韓流研究室

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100年前の日帝の不良保守のせいで無量寿殿が崩れそうnida!

★危険な無量寿殿…
 日帝時不良保守

 毎日経済(韓国語)
 
http://news.mk.co.kr/newsRead.php?no=431924&year=2015
  
▲現存する最古の木造建物である
 浮石寺無量寿殿が日帝時の不良修復で
 疲弊している。  
   
国宝第18号、栄州浮石寺(プソクサ)無量寿殿
韓国美を代表する文化財として絶賛されている。  
  676年、新羅イサン大師が創建し高麗中期に
再建されて以来、今まで原形をよく維持して
我が国で最も美しくて最も古い木造建築物として
広く知られてきた。  
   
  しかし、
こういう一般的認識と異なり実際の無量寿殿は
日帝強制支配期に解体補修工事を通じて  
再建された建物だ。
ところがこの過程で日帝が
ボルトやナット、ワイヤなど多量の金物を使って
内部木材を固定した衝撃的な事実が文化財庁の調査で
初めて明らかになり注目される。  
   
  修理のために建物を崩したが構造的不安定性
問題を解決する自信がなかったと解釈される。
また、5日、文化財庁によれば壁体部分で膨らみ現象が
発見され構造安全診断を実施した結果、物理的破損が
深刻な水準であることが分かった。  
   
  外部壁体は最大40.9ミリ内側で入り、内部壁体は
最大32ミリ飛び出していることが明らかになった。
2012年から3年かけた膨らみの進行性調査では
毎年1ミリずつ増加していると調査された。  
   
  文化財庁関係者は
「壁体の中に設置された5個の部材が曲がって
 膨らみができたと推定する」と話した。
このように壁体が変形し亀裂も継続的に発生して
いることが今回の診断で確認された。
日帝強制支配期の工事は全面解体補修レベルだった。  
   
  文化財庁は
日帝強制支配期の文化財研究者であった
杉山信三(1906〜1997)が出した
'韓国古建築の保存 : 浮石寺・成仏寺修理工事報告'
を分析して
1916年9月21日から1919年4月20日まで2年7カ月間、
完全解体修理がなされた事を把握した。
 
   
  朝鮮総督府は2万3500円の予算を投入し、
礎石24個中5個と相当数の木材・瓦を交替し壁を  
全部彩色した。

日帝が解体補修しながら垂木と隅木、柱などの
木材を固定させるために設置した印章ボルトと
連結ワイヤなど多量の金物も建物から見つかった。  
   
  文化財庁は初めからこういう種類の印章装置は
なかったが、日帝が無理に建物を新しく建てながら
木造建物の安全性のために金物を利用したと
判断している。
しかし、残念なことに1916年解体修理前の無量寿殿
状態が分かる資料は残っていない。  
   
  日帝は1910年代中盤の朝鮮併合後、
大々的に朝鮮文化財を補修したがこの時、無量寿殿も
含まれたと見られる。同様に日帝が同時期、弥勒寺
(ミルクサ)跡石塔を修理し185トンに達するコンクリートを
打設し長い間物議をかもしたこともある。  
   
  文化財庁は壁体破損が発見されたことによって
緊急補修を実施することにした。亀裂の部分は軟質の
土で補強し壁体変位部位にはパネルや角材などの
補強構造物を設置することにした。

しかし、 文化財庁はこのような臨時補強では根本的な
対策にならないと見て数年内に全面解体修理が
避 けられないと予想する。  
   
  文化財庁関係者は
「無量寿殿はわずか100年前の構造物である上、
 手抜き工事されたことが判明しただけに、
 これに対する歴史的価値を新たに検討する
 必要がある」
として
直ちに1〜2年内で はなくても遠くない将来に
 社会的合意を通じて完全に崩して
 作らなければならないだろう」
と強調した。  
   
  ペ・ハンチョル記者


はああああ?

栄州市浮石面北枝里鳳凰山(819m)の麓にある
浮石寺は、新羅の文武王16年(676年)に、名僧の
義湘大師が王の命に応じて創建した華厳宗
根本道場として韓国10大名刹の中の一つ。
その後、高麗時代初に戦災で焼失されたのを
高麗靖宗7年(1041年)に円融国師が重建したと
伝われている。


★.朝鮮の仏教史
 http://myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index65.htm


★浮石寺
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E7%9F%B3%E5%AF%BA
671年(文武王11年)に留学先の唐から新羅にもどり、
海東華厳宗の創始者になった義湘が、王命に従い、
676年(文武王16年)に浮石寺を建立した。
高麗時代の1016年(顕宗7年)、円融によって
無量壽殿が再建されたが後に焼失。
現在の建物は1376年に再建されたもの(後述)。

