韓流研究室

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京都でパール判事の顕彰記念式典、インド総領事館副領事ら献花

★京都でパール判事の顕彰記念式典 
 インド総領事館副領事ら献花

 産経新聞 2015.11.22 07:04
 
http://www.sankei.com/region/news/151122/rgn1511220054-n1.html
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第二次大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で
被告人全員の無罪を主張したことで知られる
インド代表判事、ラダ・ビノード・パール博士
顕彰する記念式典が21日、京都市東山区の
京都霊山護国神社で開かれ、
在大阪・神戸インド総領事館の
バル・クリシャン・アナンド副領事らが
顕彰碑に献花を行った。

パール判事は
連合国側が派遣した判事の一人で、
平和に対する罪と人道に対する罪は
 戦勝国により作られた事後法である

として、東京裁判そのものを批判した
同神社には平成9年、
インド独立50周年を記念して
パール判事の顕彰碑が建立されている。

 この日は、主催の近畿偕行会のメンバーら
約50人が参加。神事のあと、一人一人が献花を
行った。アナンド副領事は
「日本の方々がパール判事に敬愛の念を
 抱いてくれているのと同様に、
 パール判事も日本のことを愛していた。
 今後も日印のパートナーシップが
 さらに深まっていくことを祝します」

とあいさつした。

(引用ここまで)



1997年11月、
インド独立50周年を記念し、
京都府京都市東山区の京都霊山護国神社に
顕彰碑が建立された。
パール判事の長男夫妻が来日し
除幕式が行われた。

2006年12月、
来日したインドのマンモハン・シン首相が
衆議院にて行った演説で
「戦後、パール判事の下した
 信念に基づく判断は、
 今日に至っても日本で記憶されています」
と語り拍手で迎えられた。

■パール判事の言葉
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「裁判の方向性が
 予め決定づけられており、
 判決ありきの茶番劇である」


「戦争に勝ち負けは
 腕力の強弱であり、
 正義とは関係ない」




パール判事と共に
覚えておきたい人がいる。

”ネタージ”スバス・チャンドラ・ボース
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★インド独立の英雄・チャンドラ・ボース
 http://www.kajika.net/wp/archives/230
(引用開始)
スバス・チャンドラ・ボースは
インドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、
自由インド仮政府国家主席兼
インド国民軍最高司令官。ベンガル人である。
第二次世界大戦勃発後、密かにインドを脱出して
陸路アフガニスタンを経て、ソ連でスターリンに
協力を要請するが、断られたため、
ソ連経由でナチス政権下のドイツに亡命した。

ムッソリーニやヒトラーにも協力を要請するが、
ヒトラーには「インドの独立にはあと150年はかかる」
と言われ協力を拒否された。
ドイツではインド人から成るインド旅団(兵力三個大隊、
約2000人)を結成し、
イギリスからの独立のためにベルリンから
反英ラジオ放送をしている。

これを聞いた日本がインドへの影響力を考え、
スバス・チャンドラ・ボースとの協力を承諾。
日本からドイツへの要請で、
ドイツ海軍の潜水艦Uボートでフランス大西洋岸の
ブレストを出航、インド洋でUボートから日本の
伊号第二九潜水艦に乗り換えて来日している。

日本の支援によってシンガポールで
「自由インド仮政府首班」に就任。
英領マラヤや香港で捕虜になったインド兵を中心に
結成されていた「インド国民軍」の最高司令官にも
就任し、インド国民軍は日本軍とともに
インパール作戦に参加した。

日本の敗戦により、日本と協力してインド独立を
勝ち取ることが不可能となった。
スバス・チャンドラ・ボースは東西冷戦を予想し、
イギリスに対抗するためソ連と協力しようとした。
しかしソ連へ向かおうとした時、
台湾の松山飛行場で搭乗していた九七式重爆撃機
の墜落事故により死去。彼の臨終の言葉は
「インドは自由になるだろう。
 そして永遠に自由だ」。

スバス・チャンドラ・ボースの遺骨は
東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺で眠っている。

インドの国会議事堂の正面には
スバス・チャンドラ・ボース、右にはガンディー、
左にはジャワハルラール・ネルーの肖像画が
掲げられている。
インドでは現在も人気の高い政治家である。
また現在もコルカタにはボースがインドを脱出する
直前まで住んでいた邸宅(ネタージ・バワン)が
記念館となっている。(ウイキペデイア)

