韓流研究室

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沖縄の三代続く共産党員のおじい「おじが朝鮮で少女を捕まえ、親戚が慰安所経営」と告白

★沖縄のおじいが語る沖縄戦・
 最後の証言「警官だったおじさんは
 朝鮮半島で若い娘を捕まえ、
 日本へ送っていた…」

 2015年09月13日 06時00分提供:週プレNEWS
 
https://web.archive.org/web/20150916204822/http://yukan-news.ameba.jp/20150913-31/
  ob.jpg

辺野古(へのこ)から北へ車で1時間ほどの
場所にある、東村高江(ひがしそんたかえ)の
米軍北部訓練場では、垂直離着陸機オスプレイが
使用できるヘリパッド(離着陸帯)6基の建設工事
が進んでいる。

そのゲート前で今も反対の座り込みを続ける
伊佐真三郎さん
が前編に引き続き、
14歳の時に体験した沖縄戦の真実を語る。

* * *

「戦争が終わって、行方不明になっていた上の兄は
 中国戦線で戦死、2番目の兄はサイパンで斬り込み隊
 に入って戦死したことがわかりました。
 男は私ひとりなので母からは大事にされましたが、
 妹からは妬(ねた)まれましたね。
 海軍志願兵になった友達も対馬丸に乗った近所の人も、
 誰も戻らなかった。

 ある日、海軍に行って戻ってこなかった友達の
 家の前を通った時、彼の父親が私を見るなり、
 玄関をバタンと閉めてしまいました。
 以来、友達の家の前を通るのが怖くなってしまいました」

伊佐さんは、今も自分を責めて眠れない夜がある。

「なぜ自分は生き残ってしまったのか」

ゲート前に座り込みに来る若者に、
伊佐さんが口癖のように言う言葉がある。

「絶対に戦争をやってはいけない。
 戦争をやる者は愚か者だ。バカ者だ。
 金儲けのために戦争をやるなんて」だ。

時々、自分の体験も話す。
しかし、つらい話をするのはしんどい。
沖縄戦について話す伊佐さんからは
島酒のにおいがする。
アルコールの力を借りなければ話ができないのだ。


「この闘いは、絶対暴力を振るってはいけない。
 暴力は戦争につながる。だから非暴力で通すこと。
 機動隊にやられてもじっと我慢してね」と、
目を細めながら優しく静かに話す伊佐さんだが、
今も整理がつかないまま戦争の記憶を抱え込んでいる。

そんな伊佐さんには、父親の記憶があまりない。
子供の頃、父と顔を合わすことが少なかったせいだ。
数少ない記憶の中で鮮明に残っているのは
先に記した1944年の10・10空襲の前日のことだ。

夜、父が友人3人と机に花札を広げながら、
何やら秘密めいた会議をしていた。
それを隣の部屋からのぞき見していたら、
突然、中型トラックに乗った警察官が何人も
どやどやと入ってきた。
父と友人たちは両手両足を縛られ、
軍人がよく着るトンビ外套(がいとう)を着た男に
無理やり引っ張られていった。
警察官は嘉手納(かでな)署の者だったらしいと、
後で隣近所の人から聞いた。

その後、二度と父は帰ってこなかった。
戦争が終わってしばらくして、戦前の治安維持法の
「特高(特別高等警察)」による連行だったのでは
ないかと聞いた。
今でも父の所在はわかっていない。
これも戦後わかったことだが、
どうやら
伊佐さんの両親は反戦活動をしていたらしい。


* * *

伊佐さんの息子の真次(まさつぐ)さん(53歳)は、
米軍北部訓練場ヘリパッド建設に反対して
ゲート前で座り込み、通行妨害で国に訴えられた
ことがある。2013年6月、高等裁判所は那覇防衛局
の訴えを認め、仮処分の決定を下した。
しかし、判決を聞いていた伊佐さんは
「殺されないならよかった」と言った。
特高に引っ張られて帰ってこなかった父のことを
思い出したのかもしれない。

* * *

伊佐さんの記憶に残っている話をもうひとつ。
戦前の泡瀬の町の外れに日本軍が駐屯していた。
駐屯地の近くには料亭が2、3軒あった。
どこも日本兵の慰安所になっていた。
伊佐さんの親戚も「アブガドー」という屋号の
料亭(慰安所)を経営していた。

そこでは朝鮮半島から連れてこられた女性たちが
4、5人働いていた。

13歳だった伊佐さんは、
親戚の料亭によく遊びに行き、そこのお姉さんから
三線(さんしん)を教えてもらっていた。
色白で、いつも白粉(おしろい)の匂いがする
とても優しいお姉さんだった。

