韓流研究室

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中国の抗日戦勝行事に台湾元国民党兵士を利用して歴史捏造する習近平

★中国の戦勝行事、
 台湾元国民党の兵士を招待

 読売新聞 2015年08月31日 07時17分
 
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150830-OYT1T50123.html
【北京=竹内誠一郎、台北=向井ゆう子】
中国の習近平シージンピン政権が
「抗日戦争勝利70年」を記念して行う9月3日の
軍事パレードに、国共内戦で共産党に敗れ、
台湾へ逃れた国民党の元兵士が参加する


 習政権は、共産党が戦勝の主役だったと
従来の宣伝を継続する一方で、
台湾も取り込んで歴史問題で日本への圧力を
強める狙いがある。


 30日、元国民党兵士ら10人が北京で行われた
民間団体の式典に招かれ、功労をたたえる
メダルを授与された。111歳の董済民さんは
「我々に関心を寄せてくれるのは本当にうれしい」
と感無量の様子。だが、同団体で10年以上にわたり
元国民党兵士を支援してきた薛剛さん(53)は、
「抗日戦争での功績は闇に葬られてきた」と指摘する。

(引用ここまで)



★抗日戦争を戦った国軍の元兵士ら、
 中国大陸の歴史歪曲を批判/台湾

 中央社フォーカス台湾
 2015年8月30日 14時4分
 
http://news.livedoor.com/article/detail/10529470/
(高雄 30日 中央社)
高雄の海軍左営基地で29日、海軍の慰霊祭などが
行われ、馬英九総統や抗日戦争に参加した
元兵士などが出席した。
元兵士らは同戦争について
戦ったのは我々であり、
 中国大陸は事実を歪曲している

と戦争を主導したとする大陸側を批判した。

元副総統で与党・国民党の元主席の連戦氏が、
抗日戦勝70年を記念して中国大陸が9月3日に
北京で実施する軍事パレードに出席することについては、
「出席してもいい。だが、
 我々が戦ったことを大陸側に説明するべきだ」と語った。

一方、馬総統は、元兵士ら8人に
「抗戦勝利記念章」を授与したほか、
不屈不撓(ふとう)の精神と意志で国を守った
と感謝の意を示した。

また、甲午戦争(日清戦争)などでも多くの台湾人が
日本と戦ったが、それを忘れることを選んだ人もいる
と述べ、
「台湾が日本と戦った(抗日)という事実はない」
と主張する李登輝元総統を暗に皮肉った。

(陳朝福/編集:杉野浩司)


★国民党元トップの
 中国大陸軍事パレード出席
 党内から「待った」の声/台湾

 フォーカス台湾 2015/08/28
 
http://japan.cna.com.tw/news/apol/201508280007.aspx




★国共内戦
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6


★国民党兵士の落人村を訪ねて
 タイ・ミャンマー国境地帯編

 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/kmtthai/KMTmenu.html
1949年、中国に中華人民共和国、
つまり共産党政権が誕生しました。
内戦に敗れた国民政府は広州、重慶、成都などを
転々として台湾に移りましたが、
西南部に取り残された国民党の軍隊は国境を超えて
タイ、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、ベトナムなどに
逃げ込みました。

そのうち段希文将軍が率いた国民党の兵士たちは、
ビルマを経てタイ北部の山岳地帯に「独立王国」を築きます。
アヘン栽培で資金を稼ぎながら、来るべく「反攻大陸」の
日に備えて軍事訓練を続けた彼らの存在は、
麻薬王クンサー」とともにアジアの麻薬ビジネスに
大きな影響を与えたと言われます。

■変身した落人村
 タイ・ミャンマー国境地帯3

 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/kmtthai/KMT3.html


★中国国民党第93連隊の残党の村
 
http://yoshidanoharuo.web.fc2.com/Houses/ie_thai_maehong_china.html
彼らが、メーサローン~メーホンソーンにかけての、
ミャンマーとの国境付近の山岳地帯に住み始めたのは、
1961~62年。
第二次世界大戦の終戦直後から
始まった中国国民党と中国共産党の内戦
で、
中国国民党は敗戦し、約15,000人が雲南省から
ミャンマーに逃げ込んだ(1949年)。
ミャンマーを基点に中国共産党軍(人民解放軍)
に対しての抵抗運動を行った。

1961年、ミャンマー政府は、
中国国民党第93連隊の元兵士とその家族の
国外追放を決定。彼らは馬を使い、整然とした
編隊を組んで国境を越えて、
タイ北部(メーサローン~メーホンソーン)の各地に
定住した。タイ政府は、彼らを「難民」として認め、
タイとの同化を促すが、
彼らは1987年まで“中国国民党”が実行支配を続け、
武装路線を継続した。
元兵士らは武器(M16、カラシニコフ等)を用いて、
土着の少数民族を実効支配した。