(中略)
日本の敗戦と同時に
まだインドを支配していた英国は、
スバス・チャンドラ・ボースの将兵全員を
戦犯として軍事裁判にかけた。
この時に
ガンディー、ネール以下インドの民衆は、
インド独立軍の無罪を主張して
裁判闘争に勝利している。
インドからは戦犯は一人も出なかった。


東京裁判でインドのパール博士が
ただひとり戦犯無罪論を唱えたことを
インド人は誇りに思っているという。
(全文はリンク先で)


 
★アジアにおける日本と大東亜戦争
 インド編

 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_5.html

★日本の中にあったインド独立の原点
 http://yorozubp.com/0008/000808.htm

★スバス・チャンドラ・ボース
 (1897年~1945年) [インド共和国

 http://blog.goo.ne.jp/nakazumi1192/e/411dd552b0176d348494fb14dccb2ecd

★チャンドラ・ボース
 http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2012/06/post-0209.html

★スバス・チャンドラ・ボース氏の
 最後の一日

 http://yorozubp.com/netaji/academy/190lastday-j.htm

★英雄チャンドラ・ボースいまだ帰国せず
 日本とインドの終わらない「戦後」

 http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/chandra_bose.html

★スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還
 http://yorozubp.com/9808/980815.htm


蓮光寺には、
インドのプラサード大統領、ネルー首相、
インディラー・ガンジー首相などが訪問しており、
その時の言葉も碑文として残されている。

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インドの反政府過激派組織は・・・
★インド・スズキ工場暴動に
 インド共産党毛沢東主義派の影

 2012年7月23日
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1966.html




先日、日本共産党は
代々木に所有するビルを8億円で売却した。
来年の参議院選挙に向けて、
活動資金を捻出するための売却なのだろう・・・

何故、日本共産党は
代々木の1等地にいくつものビルを
所有しているかというと・・・
電気溶接学校を経営していた岩田英一氏
戦後に学校敷地を共産党に寄贈したから。
岩田氏とは・・・


★岩田英一
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E8%8B%B1%E4%B8%80

昨今の国会前デモとソックリ
★第013回国会 本会議 第38号
  昭和二十七年五月六日(火曜日)
 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0512/01305060512038c.html
・木村法務総裁のメーデー当日の
 騒じよう事件についての報告及び質疑

(中略)
しかして、参会者に対して実力をもつて
人民広場へ行こうなどと激烈な口調で煽動し、
一方、その間会場内外にあふれた参会者に対し、
都学連傘下の学生その他極左分子等
数班にわかれて列車を縫い、人民広場に行こう、
人民広場を力で取返せとアジリながらまわり、
また「アカハタ」復刊第一号、
「球根栽培法」「平和と独立」「平和と独立のために」
等というパンフレツトを、資金カンパと称して
販売するとともに、激烈な内容のビラ数十種類を
散布いたしたのであります。

(略)
警察官の負傷者は、重傷者八十三名、
全治三週間以上、軽傷者六百七十人名、
合計七百大十一名、外人の負傷者は合計十一名……。
(略)
本件は、一部極左的破壞分子が、
群衆の興奮を利用しで、激越な煽動によつて行つた
計画的、組織的な暴挙でありまして、
彼らのいわゆる軍事委員会の指導による
計画的軍事活動として実践されたものと考えられる
節があるのであります。
実際騒擾に加わつたと思われる暴徒は、
それぞれあらかじめ用意していた日本共産党地区委員会旗、
同細胞旗、北鮮国旗等のほか、竹やり、くぎつけプラカード等
を振りかざし、これを武器として使用していたのでありますが、
その数およそ六千名、内訳、旧全労連系労組員及び
自由労働組合員約千名、全学連系左翼学生約二千余名、
極左系朝鮮八二千数百名程度と推定されるのであります。
 
なお、今日までに騒擾罪容疑で検挙した者について
年齢層をみまするに、三十才未満の青少年が全体の
約三分の二を占め、また学生、朝鮮人、自由労務者、
日本共産党細胞員などの占める割合が比較的多い
ということは、この暴挙に参加した者が、特定の年齢層と、
ある種の組織体に属する階層であることを推知せしめる
ものであります。