2階には毎日40、50人の兵隊が並んで順番を
待っていた。ある時、おかみさんが三線を教えている
お姉さんに「早く2階に上がりなさい」と言った。
お姉さんは「今日は痛いから休みたい」と言ったが
聞いてもらえず、2階に姿を消した。
着物の裾から見えた奥のほうが
真っ赤にはれていた。

少年の伊佐さんには意味がわからなかった。
ただかわいそうだと思っていた。


戦後、伊佐さんの母親が朝鮮半島から
帰ってきた親戚のおじさん
から、
彼が戦時中に朝鮮で何をしていたのかと聞いた。
警察官だったおじさんは、若い娘を探して捕まえ、
日本に送っていた。

娘の父親が助けてと言っても、銃を突きつけて
脅して無理やり連行したと
得意げに言っていたという。

伊佐さんは
「そうだったのか、三線を教えてくれた
 お姉さんはそうやって連れてこられた
 慰安婦だったのか。
 なら、もう二度と三線は弾かない」と、
持っていた三線を壊してしまった。

母親は朝鮮の女性たちからの相談に
いろいろ乗っていたらしい。
戦後、間もなくして
朝鮮から数人の女性が
米軍のジープに乗って、

母を訪ねてきた。
お世話になったと、お礼のお金を持ってきたのだ。

その時の日本円と米軍軍票のB円は
今も大切に保管されている。

「彼女らは慰安婦だったのでしょうか。
 母は私には言葉を濁していましたが…」

伊佐さんは、親戚の家が慰安所だったことを
子供たちにも語らなかった。
この話を語り始めたのは、
ヘリパッド反対の座り込みが始まった前後からだ。


「国が従軍慰安婦の強制連行を
 否定したことが許せなかったのでしょう。
 その頃から少しずつ話をするようになった」


と、息子の真次さんは言う。
80歳を過ぎてから伊佐さんは家族に
「韓国に行きたい」と言うようになった。

「どうしても、慰安婦にさせられた人たちに
 会って謝りたい。
 あの時、助けてあげられなかったことを
 謝りたい。申し訳なかった、と」

日頃穏やかな伊佐さんがこの時だけは
厳しい目つきになった。

* * *

24年前に伊佐さんは泡瀬を離れ、
本島北部の東村高江に移り住み、木工所を始めた。
木材が豊富であることと、工場の騒音や
埃(ほこり)で近隣に迷惑をかけることのない場所だ。

「これからは緑豊かなヤンバルで
 静かに暮らすことができる」

木工の仕事も息子の真次さんに任せて、
ゆっくり過ごしたいと思っていた。
ところが8年前、北部訓練場の高江集落を
取り囲むように米軍ヘリパッドの計画が
明らかになり、黙ってはいられなくなった。

反戦活動を行なっていた父親、
慰安婦の相談に乗っていた母親。
その平和を願う血は伊佐さんに受け継がれ、
息子の真次さんに受け継がれている。
真次さんは今、
「高江ヘリパッドいらない住民の会」のテントに
座り込み、昨年9月、ヘリパッド建設反対、
北部訓練場の全面撤去を掲げて村会議員になった。


平和を願う血は3世代に引き継がれている。

(取材・文・撮影/森住卓)



あらら、
第2の吉田清治現る!だわ・・・
伊佐真三郎さん、息子の伊佐真次さん親子とは・・・


伊佐真次さんは
 http://higamizuki.ti-da.net/c127198.html
東村の日本共産党支部長イサ真次さん。


東村の日本共産党支部長
伊佐真次さん

 http://ojcp.itigo.jp/oki/?p=2715
伊佐真次村議の父親である真三郎氏
(普段、オジイと呼ばれるのはこの方である。
 伊佐家は特高に連れ去られたまま家に
 帰ってこなかった真三郎氏の両親以来
 三代に亘る生粋の共産党の家系である
 http://chikyuza.net/archives/47508
  isa.png
ほほう・・・
終戦の日には、民団の光復記念際に行き
朝鮮解放をお祝いする
日本共産党・池内さおり議員とご一緒!




