衛」とは 
釈迦在世のころ、中インドにあった国。
舎衛城の南に祇園精舎があった。

吐火羅國 男二人女二人 舎衞女一人は
奄美→日向(筑紫)→近江か

律令制成立当初の日向国は
現在の宮崎県と鹿児島県の九州本土部分を含む広域。
「筑紫」は、主に北九州を指すが
古代では九州の総称とされていたので、
奄美の島から九州に向かったのだろう。
654年に
吐火羅人の男性は、再び来日する事を約束して
妻の舎衞国の女を日本に残して
一旦帰った。
奄美の島に到達してから、大和朝廷に呼ばれるまでの間
3年?の時間差があるのですが
この間に、吐火羅人の言葉を通訳できる人がいたのか?
元々、吐火羅人の言葉を話す人が九州にいたのか?


★吐火羅考
 http://www.geocities.jp/jp_kozoku_ken/Tokara-koh.htm


正倉院に残る「白瑠璃碗」や
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6世紀の大阪府羽曳野市 伝安閑陵古墳から
出土した「円形切子碗」

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★ペルシアン・グラスの物語 その2
 もうひとつの白瑠璃碗

 http://www.geocities.jp/gur_bahram/pn/pn02.htm



そして、沖ノ島8号遺跡から出土した
浮出円形切子碗(断片)

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★沖ノ島出土のガラス碗
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_30_file.pdf
椙山林継國學院大學名誉教授

要旨:宗像沖ノ島八号遺跡からカットガラス碗の
破片が出土している。
完形でもたらされたものの一部と考えられる。
古代日本列島で、容器としてのガラス製品は
輸入されたものと、
7世紀以降、国内で造られた鉛ガラスによるもの
(多くは小型)に分けられ
、輸入されたものは、
ペルシャ製と見られるカットガラスがほとんどである。
新羅で発見されている20余例とは内容が異なっている。
(続きはリンク先で)


以前、出光美術館で見た見事な宝物。
流石は「海の正倉院」と呼ばれるだけの事はある!
沖ノ島だけでなく、本土各地に残るカットガラス。

上賀茂神社境内などで出土しているカットガラスは、
1980年に新彊ウイグル自治区の楼蘭古城跡で
出土したものと類似。

韓国の考古学者は、この宝物と日本書紀の記述から
日本を創った天皇は新羅人だ!
韓国が日本の祖だと言うのですが(日本の考古学者も)
かつての学説は、日本と朝鮮半島の関係しか見ていない。
では、古代新羅とは・・・


★古代新羅④~新羅はローマ文化国だった
http://ameblo.jp/taishi6764/entry-11896610618.html
新羅とローマ文化
▶日本の歴史研究者、ガラス工芸家の由水 常雄は、
三韓時代の朝鮮半島諸国のなかで、
新羅のガラス器だけが異質な要素を有し、
中国ガラスよりローマガラスの影響が強い
と見られる
ことに注目し、
新羅文化がローマ文化の強い影響下にあった
とする仮説を提唱。
(中略)
新羅は、4世紀から6世紀初頭までの間、
突然変異的に、ローマ文化を受容している。

それは古墳より出土している膨大なローマ文化を
背負った出土遺物によってはっきりと認識することが
できるが、新羅におけるローマ文化の受容は、
実はこの時代よりも前の時代の、朝鮮半島の青銅器時代、
中国における春秋末期から戦国時代にかけての
東西文化の大交流時代に、その遠い源流があったのである
つまり、辰韓時代から法興王までの278年間は、
数回(4回)の遣使をのぞいて、
中国とは無縁の国であったという。

(中略)
▶由水氏は、出土した品をそれぞれの系譜を追跡して
その源流をたどっている。
その結果、東洋では類例の新羅特有の築造法に
もとづく積石木槨墳の源流が4、5世紀に
南ロシアを拠点とした匈奴(フン族)にあり、
その匈奴の積石木槨墳が北アジアのサカ族そして、
前7~前3世紀の南ロシアのスキタイ族の積石木槨墳
端を発していることを知った。
また、匈奴が拠点とした南ロシアには、
ローマ帝国の植民地があり、
ローマ文化が大量に流入していて、
それらローマ文化の所産であった金銀製の装身具や
ローマングラス、そして武器や容器類にも、
ローマ文化の影響が色濃く映し出されているものが
多いことを確認する。