(中略)
これら極左的破壊分子のメーデーを利用する
策動に関する情報が入手されたのみならず、
メーデー会場及び行進中において、
人民広場へ参集せよ、実力で人民広場を鬪いとろう
等という内容のビラが多数散布されて、
大衆を煽動するなどの行為が活発に行われました。
また日本共産党幹部岩田英一君が主要な役割を
演じており
、また京都においては、日本共産党の
有力党員である府会議員、市会議員らが
煽動行為をしているのも、ほぼ明らかになつている
次第であります。
さらにまた、東京及び京都における破壞的暴力行為
の手段方法は、彼らのいわゆる
ゲリラ的革命活動方針にのつとつて、計画的かつ
組織的に行われたものであると推定されること
などから、今回の事犯が、
その背後において明らかに
一部破壞的な共産主義者らの組織を基盤とし、
その指導並びに煽動のもとに行われたものである

と推測し得られるのであります。
(引用ここまで)


★戦時抵抗と政治犯の釈放
 岩田英一氏に聞く(2)
 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/655/655-06.pdf
(引用開始)
1932年7月10日,
日本共産党が「赤旗(セッキ)」号外で
三二テーゼ,すなわち
「日本における情勢と日本共産党に関する
 テーゼ」を発表しました。
(略)
日本革命についてもまずは
民主主義革命により天皇制を打倒し,
次に労農階級を主体とするプロレタリア革命を
めざす二段階の革命論に立っていた。

(略)
私が電気溶接学校を設立したのは,
満州事変以降,情勢が一変し,
合法舞台でしか活動の余地がなくなったからです。
この事態にわれわれは新しい形態で,進歩性や
普遍性,
あるいは戦争が終結したのちにおける
新時代を準備する構想をもって対応する
必要がありました。
私の場合,これが電気溶接学校の設立だった。

(略)
電気溶接学校を代々木に移転
(略)
学校は1936年4月に,杉並区馬橋から
渋谷区内の現在の日本共産党本部の
敷地に移転しました。

日中戦争勃発の前年のことです。
この移転を機に,学校名を
東京高等電気溶接学校に変更した。
この電気溶接学校の土地と建物は,
後にも述べますが
1945年10月6日に徳田球一を通じて
日本共産党に寄贈しました。

(略)
おかげで経営は設立2年目から軌道に乗り,
日中―太平洋戦争期における軍需ブームの
なかで思いのほか蓄財することができた。

日本共産党もこの恩恵にあずかった。
だって共産党は私の電気溶接学校を
無償で手に入れたもの。

(略)
左翼青年の入学
電気溶接学校で学ぶ者に,インテリと思われる
青年や左翼青年が少なからずおりました。
彼らは自らの経歴や素性を隠して入学し,
溶接技術を修めて新しい職場へ転身を
図っていた。もちろんその意図は
非合法活動の継続や,自らにおける左翼活動の
経歴を消し去ることにあったでしょう。

(引用ここまで)

★戦時抵抗と政治犯の釈放
 ―岩田英一氏に聞く(3・完)

 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/656/656-04.pdf
私は1945年,46年4月の時点で
日本共産党の入党事務係,市民対策部の
メンバーで,隠匿物資摘発の闘争や食糧闘争を
指導していた。
(略)
当時GHQや,同盟通信社――
のちの共同通信社と時事通信社に
入ってくる外信,内信の情報は,
共産党においても重要だった。
伊藤律はこれらの情報収集にとても熱心だった。
他方で,共産党は自らの方針や情報をひろく
発信する必要があった。
(略)
こういう事情もあって,日本共産党は
まずは党再建の重要拠点として,
通信各社や朝,毎,読の全国紙,
またNHKなどに党員記者の確保と細胞を
結成することを優先した。

新聞単一(日本新聞通信放送労働組合の
略称,1946年2月9日設立――編者注)は
実際上,
共産党がオルグして結成したのです。

党本部の土地と建物を寄贈
日本共産党は1945年12月1日,
渋谷区千駄ヶ谷4丁目714番地の現在の
党本部において第4回大会を開催した。
じつに19年ぶりの大会だった。
私は感慨ひとしおだった。
会場となった党本部の土地と建物は
私が寄贈したもので,1945年2月まで
東京高等電気溶接学校だった。
(略)
本部となった土地のみで500坪を超す。
徳田は大変喜んだ。
だって共産党はそれまで非合法の存在だった。
それが現在のJR山手線,中央線,総武線の
代々木駅そばに堂々と本部を構え,
屋上には特大の赤旗が揚げられた。
(略)
私は電気溶接学校の土地と建物を寄贈した
さい,徳田から本部にふさわしい建物に
するよう改築を頼まれた。
全体に鉄筋を入れて補強し,間仕切りをして
部屋数を確保した。
かかった費用は約6万円です。
私はこの改築費も負担した。

