韓流研究室

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「強制連行」とは憎悪表現である-鄭大均名誉教授

★「強制連行」とは憎悪表現である
  - 鄭 大均

 首都大学東京教授名誉教授 鄭 大均
 
http://blogos.com/article/173863/
近年、「憎悪表現」「憎悪扇動」についての
議論を耳にするが、それを言うなら、
ある集団には共感語として作用するが、
他の集団には「憎悪表現」や「憎悪扇動」として
作用するという言葉にも注目してほしいと思う。


朝鮮人強制連行はちょうどそんな熟語で、
学校教科書にも記載されているから、
価値中立的な歴史用語と考える人がいるかもしれない。
だが、この熟語を広めた
『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)
読んでみればよく分かる。
著者の朴慶植は、朝鮮人の被害者性とともに
日本人の加害者性を誇張するために
この熟語を活用した
のであって、
価値中立的な言葉などでは初めからなかった。

 そもそも、この熟語は、
戦時期に労務動員された朝鮮人の体験を指して
使われることが多いが、それを「強制連行」と呼んで、
朝鮮人の被害者性や日本人の加害者性を語る
態度はおかしくはないか。

 注意してほしいが、
当時は朝鮮人も日本帝国の国民だった。
だから不本意ながら朝鮮人も日本人の戦争にも
巻き込まれてしまったのだが、
「朝鮮人強制連行論」は、朝鮮人が炭鉱や軍事工場
に動員されていたまさにその時期に、
日本人の男たちが戦地に赴いていたことには
触れないまま、労務動員された朝鮮人の被害者性や
犠牲者性ばかりを語る。

 しかし朝鮮人に対する労務動員とは、
戦地に赴いた日本人の男たちを補充するための
ものであったのだから、それを無視して、
朝鮮人の被害者性や犠牲者性ばかりを語る
というのは、被害者論としても身勝手すぎる
と思うのだが、
それを批判するものはいない
(朝鮮人にも志願兵制度があったが、
 徴兵制が適用されたのは戦争末期の
 1944年のことであった)


 にもかかわらず、
この本は刊行されるや、ある種の人々に啓示を与え
実践に導く力となる。
70年代、朝鮮総連は日本人に呼びかけて、
朝鮮人戦時労務動員の調査・発掘を各地で行う
が、
それはやがて90年代以降、全国的な交流集会を生みだし、
史料集を生みだし、
強制連行プロパガンダの先鞭をつける。

一方には、
日本国を相手に戦後補償訴訟に取り組んだ弁護士たち
もいたし、ILO(国際労働機関)にかつての労務動員が
条約違反であると提訴する労働組合もあった。

 『朝鮮人強制連行の記録』は、
日本の侵略史や加害史が日本国のアイデンティティに
とって重要であると考える人々にとって
バイブルのような存在であったというだけではない。
この本は日本の社会運動に影響を与えたというだけではなく、
戦後日本で刊行された本のなかでは例外的に
国際関係にまで影響力を発揮したのである。

 とはいえ、
この本が優れていたのは、その書名にある
「朝鮮人強制連行」という熟語であって、
その内容ではない。

日本への憎悪を喚起しながらも
朝鮮人の犠牲者性への共感を示す
という
この熟語の性格は、やがて国際社会において
日本に対する否定的ステレオタイプ(固定観念)を
形成する媒介となり、日本の尊厳を傷つけるに
貢献するのである。


 「朝鮮人強制連行」の熟語はこうして
 世界を駆けめぐる。

60年代半ば、日本の左派系メディアに誕生した
「朝鮮人強制連行」のイディオムは、80年代以後、
マスメディアや教科書に登場し、日本人の心に、
韓国・朝鮮人に対する歴史道徳的な後ろめたさの
感覚や思考を植え込むようになる。

「朝鮮人強制連行」の熟語が優れているのは、
それが日本の尊厳を傷つけるスティグマ(烙印)
でありながらも、
日本人の心に集団的な後ろめたさの感覚を
植えつける
という両義的性格である。

 そして、90年代以後、「強制連行」の熟語は、
「慰安婦」の単語に結びついて、新しい喚起力を
発揮するが、この時期になると、日本よりは
むしろ韓国によって国際社会に発信されるようになる。