しかも、そうした新羅古墳で出土した遺物が、
高句麗や百済の古墳から出土する例が、
極めて稀である
ことを指摘している。

(引用ここまで)




馬韓・辰韓・弁辰について
『後漢書』、『三国志』の『魏書』に記録が残っている。


其南界近倭、亦有文身者(馬韓)
辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、
適韓國、馬韓割東界地與之(辰韓)
弁辰與辰韓雜居(弁辰)
其國近倭、故頗有文身者(弁辰)


三韓のうち、『日本書紀』『新撰姓氏録』などがいう新羅は
辰韓に相当するものと思われるが、
『後漢書』『魏書』に「弁辰與辰韓雜居」とあることや、
6世紀中頃に弁辰の地にあった伽耶
新羅に併合されたことから、弁辰の地も新羅と表現された
可能性があるのだそうだ。

『後漢書』韓伝には、辰韓人は中国秦からの亡命者だ
と受け取れる記載がある。
百済は高句麗と同族で北方系なのだが、
後に馬韓は百済の地になるのだが
馬韓人は「有文身者」とあり、倭人の風俗を持っている。
江南から水稲を持ってやって来た倭人が住んだのが
馬韓や弁辰の地域といえる。
 
朝鮮半島南部と九州に
中国江南から水稲耕作技術が伝わったことが
稲のDNAから解っている。
稲や農工具だけが伝わったのではなく、
当然、人の移動に伴って伝搬された。
これは、稲作を伝えた中国江南の人たちは倭人であり、
倭人は直接日本列島に渡ったものもいれば、
朝鮮半島南部を経由した者もいたと言える。

素戔鳴がいたとされる新羅や
『新撰姓氏録』がいう新羅とは
辰韓・弁辰のことであり、

新羅人とは辰韓・弁辰人を指し、
其國近倭、故頗有文身者(弁辰)とあるように
海人族である倭人特有の、顔に文身をした倭人仲間

辰韓時代から法興王までの278年間は
突然ローマ文化を受容した古代新羅。

新羅第4代国王は、脱解尼師今という倭人だ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E8%A7%A3%E5%B0%BC%E5%B8%AB%E4%BB%8A
『三国遺事』によるとはじめ姓名がわからなかったので、
箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいた
ことから鵲の字を略して「昔」を姓とし
箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、
という。

『三国遺事』の説は文字表記から付会したもので、
「脱解」は新羅語で太陽(または日の出)を意味し
もともと太陽神の神話だったことを表している。
(引用ここまで)


新羅の歴史には「瓢公」という人物も出てくる。
「瓢」という苗字は、彼が新羅初代の王赫居世の時、
新羅に遣ってきた。そのとき腰に瓢をくくりつけていたので
「瓢公」と呼ばれた。「瓢公」もまた「倭人」。
彼は二代から四代に渡って新羅の王に仕えた。
王を後ろで支えながら新羅という国家を作り上げた。

初期の新羅は
韓人と倭人が入り乱れて住んでいた。
韓人の勢力が強いときは韓人が王となり、
倭人が優勢になると倭人が王となっていた。
だから、新羅の王家は三家(朴・昔・金)あった。
そのうち昔(ソク)氏が倭人系の王家
8名が王位に就いている。

初代 赫居世居西干(朴氏)
2代 南解次次雄(朴氏)
3代 儒理尼叱今(朴氏)
4代 脱解尼叱今(昔氏)
5代 娑婆尼叱今(朴氏)
6代 祗摩尼叱今(朴氏)
7代 逸聖尼叱今(朴氏)
8代 阿達羅尼叱今(朴氏)
9代 伐休尼叱今(昔氏) 
10代 奈解尼叱今(昔氏) 
11代 助賁尼叱今(昔氏) 
12代 沾解尼叱今(昔氏) 
13代 味鄒尼叱今(金氏)
14代 儒礼尼叱今(昔氏)
15代 基臨尼叱今(昔氏)
16代 訖解尼叱今(昔氏) .                
17代 奈勿尼叱今(金氏)
 *
 *
22代 智証麻立干(奈勿尼叱今の孫)
23代 法興王 