(略)
私が寄付・拠出した金額は土地・建物を除き,
合わせて15,6万になります。
当時はとてつもない金額でした。


―― 現在ではどのくらいですか。
岩田 換算したことがないですね。
敗戦の時点で,逓信省の吏員の本俸が
30歳で90円くらいだった。
ちなみに
当時1万円で,世田谷区代田1丁目に
土地100坪,樹齢5~60年の松の木を庭に植え,
池が付いた邸宅を買うことができました。

(略)
けれども『日本共産党の60年』(1982年)など
宮本体制のもとで編まれた党史は,
私の件
――党本部となった土地建物の寄贈や金銭の
寄付を含めて一切これを紹介していない。


(中略)
金天海の演説は,朝鮮民族において
新時代が到来したことを強調し,
日本共産党と連帯して民主主義人民の
新国家を樹立したい

そこに力点があったと思いますね。

(略)
とにかく飛行館の講堂に,あるいは玄関前や
街路にも赤旗や太極旗が振られ
「解放戦士万歳!」
「戦争犯罪人を処罰せよ!」

といったスローガンが繰り返し唱和された。

(中略)
GHQへの感謝デモ
岩田 
自由戦士出獄歓迎人民大会は,
午後5時少し前,実行委員会が提案した
GHQに対する感謝デモの実施を決議して
終わりました。
このデモは人権指令をはじめ,日本が,
GHQの尽力によりデモクラシーと平和の国家
として再建の途についたことに対して,
日本人民として感謝の意を表するという名目で
企画されたものでした。

(中略)
「府中組」の出獄式も,
自由戦士出獄歓迎人民大会も,
またGHQに対する感謝デモも,
日本人民と朝鮮人民が連帯して実施した
ところに特徴があったと思いますね。
同じ抑圧された人民として,連帯と共同の
精神が集会やデモにみなぎっていました。
GHQに対する感謝デモは,
急ごしらえの赤旗や
「天皇制打倒!」
「戦争犯罪人を処罰せよ!」

といったプラカードを掲げて出発した。
日比谷交差点をへて,GHQ本部があった第一生命館
=第一相互ビルに到着したのは夕刻6時近くだった。

不思議だったのは,
このGHQへの感謝デモを先導し,
警備を担ったのが米軍のMPだったことです。
またデモ行進中,あちこちから
「進駐軍万歳っ」「解放軍万歳っ」
という声が上がった。
音頭をとったのは椎野と伊藤憲一で,
デモ隊がGHQ本部に到着してからは
「マッカーサー元帥万歳っ」を繰り返し唱和した。

(全文はリンク先で)



凄い歴史だな・・・
第二次大戦後の極東国際軍事裁判で
パール判事が被告人全員の無罪を主張し、
一方、日本共産党は、
日中ー太平洋戦争特需で莫大な蓄財をした
岩田氏から500坪の土地と建物を寄贈され
改築費や出所のご祝儀15~16万も貰い・・・

日本共産党と連帯して民主主義人民の
新国家を樹立したい在日朝鮮人と共に
GHQへの感謝デモ行進を行って

「天皇制打倒!」
「戦争犯罪人を処罰せよ!」
「進駐軍万歳っ」
「解放軍万歳っ」
「マッカーサー元帥万歳っ

を繰り返し唱和してたのか・・・・

これが、
「9条守れ!」「戦争法案反対!」
「アベ倒せ!」と騒ぎ立てている
【国民連合政権】樹立を目論む人達
終戦直後の姿なのです・・・
恐ろしいわ!

そりゃあ「日本共産党党史」には
掲載できない黒歴史だわ・・・

戦争特需で儲けた資産を無償で手に入れた
代々木のビルを1つ売却して
8億円をゲットした日本共産党。

その後、岩田英一さんはどうなったのか?