「朝鮮人強制連行」の熟語は、
今や慰安婦を象(かたど)ったというあの少女像とともに、
人類史上最悪の組織的犯罪がなされたナチス・ドイツ
に匹敵する犯罪国家日本というステレオタイプの
伝播に寄与するところ大なのである。



鄭大均(てい たいきん)
首都大学東京名誉教授。1948年岩手県生。
専門はエスニック研究、日韓関係。
著書に『韓国のイメージ』(中公新書)、
『在日・強制連行の神話』(文春新書)。最近の編書に
『日韓併合期ベストエッセイ集』(ちくま文庫)がある。


★『朝鮮人強制連行の記録』と
 外国政府の対日工作

 アゴラ 2014年10月21日
 http://agora-web.jp/archives/1617563.html
(引用開始)
この本が言わんとすることは、
戦前の日本は悪虐な支配者であり、
 朝鮮人はその奴隷だった

という点に尽きる。
また、朝鮮人は日帝に土地を奪われて
仕方なく移民化し、かつ戦時中には
日本に強制連行されて奴隷的労働を強いられた
と訴えることで、圧政の実態のみならず、
在日コリアンの存在理由を説明する理論ともなった
ちなみに、朴本人は戦時中に
 普通に大学まで出ているので、
 どういう訳か例外だったらしい





★鄭大均
  t111118_1.jpg
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%A4%A7%E5%9D%87




★朴慶植
  pak.jpg
 http://www.shc.usp.ac.jp/kawa/park/pks.htm
1922年12月7日、
慶尚北道奉化群鳳城面金峰里に生まれた。
1929年3月、両親に連れられ日本に渡り、
大分県西国東郡朝田村(現在大田村)に住む。
1937年3月、同郡田原村(現在大田村)
田原高等小学校卒業、
1940年3月、同村私立習説校卒業。
1941年4月、日本大学高等師範部地理歴史科
(夜間)に入学し、1943年9月卒業。
1942年9月、東京都で国民学校助教となり
45年3月退職する。

8・15解放後、
1946年9月
東洋大学文学部史学科(旧制)に編入学
49年3月卒業。
1949年4月~1960年3月
東京朝鮮中高等(級)学校社会科教員
1956年10月~1957年10月
朝鮮研究所所員
1960年4月~1970年3月
朝鮮大学校歴史地理学部教員
1965年5月『朝鮮人強制連行の記録』を出版し、
大きな反響を呼ぶ。
1976年6月より在日朝鮮人運動史研究会を組織、
『在日朝鮮人史研究』誌を編集刊行。
1977年10月、アジア問題研究所を設立し、
『朝鮮問題資料叢書』などを編集刊行。
1995年12月、2000年を開館目標として
朴慶植氏が収集した文献を基礎とする
「在日同胞歴史資料館」設立準備委員会を組織。
1998年2月12日、交通事故にて逝去。

(続きはリンク先で)


●習説校の沿革  
 http://tyu.oita-ed.jp/kitsuki/yamaga/%E7%BF%92%E8%AA%AC%E6%A0%A1%E3%81%AE%E6%B2%BF%E9%9D%A9%28%E9%87%8E%E6%9D%91%E6%95%99%E6%8E%88%29.pdf
昭和四年、小学校正教員養成科の設置が
認可され、教員養成的性格が一段と鮮明になる。
昭和六年、准教員無試験検定の得点を辞退し、
代って、正教員養成科卒業生に対する
正教員無試験検定の認可を得る。
この頃から、その存在が有名となり、
全国各地から入学する者があり、
遠くは、当時の朝鮮、台湾の外地からの
入学生も幾人かあった。



●大分県私学教育の―系譜
 近現代史研究会4月例会
 1995.04.08 田本政宏
 ―習説校を中心として―
 http://tyu.oita-ed.jp/kitsuki/yamaga/%E7%BF%92%E8%AA%AC%E6%A0%A1%28%E7%94%B0%E6%9C%AC%E6%B0%8F%29.pdf


朴慶植氏は
尋常小学校から高等小学校に進学した後
(1936年(昭和11年)の統計では
 尋常小学校卒業者の66%が進学)

お寺の住職と檀家3軒で始めた
村の貧しい子供達のための私塾「習説校」が
その頃には師範学校になっていたので
進学をしています。

昭和16年には、東京に上京して
夜間部とはいえ日本大学に進学
翌年には東京都内の国民学校で
助教として採用され終戦まで勤務している。


●昭和16年の出来事 1941
http://syowakara.com/06syowaD/06history/historyS16.htm

日韓併合で、
「朝鮮人は日本人の奴隷だった」
と断言していた朴慶植は何故、
戦争中に、「学徒出陣」や「徴用労務者」に
召集されなかったのだろうか?