さて、両親も自分も息子も
三代に亘る生粋の共産党の家系で、
親戚のおじさんは、朝鮮で警官の副業に
若い娘を探して捕まえ、 日本に送っていた。
別の親戚は「慰安所」を経営し
朝鮮から連れてきた女性を4~5人抱えて
日本軍兵士相手に営業。
毎日40、50人の兵隊さんが来ていたのなら、
親戚の経営する慰安所は、
さぞや儲かっていたでしょうね。

兵隊さん達は、
帳場でお金を払ってから遊ぶのだから・・・
共産党員のお母さんは、慰安婦と知っていて
彼女達の世話をしていたの?

13歳の思春期の少年が、
そんなの場所に入り浸りって・・・どういう家系???



★覇の辻にあった
 遊郭と尾類(ジュリ)

 http://croonlabo.com/okinawalabo/?p=195
(引用開始)
1526年の尚真王の時代にはじまった
といわれる遊郭。

沖縄戦のはじまる1945年の前年に起こった、
10・10空襲で那覇が焼け野原と化すまでの
420年間その辻の遊郭は存在したという。


かつて沖縄では人が売買されていたという
信じがたい出来事を知り、驚きと当時の沖縄の
人々の生活のあまりの苦しさを知り、心に重く、
切なく入りこんでくるものがありました。
(中略)
辻の妓楼(ぎろう:遊女を置いて、客を遊ばせる
ことを商売とする店。)は、約300件あり、
女性だけの特別の行政がしかれ、
誰ひとり男が介入することなく、
その遊郭の組織が運営されていたそうです。

各楼には、抱親(アンマー)と呼ばれる
2~5人の抱妓(かかえご)を持つ営業主の
集まりによって経営され、
そのアンマーは一人の旦那様だけを守る
「詰尾類(チミジュリ)」と呼ばれる人たちでした。

そこでは、尾類売い(ジュリウイ)」といい
幼子の人身売買があり
またそれが当たり前に許容される時代でした。
また尾類(ジュリ)と呼ばれるお姉さんたちが
体を売り、金で買う男が出入りする場所でした。

尾類(ジュリ)の人たちは売られた心の辛さを
経験し、また売られてくるジュリの心の痛みを
理解し、ジュリ同志はお互いを助け合い、
信頼し、尊重し合いながら、穏健な雰囲気の中
暮らしていたようです。

筆者である栄子さんは、
4歳の頃売られたようです。
母の病気の治療費の捻出のために
父親が売りにきた当時の様子が
とても心が痛むものがあり、重い決断の上
売りにきた当時の生活の苦しい状況が
ひしひしと伝わってくる内容でした。
ハワイ、南米等に出稼ぎ移民として
渡航する費用に充てるために売りに来た人達も
いたようで、もっとも手っ取り早い金策が
わが子を売ることだったようです。

買値は、19円50銭。
(中略)
ジュリの人身売買とありますが、
お金は借り上げ金という形でそこに利息を
つけ仕事で払い終わったら、
そこで自由の身として開放されたそうです。

そういう意味でも、売りに来る親は
絶対必要な額しか言わなかったし、
またそれ以上のお金を借りようとする親も
いなかったといいます。

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(引用ここまで)



★辻 (那覇市)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB_(%E9%82%A3%E8%A6%87%E5%B8%82)
(引用開始)
明治維新後、1879年(明治12年)の琉球処分及び
廃藩置県により正式に大日本帝国沖縄県となると、
各種の規制法や性病検査の義務化などの適用を
受けるようになった。
また同時にとりたてて裕福でもない一般庶民も
多く出入りするようになった。
また二十日正月に行われる「ジュリ馬行列」なる祭りは
大人気であり、最寄り駅である沖縄電気路面電車の
西武門駅は見物客で活気を見せた。

1908年になると仲島、渡地が辻に合併し、
沖縄唯一の遊郭街となった辻は隆盛を極め、
1934年(昭和9年)頃には176軒以上の遊郭が建ち並び、
政財界を始めとしたありとあらゆる階層の男達が
出入りするようになった。
その結果、大正年間には沖縄県の年間予算の5%に
及ぶ税収があったとも言われるほどの活況を呈し[15]、
沖縄県の一大産業と化した。
しかし太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、
1944年(昭和19年)10月10日の空襲(十・十空襲)で
焼き尽くされ、遊郭街としての辻はその歴史に幕を
下ろすこととなった。
この際、一部のジュリは慰安婦として
軍に徴用されたとされる[* 4]。

戦後[編集]

辻の焼失後も、沖縄各所において
主に駐留米兵などを相手に
パンパン、ハニー(米兵の恋人)、私娼による
売春行為は続けられ、事実上完全に容認されて
いたとされる。
この頃には特に本島中部では朝鮮戦争特需[* 5]に
沸いており、
その上戦中から米兵による性犯罪が
多発していたこともあり

