韓流研究室

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在日コリアン映画ポスターに「募集」という名の強制連行

昨日、民団の施設に行ったら
こんなポスターが貼られていた。
【20歳で父は
 「募集」という名の強制連行
 韓国から渡り命がけで異国を生きた】





★映画『花のように あるがままに
 ~「在日」コリアン舞踏家・ 裵梨花~』

 http://hana-aru.com/

構成素案

(引用開始)
京都の西北・西大路御池そばにある
スタジオでの舞踏のレッスンに出かける。
梨花さんに略歴を聞いてみよう。
「私は、在日コリアン二世として、
 岐阜県の各務原に生まれました・・・・」
(この梨花さんの声を導入に、舞踏家としてだけでなく、
 人権教育などにも活躍する梨花さんの略歴を、
 スチール写真なども交えながら紹介する。
 人権教育では、京都や滋賀など中学・高校
 300校以上を訪ねて、
 生徒らに自分の経験などを語ってきた)
(中略)
「特別永住権」・・・聞きなれない言葉だが、
戦前から日本に居住していた韓国・朝鮮人と
その子孫が日本で生活することを許された権利
以前は、常時携行しなければ罰せられたが、
今は、官憲に尋ねられても、その所在を
申告するだけで良いという。
梨花さんは、
自分の日本名が、「佐藤」であったこと、
何故、本名を名乗るようになったか、
日本に帰化する「在日」コリアンが多いのなか
何故、そうしないのかの思いを語る。
「自分の民族への誇り。
 しかし、一人のコリアンとして日本を愛している。
 韓国の同年代の人と感覚が合わないなど
 アイディンティの問題での悩みは尽きない」と語る。

(中略)
〇岐阜県・各務原市。

旧日本軍、各務原飛行場の掩体壕跡を
訪ねる梨花さんと美沙さん。
この飛行機を退避させるための掩体壕は、
梨花さんの父・ 裵学奉さんが
日本に来て戦時中に掘っていたところだという。

(中略)
そして、梨花さんは、美沙さんに一冊の本を渡す。
『「募集」という名の強制連行』。
学奉さんの証言を地元の郷土史家
まとめたものである。

(引用ここまで)

映画の主人公になった、朝鮮舞踏家で
人権教育にご熱心な裵梨花さん(60歳)とは
こんな方・・・





 「募集」という名の強制連行???






『「募集」という名の強制連行』という
無茶苦茶なキャッチコピーは
例によって、サヨクの「良心的日本人」
付けたタイトルだ。


★本の紹介/「募集」という名の強制連行
 坪内廣清

 朝鮮新報(朝鮮総連機関紙)
 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj1998/sinboj98-3/sinboj980327/sinboj98032765.htm
植民地時代、多くの朝鮮人が日本へ強制連行され、
炭坑、鉱山、地下工場、軍需工場などで働かされた。
本書で紹介する在日同胞1世の裵学奉さん
(岐阜県各務原市在住)もその体験者だ。

 裵さんが日本に渡航したのは「募集」としてだが
何の自由もなく拘束され、宮崎、広島、兵庫、三重、
福井、岐阜の軍事施設などで6年間、労働を強いられた。
祖国解放後は日本に残ったが、
今度は朝鮮人として差別を受けた。
本書ではこうした裵さんの体験をまとめている。

第1部では、植民地時代の故郷の暮らしや、
強制連行されたあと日本での60年間の体験を
証言をもとに整理。
2部では、証言だけでは分かりにくい内容について、
12の項目別に解説した。

「裵さんの体験は個人のものだが、
 強制連行された朝鮮人労務者の共通の体験」
だと指摘する著者。
裵さんの証言を通して、強制連行の実態の
一端を訴えている。 定価=1800円、彩流社

(引用ここまで)


著者の坪内廣清とは・・・

★国民学校の子どもたち
 坪内 廣清 著
 http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-88202-830-7.html
内容紹介
「神の国」教育を徹底した戦中の国民学校
(現在の小学校)の実態を明らかにし、
その教育内容がどのようなものであったのかを
元校長が体験を交えて明かす歴史教育への提言。

著者略歴
坪内 廣清 (つぼうち・ひろきよ)
1956年 立命館大学文学部史学科卒業
1972年 岐阜県教育センター研修主事
1986年 岐阜県郡上郡明方中学校長
1988年 各務原市少年自然の家所長
1989年 各務原市中央中学校長
1992年 各務原市那加中学校長
現在 各務原市歴史民俗資料館勤務


★訃報2005年7月
 http://www.gifu-np.co.jp/huho/huho0507.htm 
坪内 廣清氏(つぼうち・ひろきよ=
 元各務原市立那加中学校長、
 元各務原市小中学校長会会長)

3日午前4時、脳挫傷のため
羽島郡笠松町の病院で死去、72歳。



1933年 昭和8年生まれの坪内廣清氏。
尋常小学校から国民学校に変わり、
神武天皇から昭和天皇まで、
歴代天皇の名前を暗記し
戦争中は授業どころではなく
終戦後はGHQの命令により
教科書の天皇の記述などを墨で
全て黒く塗りつぶさせられた世代ですね。