※中国共産党政権下でおきた文化大革命
 (1966~77)を嫌って、逃げ延びて定住した人も住む。

中国国民党第93連隊の元兵士とその家族が
定住した地は、起伏に富んだ山岳地帯、
北部バンコクの主要都市につながる道路は
未舗装だった。
外部世界とは隔絶された状態にあったため、
麻薬(芥子;阿片/ヘロイン)の栽培に適した。
定住早々から中国国民党元兵士は、
武器を用いて土着の少数民族を脅しながら
麻薬栽培を始めた。

麻薬王クン・サー(中国名は張奇夫)、シャン連合SUA
を含めた三者間取引を行い続け、
「打倒中国共産党政権」のための資金にあてた。
台湾国民党との連携もあった。

(続きはリンク先で)


★清境農場、松岡部落
 http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/Tainichi/data/chinchin.html
(引用開始)
「ビルマ/タイ/ラオスの国境」付近というのは、
黄金の三角地帯(Golden Triangle)と呼ばれる
麻薬の(けしの)生産地帯(写真を見る)で、
今でも各国政府がここでの麻薬生産をやめさせようと
(まあ、本気がどうかは別として)
一生懸命になっている地帯です。
1940年の終わりころから50年の中ごろにかけて、
黄金の三角地帯を本拠にして国民党(残党)が
「中国」にゲリラ戦をしかけたり、
麻薬商売で稼いだ金を台湾にいる蒋介石の
ところへ送ったり、反共のゲリラとして
とてもがんばって働いた。
(このときのお金が、アメリカで、
 台湾に有利な立法をしてもらうための
 Lobyingの費用として使われたことは有名なお話です。)
国民党との間に(おそらく阿片商売を介した経済的な)
関係が深かった雲南の人々が長期に渡って
この地帯の麻薬栽培を武力で自分たちのものにしていた
わけですね。
その後麻薬王として君臨した(アメリカによってそのように
仕立て上げられた?)クンサーは1996年にミャンマー政府
に投降するまで、国民党の残党と戦ってその地位を得た
と言います。

 もともと雲南省は阿片の栽培で有名。
1800年代中期に雲南省の商人(山岳民族の移民たち)が、
インドシナ・ビルマの山地(標高1000メートル以上)に
ケシを持ち込んだ(主としてメオ族とヤオ族がインドシナに、
ラフ族、ワ族、カチン族、リス族がビルマ北東部に)
という記録があります。
1901年のインドシナ総督の報告によると、
阿片専売公社から小売される阿片の半分は
雲南省産だったそうです。

 それだけ国民党のために「がんばった」
元雲南遊撃隊の人たち(その主体は、
清境農場のHPにも書いてある少数民族、
バイイの人たちだったそうですが)を
蒋介石が台湾に住まわせるにあたって、
今の清境農場の土地を「あげた」という話です。
地元の原住民の人たち(春陽村の頭目の話)は、
自分たちの土地なのに、なぜ蒋介石が勝手に
自分の好きな人に「あげてしまうのか」と
不正義を感じているようです。

(2週間前のクラスで「原住民の土地は政府が
 所有していた」というのは、こういう意味ですね。)

(中略)
 IMG_39441.jpg

黄金の三角地帯に残った国民党残党の中に、
ベトナム戦争(南北ベトナムがアメリカとソ連の
代理戦争を闘ったあの有名なベトナム戦争ではなく、
ベトナムがフランスの支配から独立しようとした戦争
1946-54年、だ)でフランスの傭兵となって闘った、
その傭兵の写真
だ。

左下は、当時の遊撃隊の本部の建物。

 とにかく、こういう写真が部屋いっぱいに
飾ってあって、案内してくれた人は、
史料館を松岡部落の観光のポイントの一つにしたい
と語っていた。しかし、私はそれはどうかな、
うまくいくだろうか心配だなと思いました。
ここで展示しようとしているのは、
いわば台湾の隠れた歴史ですね。
しかも、その隠れた歴史は
「麻薬栽培で儲けた金で台湾を守った」という、
うーん、ちょっと外聞の悪い歴史です。
展示の中には、けし畑が写った写真もありましたが、
麻薬栽培のことは説明には出てきませんでした
(書いてもいなかった)。
また、上のフランスの傭兵になって
(植民地支配の側に立って)ベトナム人と戦った、
というのも今の台湾にとって外聞がいいとは言えない。