男達の性欲処理のために歓楽街の復活が求められた。
また、兵士への性病の蔓延を防ぐため、
性病取締規則が公布されている。
(続きはリンク先で)

ウィキには、尾類(ジュリ)が
慰安婦として徴用されたと記載されているが
どの程度の人数が徴用されたのか、
具体的に述べた資料は未見




★辻遊郭について
 http://blogs.yahoo.co.jp/kusinakayone/46875965.html
(引用開始)
辻遊郭の尾類は、
大正から昭和初期の恐慌期に、
幼児の売買が盛んに行われ
男子は糸満の漁師に、女の子は「辻売り」
と称されつれてこられた。
大正3年の資料によれば、ジュリの数は1,019人、
出身地は西原町213人、名護市101人、那覇市88人、
中城80人、真和志51人、小録48人、浦添市46人、
首里35、北谷32人、今帰仁30の順となっていた。
(那覇市史)辻売りされた幼女たちは
抱え親(アンマー)に身を託され同居していた。
(中略)
売られてきた少女たちは、
一人前の娼妓になるまで踊り、三線、礼儀作法、
料理、客へのもてなし、客の前では絶対に
食べ物を口にしてはいけないなど
徹底的に教え込まれた。
一人前になって個室を与えられるまでは
給料はなく、すべてアンマーの懐にはいった。
一人前になってもアンマーが人身売買で
購入したお金は、利息や衣類代をオンされ
毎月支払が続くことになった。

ようやく支払が終わり自由の身となっても、
故郷に帰るものはなく、
一人の男性の囲いの身になるか、
アンマーになるかのどちらかであった。

(中略)
昭和19年には続々と日本軍が駐留することになり、
辻は日本軍将校の享楽の場となった。
その年の10・10空襲で辻は焼失し、沖縄戦が
本格化すると、多くの娼妓たちは、軍と行動を
ともにして戦場に駆り出された。
戦死した彼女たちはれっきとした軍属として
取り扱われている。


(引用ここまで)



つまり・・・
伊佐真三郎さんの親戚のおばさんは
幼児を買って1人前になるまで育てて
売春をさせていた、
元尾類(ジュリ)で抱親(アンマー)と呼ばれる
遊郭の営業主
ですね。

伊佐真三郎さんは現在84歳ですから
1944年に、13歳の少年に三線を教えられた
朝鮮出身の尾類(ジュリ)は、かなり幼い時期に
伊佐さんの、
朝鮮で警官をしていた親戚のおじさんなどによって
人身売買されてきたのでしょうか?

伊佐さんの親戚のおばさんは、
朝鮮の少女を買って、彼女達が一人前になって
個室を与えられるまでは、客から徴収した金は
親戚のおばさんが全て懐に入れ
一人前になっても、買値の借金代から衣装代まで
売春の利益から毎月徴収していたワケです。

>伊佐さんには、父親の記憶があまりない。
 子供の頃、父と顔を合わすことが
 少なかったせいだ。


もしかすると、伊佐さんの母親は
父親と”正式な夫婦”ではなく
母親も、元尾類(ジュリ)で
借金返済が終わって自由の身になり
一人の男性の囲いの身になった
「詰尾類(チミジュリ)」と呼ばれる人なのかも
知れません。
共産党員で反戦活動をしていた父親が、
本妻の居る自宅ではなく、
伊佐さんの母親の家で、共産党の同志と
「秘密の会議」をしていて・・・逮捕されたか???

父親の消息が分からないのは、
特攻の酷い拷問を受けたでしょうけれども
もしも釈放されていたとしても
詰尾類(チミジュリ)の家で逮捕されたのが
本妻にバレて2度と、
本土風に言うと「妾宅」には戻ってはこなかった
可能性も考えられますね。


さて・・・戦後すぐに、
一旦韓国に帰ったはずの女性が
米軍のジープに乗ってやってきたというのは
米軍慰安婦になって戻ってきたのでしょうか???
だから、伊佐さんのお母さんに
お金を渡す事ができたのかも知れません。

ところで、
13歳の時に三線を教えて貰っていたという
朝鮮出身の尾類(ジュリ)のお姉さん。

着物の裾から見えた奥のほうが
  真っ赤にはれていた。


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このような着物を着せられていたとしたら、
普通の体勢では、奥の方まで見えません!
朝鮮女性特有の立ち膝をしていたか
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胡坐をかいていたか・・・
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男性ならば解るけど
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女性の場合は立ち膝だと三線は弾き難いのでは?
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着物が着崩れて、グチャグチャになる!