★百合子の著作権収入考
 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron_hosoku11_tyosakukenco.htm
戦後党運動が始発した時、
事務所は府中刑務所の付属施設であった国分寺の
自立会に置かれていた。
徳球が刑務所長を脅して分捕ったものであったが
何しろ手狭であった。
この時、岩田氏が登場し、
所有していた渋谷区千駄ヶ谷の電気溶接学校
(現在の党本部所在地)の約500坪、建物250坪を
徳球個人に寄贈するという形で提供し
合わせて入党した。
時価数十億円は下るまいとされている。

岩田氏がそれほど徳球に惚れ、
為した義挙であった。
徳球も、岩田氏の功績を称え、
党中央委員候補として待遇していく。

 徳球はこのことを気にかけており、
「50年分裂」の煽りで中国へ密航するに当たり、
 「岩田君には世話になった。
 土地建物は岩田君名義に返しておくように

と言い残したと伝えられいる。
しかし、この手続きはとられなかった。
55年の六全協で、反徳球系最筆頭の宮顕が
指導部を掌握した。
当然の事ながら、宮顕と岩田氏の間がしっくり行く
事は無かった。そういう事情もあって、岩田氏は、
1961年、第29回総選挙の総括をめぐる意見の
相違を直接の契機として除名された。
時の宮顕書記長ら党指導部は
岩田氏に何の補償も行わず、無一物で追放している。
岩田氏は、結局党外の人となってその生を終えている。

(引用ここまで)


★兜町の男 第6回
 http://g2.kodansha.co.jp/10955/11401/12940/12941.html

★旧民青会館取り壊される
 2010年10月26日
 http://kinpy.livedoor.biz/archives/51880350.html
*コメント欄より
>私より10年くらい前の世代の民青幹部
 たちから聞いた話では、一生懸命、全国的に
 カンパ運動をやって土地も買って
 (おそらく共産党支持者からかなり安く)、

 建設したと聞きましたよ。

 既に亡くなって、かなり時間がたってしまった
 元委員長の福重泰次郎からも、酒の席で
 「会館つくるの、大変だったんだぞお!」と
 自慢つらつらの話を聞かされましたよ。
 でも、「新日和見事件」で、一種の「弾劾」
 (人民裁判のような)にあのホールが
  使われたんですよねえ。

 ひとつの歴史の終焉ですね。
 とうとう、先輩たちの心を
 土地と共に売り払ってしまったんです。



>共産党中央委員会本部ビルは
 故岩田英一さんという戦前からの党員が
 戦前に設立した電気溶接学校の土地・建物を
 戦後寄付したものです。
 (岩田さんは戦後除名されます)

 いくら除名したからと言って
 そのような党に対する功労者の名前は
 永遠に記憶すべきでしょう。
 現在の党本部勤務員は
 そのことを知っているのでしょうか?


 他にも共産党は
 多数の不動産物件を所有しています。
 中には寄付されたものも多いと聞きます。
 (略)
 民青会館も借金のかたに売却されたのでは
 たまりませんね。私だって同盟費払ってた時期が
 あるんだからかつて民青に所属した人々と
 社会に向かって何故取り壊したのか?
 所有権等はどうなったかなどについて
 公表すべきでしょう。

>岩田英一元・中央委員候補≒准中央委員は
 91才の時である!1997年06月12日の13時頃…!
 朝日新聞の報ずるところでは
 《衆議院2階の副議長室前の廊下で
  共産党の東中光雄議員に対しドライバーを入れた
  封筒を数回振り回し…かけつけた衛視様に
  (身柄を)引き渡されたようです




日本共産党が目指す「日本革命」とは、
”民主主義革命により天皇制を打倒し,
 次に労農階級を主体とする
 プロレタリア革命を めざす”
らしいのですが、

党を仕切っているのは
ブルジョア階級の上級党員。
代々木の、宮殿のような党本部は
多くの一般党員(信者)やブルジョア支持者らの
カンパ運動というお布施により、
驚愕の募金額で立て替えられた。


★新しい党本部ビルが完成しました
 http://www.jcp.or.jp/tokusyu/kensetu_bokin/syunkou.html
<全党と多くの支持者・協力者の力にささえられて>
財政面では、総予算85億円のうち、
40億円を募金(寄付・協力借入金をふくむ)

45億円を積立基金によってまかなう方針のもとに、
全国の党員・支持者に協力をよびかけたところ、
実にたくさんの方がたにこたえていただき、
募金目標を達成することができました。
(引用ここまで)


★【週刊金曜日】
 憲法学者・小林節氏「安倍首相に
 日本を乗っ取られるよりは
 共産党の方がいい」
 制服向上委員会と共に
 安倍政権打倒・護憲訴える

 正義の味方 2015年11月22日
 http://www.honmotakeshi.com/archives/46980421.html



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