あるいは思い出したい歴史ではないかもしれない。
政権が変わったからと言っても、
すべて国民党時代のことだ、歴史だ、と
言ってしまえるだけの度量は今の政府にもない
のではないか。そんなことをいろいろ考えたら、
この史料館はうまく行くかどうか分からないなあ・・
などと思いながら見学しました。

(全文はリンク先で)



★「首吊り嶺」へ送られた
 国民党の落人たち
 ~香港・調景嶺~

 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/kmthk/kmthk.html
 九龍半島の東端に、調景嶺(ディウゲンレン)
という村がありました。周囲を山と海に囲まれて
市街地から隔絶されたこの場所に、
かつて中国大陸から逃げて来た国民党軍兵士たちの
「落人村」がありました。
1920年代から続いていた中国国民党と共産党の内戦は、
日本の敗戦後再び激しくなり、国民党軍は各地で敗走。
1949年10月に共産党は北京で中華人民共和国の
建国を宣言します。
国民党の中華民国政府は大陸を捨てて台湾へと
逃げますが、海を越えられなかった国民党軍の一部は、
国境を越えてベトナムやタイ、ミャンマー、ラオスへ、
そしてイギリス支配下の香港へも逃げてきました。
香港政庁はとりあえず彼らを香港島西部の
難民キャンプに入れましたが、ここは市街地と
隣接していたため、
冷やかしにやって来た共産党支持者との間で
トラブルが絶えず、当時、無人の荒山だった
吊頚嶺(ディウゲンレン)に新たな難民キャンプを築いて
国民党関係者ら2万人を移したのです。

(続きはリンク先で)



『国共内戦』後、中国共産党政権を樹立をした
中国政府は、長い間
国民党は共産党の背後に隠れて戦わなかった
という歴史捏造宣伝を続けてきた。
中国国内に残った元国民党兵士を差別した。
しかし・・・第二次大戦「勝者」を強調する習政権は、
この元国民党兵士達の懐柔政策を図る。

昨年7月には、「盧溝橋事件77年記念式典」に
元国民党兵士を招待し面会したり
中国政府は今月、国民党を含めた元兵士たちに
生活補助5000元(約10万円)を臨時支給すると発表・・・

「共産党が抗日戦争を勝利に導いた」と強調しつつ
「正面作戦を国民党が、
 ゲリラ戦を共産党が担った」と、
国民党に配慮することで「中華民族全体の抗日勝利」
を演出しようとしている。


そして、
日本国内の元「在華日本人民反戦同盟」を利用し
歴史戦争を仕掛けている。


★もう1つの中帰連
 「在華日本人民反戦同盟」

 http://tainichihate.blog.fc2.com/blog-date-20140906.html
 反日特別キャンペーン絶賛開催中の
中共さまが今度は
『日本軍は中国人・朝鮮人慰安婦を
 肉スープにして食べた』などと言っています。
そして「食べた」と証言しているのは、
いつものように赤い元日本兵のようです。

こういう「赤い日本兵」を製造したのは中国共産党ですが、
シベリア抑留から撫順戦犯収容所に送られた人たち
とは別の方法で赤化された日本兵がいました。

その日本兵とは、
前線で日本人民反戦同盟員などに
厭戦気分を煽られ、
自ら中共軍に投降していった人たちです。

投降した日本兵を洗脳したのは
中国にいた日本人共産主義者でした。


(中略)
【野坂参三】
日本人民反戦同盟延安支部や日本労農学校を
組織した。
真中の人物が野坂。左は李初梨、右は毛沢東。
野坂は帰国後、日本共産党の議長になった。
nk20130815_okano_mo.jpg

(中略)
支那事変勃発前に、毛沢東は日本人捕虜取扱方針について

・「捕虜を殺さない」
・「捕虜を優遇する」
「帰国または帰隊をのぞむ捕虜は釈放する」

と述べているので、
赤化した日本兵を日本に帰国させ、
日本革命を煽動するという計画
は、
あらかじめ練ってあったのですね。

 出典:1953(昭和28)年 筑摩書房 
 エドガー・スノウ著 「中国の赤い星」
  3 日本との戦争

 1936(昭和11)年7月16日
 毛沢東
 「われわれに捕えられ、武装解除された、
 日本の将校、兵卒は歓迎され、
 良い待遇を受けるでしょう。
 かれらが殺されるようなことはないでしょう。
 かれらは同胞のようにあつかわれるでしょう。
 私たちの盟友である日本プロレタリア出身の
 兵卒を立ちあがらせ、
 かれら自身のファッシスト圧制者に対抗させるために、
 あらゆる方法がつくされるでしょう