●日本の徴兵制
 (引用開始)
大学や高等師範学校などの在学者は
最高27歳まで徴集が延期された。
この制度は1943(昭和18)年10月に
廃止(学徒出陣)されたが,
理工系や医科系の学生だけはなお猶予された。
また,師範学校卒業者は
兵役につく期間が短くて済んだ。

(引用ここまで)

朴慶植が、
都内の国民学校で助教をしながら
日本大学に通って勉学できていた頃、
母の兄は、学徒動員
戦地には行かずに済んだものの
労務動員として北海道に”強制連行”され、
道路の建設作業や防空壕造りで
朝から晩まで”強制労働”させられて

ボロボロになって故郷に帰ってきたそうです。
元々、体が弱かった伯父は
帰郷後に寝込んでしまい、2年程療養生活でした。

朴慶植氏は、
そんな経験はしていないのですねぇ・・・





日本国民が、
配給が滞り食糧難に直面し餓死者も出たり
夫や息子が復員しておらず困窮している人も
多くいた終戦の1年後には、
東洋大学文学部史学科(旧制)に編入学・・・

SEALDsの奥田愛基君が卒業した
【キリスト教愛真高等学校】にも
記念講演に行った、無教会主義キリスト教伝道者・
藤井正人氏との接点


●<朴慶植君> 君子のまじわり
 http://www.t3.rim.or.jp/~fujio/YUZURIHA/pak.html
初めて朴君の名を知ったのは、
東洋大学文学部史学科のあるゼミで、
顔を合わせたのが最初だ。
「出来る人だな」という印象を持った。
ある時停留所までの道で
「生活がたいへんでしょう」と聞くと、
「同胞の関係で仕事もあります」とのこと。
それは一九四七年ころで、ああそうか、
かえって敗戦後の東京では、
朴君のほうがいろいろルートがあるのか
と感心した。


(中略)
東京に帰り、十條の
彼の勤める朝鮮高校の門をくぐると、
キム・イルソンの胸像や、北朝鮮の旗が
ひらめいていた。

一番の衝撃は教室やいたるところに掲げられた
ハングル文字が、ひとことも読めなかったことだ。
いちおう英語や、ドイツ語や、フランス語を
かじっていながら、
隣国の文字を知らぬ恥ずかしさに身が震えた。
私はその場で朝鮮語の先生の紹介を頼み、
のち朴君と共に朝鮮大学校の先生になられた、
音韻学者の卓熹洙先生を紹介された。

(続きはリンク先で)




元東アジア反日武装戦線“大地の牙”部隊の
メンバーで同部隊リーダー齋藤和の内縁の妻
浴田由紀子氏の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B4%E7%94%B0%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%AD%90
「朴慶植」と反日思想が解る支援サイト


★朴慶植氏のこと
 東アジア反日武装戦線について
 http://kiyoumohannich.web.fc2.com/ekita/no187.html




★終戦直後の高等教育
 文部科学省
 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317750.htm
■終戦処理
(中略)
昭和二十年八月、終戦とともに、文部省はまず、
このような戦時教育体制を一掃して、
すみやかに平常の教育体制に復帰させることから
とりかかった。(中略)
二十八日には、復員学徒について卒業、復学の
措置を定め、九月五日には、陸士、海兵等陸海軍
諸学校出身者および在学者のうち、
希望する者について大学、高等学校、大学予科、
専門学校および教員養成諸学校への転・入学を
認めることとし、
二十日には、高等学校在学者について
理科から文科への転科を、
十月四日には、高等商船学校在学者の専門学校
への転学を認めることとした。

(引用ここまで)