小学生の時に、それまで教わった事を
完全否定されて「今までの事は全部悪」と
叩き込まれて育った世代です。
ねじ曲がっちゃう世代ですよね・・・

私の母も同じ世代ですから
自己のアイデンティティーが混乱してしまうの。

東北など地方の、
中学を卒業したばかりの少年少女が親元を離れ
都会に集団就職して汗水流して働きながら
家に仕送りなどしていた時代に
(1953年(昭和28年)の銀行員大卒初任給5600円)

学費のお高い私学の立命館大学に入学できる
(私学の授業料は19,260円
 現代の価値に換算すると257,781円
 http://nenji-toukei.com/n/kiji/10038/%E7%A7%81%E7%AB%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%8E%88%E6%A5%AD%E6%96%99
恵まれた環境に育ったお坊ちゃんが
左翼インテリ教授が牛耳る大学で、
しかも当時から立命館の史学科は中央とは違う
人権や部落問題に重きを置いた講義をしていたとか。

校長も歴任して、退職してから悠々自適に
『「募集」という名の強制連行』だなんて本も
出版できちゃうワケですよ・・・




>裵さんが日本に渡航したのは
 「募集」としてだが、
 何の自由もなく拘束され、
 宮崎、広島、兵庫、三重、 福井、岐阜の
 軍事施設などで6年間、
 労働を強いられた。


一部の人の証言を解釈して本を書く。
だけど、この様な事実は無視するのよね・・・


★大阪で生まれた李明博
 高世仁の「諸悪莫作」日記
 http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080421
(引用開始)
李明博氏は、41年12月8日、
真珠湾攻撃の日に、いまの大阪市平野区の
「島田牧場」で生まれた。(略)
李明博の父親、李忠雨(イチュンウ)さんは
飼料やりなどの牛の世話や乳絞りの作業責任者
の立場にあった。
戦時中、日本の男たちは兵隊に取られ、牧場でも
朝鮮半島出身者が貴重な労働力だった。

父親は日本海に面した現在の浦項(ポハン)の出身で、
背が高くて体格がよく、温和な人だった。
牧場では古手で、彼に引き寄せられるようにして
同郷の男たちが海を渡ってやってきた

父親は牧場主から非常に信頼されて、
作業責任者、まとめ役のような立場にあった。
島田牧場の敷地の中に朝鮮人作業員の住宅があって、
李一家は家族で大きめの家に、多くの独身男性は
小さな家に住んでいた。戦時中、この牧場には
10名ほどの朝鮮半島出身者とその家族が
住み込んでいたという。
(中略)
李明博の母親とその姉(金兄弟の母親)の姉妹は
非常にキリスト教(プロテスタント)の信仰心が篤かった。
李明博の母親は厳しく、毎週日曜には、
子どもたちは必ず日曜学校に行かされたそうだ。
水曜には祈祷会もあった。
(中略)
伝道師も信者も朝鮮半島出身者だけの
教会だったという。

毎年クリスマスも祝いました」と金滎植さん。
キリスト教徒が肩身の狭い思いをしていた
はずの戦時中、朝鮮人だけの教会が活動していた
というのは意外だった。
こういう自由な空間がまがりなりにもあったのだなあ。


(中略)
李明博一家について取材しているのだが、
戦時下の朝鮮人と日本人との具体的な関係を
知ることができたことも収穫だった。
日本人も朝鮮人も子どもたちは、メンコやビー玉で
一緒に遊んだ。
金滎植さんは「差別は感じなかった」という。

こういう話にはほっとさせられる。

(中略)
李一家は、愛知県の岡崎、
ついで三重県伊賀上野へと、
海軍の飛行場建設を請け負う仕事をする
父親
について引越しした。
父親は、仕事ができた人のようで、
すぐにたくさんの人夫を雇って
建設の請負をやっていたという。


(全文はリンク先で)



戦後、朝鮮学校を開校するにあたり
李明博の父親のように旧日本軍に協力して
軍事物資を供給する商売で財を成した同胞が
学校建設の資金を寄付したりしていたよねぇ・・・


★在日・強制連行の神話
 鄭 大均【著】
 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784166603848





「日帝末期の体育政策と
 朝鮮青年に強制された健康」


おいおい
体育の授業も「強制された健康」って・・・
朝鮮総督府の学校教科書の「保健体育」には
公衆衛生の授業もあったけれど
あれも「強制された清潔」になるんかい?

ハングルに「오자미」という言葉があります。
発音は「オジャミ」。
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何に使うかはお分かりですね!
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そう、運動会で行う玉入れ競技の玉の事を
韓国では「オジャミ」と言います。
語源は、
日本のお手玉の、西日本方言「おじゃみ」です。

子供だけでなく、大人も楽しみます。
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併合期の朝鮮では、
学校で運動会もありましたし

■必見!幸せな子供たち 
 日本統治時代の朝鮮小学校運動会

  
 https://www.youtube.com/watch?v=i7ulNW-2woE

移住した日本人達が
「地区対抗運動会」なんてしていたのを
k40.jpg
一緒に参加したり、見学したりしていて
玉入れ競技を愉しむ習慣が残っているのでしょう。
今も知らぬ間に「日帝残骸」を謳歌している・・・

強制された「玉入れ競技」ですねwww

併合期には朝鮮の人達も
のんびりとお花見もしているのですよ。

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★韓国人「日帝時代の小学校の教科書
 (参考書)をアップする」
 →「なぜハングルを教えてるのか?」

 http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/33319174.html



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2016-02-26 (Fri) 13:48 | EDIT | REPLY |   

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