三線を弾くジュリの図
 http://blog.goo.ne.jp/nasaki78/e/2a8bde4d534153457068ab63d3cb0402
  o20111117-梅そう2


10・10空襲で職場を失った尾類(ジュリ)達は、
幼児の時の人身売買で、故郷に帰ることも出来ず
軍と行動を共にして、軍属扱いだったのならば
彼女達に、きちんと「恩給」が支払われるように
という措置とも考えられますね・・・




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Comments 5

おっしゃる通り

着物の裾から~~、立ち膝って、もう片方の足を折り曲げるので、中心部は開かれた開脚のようになります。
韓流ドラマの中高年の女性が時々その形で座ります。
ズボンでもそこがくっきりと見え、不快です。カメラの正面でよく股を開くなと思います。

椅子に座る時、男性みたいな開脚の人も見ました。役柄の演出かもしれませんが、そういう人は食事シーンもぎこちない。一生懸命に口を閉じて食べようとしてる感じ。油断すると開くのかな?

話がそれました。
何も知らない13才がそのようなシーンを目にしたらショックで胸にしまい込み、忘れようとしそうですが…。
平気だったのですね…。

公にそんな事を喋るのも女性へのデリカシーがないと思いますが、感覚が違うのですね。

売春宿の経営者が無慈悲でしたという物語でしょうか?

2015-09-20 (Sun) 07:54 | EDIT | REPLY |   

三太夫

個人の犯罪は個人賠償で!

>「警官だったおじさんは朝鮮半島で若い娘を捕まえ、日本へ送っていた…」
…は、当該個人の犯罪として断罪すればよろしいのだ!
万一”損害賠償請求訴訟”に発展したら、当該犯罪者一族郎党の資産を売却して賠償すればよろしい!
日本に居る”日本人は悪い事をした”と言う連中は、彼の祖先に上記のような悪党が居たのだろう!
そう言う連中は、自己責任に於いて対応すればよろしい!
決して「日本人の責任」にしてはならない。

2015-09-20 (Sun) 09:58 | EDIT | REPLY |   

ななし

自分の親戚が売春宿を経営していて、警官だったおじさんがその立場を利用して売春宿の手助けをして朝鮮から女性をさらってきたのは個人の犯罪行為であって、日本国全体の問題にすりかえるのは犯罪の隠匿でしかない。個人の犯罪である証拠は、のちに売春婦が米軍のジープに乗って日本円と米軍軍票をもってお礼にやってきているとのことだから、日本軍に拉致され性奴隷ではなく、売り飛ばされて売春業についた後に売春婦として慰安所で働き、日本軍だけでなく米軍の相手もして稼いだのであろう。

それと「着物の裾から見えた奥のほうが真っ赤にはれていた」というのは後で作った作り話としか思えない。明るいところで面前で広げてみせてもらったのなら別だが、離れたところからだと裾の奥は薄暗い中でみえる程度だし、よほど数多く見慣れていなければそれが普通なのか、普通と違い「真っ赤」なのか、「意味がわからなかった」程度の性知識しかない少年には区別がつかないのが現実だろうに(笑)。

2015-09-20 (Sun) 23:57 | EDIT | REPLY |   

弓取り

やはり洋公主はジープでやってくる

たしかに、細かいところで辻褄あってるのかな、記憶は確かかと思わせる語り部のじいさん。戦争に反対と連呼していれば、らくらくと精神的な勝者になれる戦後の戦争史観まみれ。

日本兵の捕虜を非道にあつかってきた米軍が、最前線になる自分たちの沖縄に上陸してくる緊迫の時期に、反戦活動していた「父親とその友人たち」は、とうぜん逮捕されます。

(反戦じゃなくて「妨害」じゃないのか。)
自衛しなければいけない時に、内部から崩壊させられては犠牲が大きくなりかねませんからね。

戦争の語り部が匂わせる、米軍を責めるより日本を貶めてメシのタネにするメンタリティ。沖縄の犠牲者よりも、誰に売買されたか怪しい朝鮮人の身の上を心配する一部サヨク的傾向。

とてつもなくローカルで発展性のない自閉的な反戦意識。

2015-09-21 (Mon) 20:35 | EDIT | REPLY |   

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2015-10-04 (Sun) 20:55 | EDIT | REPLY |   

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