(中略)
日本敗戦後、
赤い日本兵は国共内戦に参加した者もいましたが、
国共内戦で生き残った者は日本に帰国しました。

1953(昭和28)年3月23日付の朝日新聞の
報道によると、
本当に日本人なのかあやしい人物が
中国からの引揚船に乗っていたようです。


【朝日新聞が異常な高揚感をもって
 報道した中国からの引揚者】

1953(昭和28)年、中国残留者の帰国が開始された。
3月23日に興安丸、高砂丸が舞鶴港に到着した。
興安丸で2009人、高砂丸で1959人の
中国残留者が帰国した。
第三、四船の白龍号、白山号は同月26日に
到着する予定だった。
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1953(昭和28)年3月23日付 朝日新聞
"氏名は言えない" 
興奮にとけぬ一群の人
 
(抜粋)

  さまざまの話題を満載した帰還第一船は
 いままのあたりだ。舞鶴港内のあちこちで 
 帰還者たちの目に映ずる日の丸は独立新日本の旗。
 あの丘、あの街にはもう占領軍もいないのだ。
 シベリア引揚当時とはなにもかもみな変っているのだ。
 国内の様子も、帰国者の迎え方も。
 興安丸はまっすぐ進んで来(きた)り、船上のどよめきが
 はっきりと伝わってくる。
 いや顔、顔、顔が大きくそこに迫っている。
 若い、みんな若い。元気だ。
 白い歯を出して笑っている、
 あれを人民服というのか紺色の中国服が
 多いのがとても目立つ。
 人民服というのか、写真でみる毛沢東首席が
 かぶっているような帽子も多い。手をふっている。

 「やあご苦労さま!」 こちらの歓呼には大きな声で答える。
 しかし歓声は聞えない。デッキの上はおろか丸い船窓という
 船窓から手だけが出て振っている。
 赤い布片を振っている手もある。子供の顔もずいぶん多い。
 この騒ぎに不思議そうな顔をしている。
 若い婦人の赤いネッカチーフがあざやかないろどりだ。
 七時かっきり、興安丸は検疫所地点ピタリ止った。

  よく見るとこの興奮に溶けこもうとしない
 一群の姿
もあった。小雨にけぶる山々を
 みているその落着いた視線は何を想っているので
 あろうか。船上のざわめきが一段と高まって来た。

  話しかける人一人残らず奉天を中心とした
 旧満州地区の人達ばかりだ。中央ホールの手すりの
 かたわらで「あちらの生活は──」
 「仕事の内容はいえない。
  氏名もいえないことになっている。
  まあ大いにやろうよ」
とかんじんな点には
 何も触れさせないカチンとした手応えの
 廿(二十)五、六歳の青年にぶつかった。
 さりげないようでシンのある中共帰還者
 一つの特徴を見出した感だ。

(興味深い内容の続きはリンク先で!)



★周恩来と日本
 国際学研究所 2010年 7月14日
 李 恩民
 http://www8.obirin.ac.jp/kokusai/pdf/C-1-6.pdf
(引用開始)
人脈の形成
19 歳の時に日本留学から人との交流を始めた周恩来は、
国共内戦と日中戦争の関係で総理に就任まで
日本共産党の野坂参三 、
重慶の在華日本人民反戦同盟部会長鹿地亘以外の
日本人との交流はそれほど多く なかった。

1949年以降、日本に対して「以民促官」、
民間の交流をもって政府間の接触を促すという方針打ち出し、
日本に対して事実上の全民外交を推進、
幅広い人的ネットワークを構築した。
統計によると、 1950年代から 1975年 6月まで、
周恩来が会見した日本の政治要員及び各党派、
団体の責任者民間人などは合計3百余延べ
数千にぼっており、20 数年間に会見した外国の
賓客なかでは、回数も人数も最も多い国であった。

周恩来は各界の代表と会談で
日米同盟問題 、アジア平和問題、自衛隊問題、
台湾問題、領土問題、歴史遺留問題、
日中間の政治経済文化学術交流
などについて
非常に率直で、和やかに語っていた 。
時には日本与野党、各種市民運動団体
世論への気配りも忘れなかった。
同時に、 周恩来は諸外国のなかで日本社会の
全体 構造に対して最も興味を持っていた。
会談の席で、彼は日本の政局から
成田空港建設反対運動やその指導的役割を果たし
敬虔なキリスト信者で画家彫刻家 である戸村一作
(三里塚空港反対同盟委員長)まで、強い関心を示し
意見を求めていた。


(引用ここまで)



台湾の戦後史も、日本の戦後同様に
複雑・・・










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