★古代新羅⑥
 〜アラブの古記録に記述された新羅〜

 http://ameblo.jp/taishi6764/entry-11896707066.html
845年にアラブ人のイブン・クルダドビーが編 纂した
『王国と道路綜覧』という本

新羅に関する興味深い記事がある、として、
次のような記録を紹介している。

中国の向こう側に、新羅という、山が多く、
いろいろな王たちが支配している国があり、
金が多く産出している。
そこには多くのイスラム人が定着していた
重要な産物としては、金 人参 織物の生地 
鞍飾 陶器 剣などがある。


(中略)
6世紀初頭から新羅は国家体制を大転換して、
中国文化を全面的に受け入れてゆくことになります。

それ以来、近代に至まで朝鮮半島には、
異質の文化が流入することはなく、
一貫して中国文化の受容を継続して近代に至るのです。
中国との交流が始まると、
中国を経由したペルシャ系の文物が入ってくるようになり、
ローマングラスからササーングラスに換わります。

そして、648年 に新羅国有の制度を捨てて
はじめて中国風の衣服を用いることになったのです。
法興王以降いろいろな形で中国文化を受け入れる
施策を行っていきます。

(引用ここまで)




★第3部 弥生文化と渡来人の登場
 04.長江中・下流域からの直接の渡来
 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_04chugokutairiku_karano_torai.html
(引用開始)
日本のイネの中に朝鮮半島にない遺伝子があった

 水田稲作農耕の長江中・下流域からの直接伝播の
可能性を指摘したのは、イネの遺伝子に詳しい
農学者佐藤洋一郎である。
佐藤が、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡
から出土した、2,200年以上前の弥生米のDNA分析を
行なったところ、朝鮮半島には存在しない
中国固有の水稲の品種が混ざっている
ことが分ったという。

 RM1_no_8idennshi_no_bunnpu.jpg

(続きはリンク先で)


★日本書紀の解明・・
 邪馬台国と大和王権

 http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/archive/c2303075854-1
(引用開始)
27-11.バンチェンがカリガラスの起源地 
[27.古代ガラスの源流を探る]


タイ東北部のウドンタニ県にあるバンチェン遺跡は、
「24.ジャポニカ一万年の旅」で、
もち米の起源地であると紹介した所である。

バンチェン遺跡からは、エッチド・カーネリアンと
ガラスのビーズが出土している。

(中略)
27-12.稲作とカリガラス 
[27.古代ガラスの源流を探る]

(中略)
古代において、稲作を行っている所では、
そのノウハウさえ伝われば、稲藁を原料として、
カリガラスを製作することが可能であったと言える。
(引用ここまで)


★高エネルギー放射光蛍光X線分析の
 文化財への応用例
 ~重元素組成による
  古代ガラスの非破壊起源推定~

 http://www.spring8.or.jp/ja/science/meetings/2016/2nd_cultural_ws/xrf/


★海底から1600年前の青銅像やコイン
 CNN 2016.05.18
 http://www.cnn.co.jp/photo/35082809-7.html


新羅に定着していたイスラム人達は
どこに行ったのだろう?
彼らと一緒に生活していた、倭人出身の借家の王族や
実力者「瓢公」などの倭人達はどこに消えたのか?
吐火羅國の、おそらく商人の一行の言葉を理解する
倭人というのはどんな人達だったのか。

稲作に伴う「どんと焼き」という行事が、
古代ケルトの文化と似ている事は
去年のハロウィンの記事で解説したのだけれど・・・

新羅にいた倭人と、百済にいた倭人と
日本にいた倭人。
共通するのは文身という顔面に入れ墨をする
海人族の子孫達。

そして、
沖縄から発掘された古代ローマの硬貨。

文献や考古学の発掘による古代史研究に、
最新科学の力が入って来ると
実に面白い!





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