★戦後の昭和史
 男女別大学進学率の推移

 http://shouwashi.com/transition-rateofgoingontoschool.html
■大学・短期大学進学率
昭和25年(1950)
総数 30.3%   男子;34.6%  女子;17.2%




今朝のTV朝日【モーニングバード】では、
田中角栄を取り上げていた。
貧しい農家に生まれ、尋常小学校しか出ていない
田中角栄の総理大臣までのエピソード。

「この人は
 小学校しか出ていないけれど
 頭が良かったんですね。
 経済的に余裕が有れば大学まで
 進学できた程だったろうに・・・」


そうなんですよ。
頭が良くても、
家計を支えなくてはならなくて
尋常小学校を出たら、すぐに働いた日本人が
大半だった頃に、大学まで進学できた人達・・・

鄭大均名誉教授は、
朴慶植氏にシンパシーを感じた人を
このように表現しています。


>この本は刊行されるや、
 ある種の人々に啓示を与え、
 実践に導く力となる。


この、”ある種の人々”は
本当の意味での経済的困窮を知らないから
『朝鮮人強制連行の記録』を読んで
「何て日本人は極悪非道な民族なんだぁぁぁ!!!」
などと反日思想に染まっていったのでしょうか?



















★米兵が撮った1945年の東京
 http://showa.mainichi.jp/photo/2008/06/post-a036-28.html
 t29.jpg


朴慶植氏やキリスト教徒の藤井正人氏が
東洋大学文学部史学科で学んでいた頃
日本国民の生活は・・・

★闇米購入拒否で、判事が餓死
 1947年10月
  http://www.shueisha.co.jp/gendaishi/detail/event/jiken/yamigome.html
敗戦とともに、この配給制度はマヒしました。
米の配給はわずかで、
さつまいもやとうもろこしなどの「代用食」が
配給になりましたが、
それも遅配や欠配が続きました。
 人々は配給を頼っていては、食べるものを
手に入れることができなかったのです。
配給に頼れない国民は、法律違反とわかっていても、
「闇市」と呼ばれる市場で食料などを手に入れるしか
ありませんでした。

特に
都会の住民が食料を手に入れるのは困難で

しばしば農村に買い出しに行くことになりました。
それでも現金を持っている人はいいのですが
現金がない人は、衣類を売って現金を手に入れ、
その金で生活物資を買いました。
着ているものを次々に脱いで食べ物に換えていく
様子が、まるで食用のタケノコの皮を一枚一枚
はがしていくようだったので、
「タケノコ生活」と呼ばれました。

 このころ、日本の国民にショックを与える
事件が起きました。
1947年(昭和22年)10月、東京地方裁判所の
山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために
死亡したのです。

法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、
正式な配給の食料だけで生きようとしたためでした。

 山口判事本人は、
闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を
「食糧管理法」違反で裁く立場にありました。
 法律を守る立場から、法律違反のヤミの
食料に手を出すわけにはいかないと考えたのです。

 逆に言えば、
当時の日本人は配給だけでは生きてゆけず、
ヤミの食料に手を出さなければ死んでいたのです。

 山口判事は、
「たとえ悪法でも、法律である以上、
 裁判官の自分は守らなければならない」
という意味のメモを残していました。

命か法か。
日本国民を粛然とさせる出来事でした。


(引用ここまで)






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Comments 1

弓取り

強制連行の裏面史(うらめしい)

大陸方面では日中戦争が起きているさなかに日本にいて、戦後も帰国せず日本から恩恵を受け続けて、けっして生死に直面してはいなかった在日コリアン。帰国しても、また日本にやってくるし。

なにか中途半端で、半島にも日本にも負い目でも感じていたのでしょうか。日本人になれるわけでもなく、完全な帰国は”なぜか”しない。(こういうところが彼らの不思議なところです。)

それを正当化するには、自分を被害者に仕立てあげるのが「得策」だったのかも。
日本に外国人として、もの申す立場に立ちたい気持ちが、こころならずも日本在住を正当化しつつ精神的優位を得るのに、「強制連行」などという憎悪表現がしっくりきたのでしょうか。


日本にとっては、いい迷惑ですね。

2016-05-05 (Thu) 00:43 | EDIT | REPLY |   

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