李氏朝鮮太宗の時代の1407年(太宗7年)の
仏教弾圧の際、存続を許された88の寺院の中に
浮石寺の名前はない。
世宗の時代の1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際、
存続を許された36の寺院の中にも浮石寺の名前は
ない。(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。
少なくとも15世紀初頭、
浮石寺は廃寺になっていた。

(引用ここまで)


★浮石寺に証拠はないようだ 
 対馬の観音様

 http://blog.livedoor.jp/sumiin/archives/3729587.html





朝鮮総督府による浮石寺無量寿殿の修理は
1916年9月21日に始まり、1919年4月20日に
壁画模写を除いた全工事が完了した。
修理工事の現場監督は
土木国営繕課の木子智隆技手、技師は岩井長三郎
と記録にある。
修理費は、2万3500円。
1916年(大正5年)~1919年(大正8年)、
当時の物価は、
小学校教員初任給が 12~20円(大正7年) である。

1914年(大正3年)12月に完成した東京駅の総工費は
およそ270~280万円。
明治30年頃の1円は現在の2万円くらいの価値がある
といわれるので、現在の貨幣価値に換算すると
500億円前後ということになる。

大正5年の1円が1万円~1.5万円だったとしても
当時の2万3500円は、
およそ2億3500万円~3億円の予算か?

当時の朝鮮における古跡建造物の現状は
有名な仏国寺を例に挙げると・・・
★李子朝鮮時代 
 朽ち果てていた仏国寺

 http://hohou.tumblr.com/post/41945787281

朝鮮旅行談(上・下) 医学博士 土肥慶蔵氏
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「仏国寺と云う古刹がある其背後の嶺上に□ること
 更に二十町で石窟庵がある。
 千百余年前に作る所の丈余の釈迦石像は、
 穹隆円筒形の石窟中に安置せられて
 周壁には三十六体の彩色せる肉彫像あり結構。

 壮大技巧を極めて真に東方稀に観るの巨作である
 是等の遺跡は、悉く関野博士等の学術的研究を経て
 居るものであるが、鶏林に遊ぶ者は必ず一たびは
 此地を訪うて東洋美術の趣味を養い、若くは
 考古の資料となすべき価値が充分ある。

 石窟の天蓋は、先年半ば墜落した儘になって居るが、
 寺内総督は其大破せぬ前に是非今年は修覆を
 加えたいと言って居られた。
 仄に聞けば既に
 六千五百円とかの予算が組であるそうだ
 誠に結構なことである」


BEFORE
 
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朝鮮総督府編『朝鮮古蹟図譜』第4冊
(朝鮮総督府、1916年3月)455頁より


AFTER
当時の金額で、6500円をかけて修復した仏国寺
 
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日帝の補修工事後の仏国寺全景(1925年)
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現在
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1970年代から作り直され全面コリエイト。
1995年、世界遺産に登録。
日帝が復元工事をしたことは内緒!)

仏国寺の修復工事費が6千500円で
浮石寺無量寿殿の修復工事費が2万3500円!



★植民地朝鮮における
 歴史的建造物の保存と
 修理工事に関する研究

 ̶ 修徳寺大雄殿修理工事を中心として ̶ 
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28742/1/Gaiyo-4812.pdf
 早稲田大学大学院 理工学研究科
 博 士 論 文 概 要
 申請者:金 玟淑
 建築学専攻・建築史研究 2008 年

(引用開始)
本論文で事例として挙げている修徳寺大雄殿
修理工事は、朝鮮総督府の小川敬吉技手が
工事監督を務め、1937年から1940年にかけて
建物の調査及び全解体修理工事が行われ、
その結果、建物の創建年代( 高麗忠烈王3 4(1308) 年)
が明らかになるとともに、破風撤去と建具の変更などが
行われ、現在の大雄殿の姿を整えるようになった。
それ以前の修理としては朝鮮時代に行われた
1528年の彩色補修、1751年と1770年の補修、
1803年の大雄殿背面の飛檐垂木と破風改修などがあり、
また、1930年代以降の修理としては、一部の補修は
あったものの、植民地時代の修理のような
大規模な修理は行われていない

(引用ここまで)



★本論 第2章 
 植民地朝鮮における歴史的建造物の
 保存修理工事とその記録

 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28742/7/Honbun-4812_04.pdf
(引用開始)
2 - 1 - 1.「 保存令」制定以前の
修理工事(1913~ 1933 年)


表2 - 2 は京都大学所蔵の『小川敬吉資料』に
所収されている「遺跡別・年度別の修理補助費」
である。
これをグラフでまとめたのが図2 - 1 である。
これによると、大正2 年から昭和4年まで
毎年1,000 万円~ 1,500 万円が策定されていた
ことがわかる。

大正2 年から大正7 年までは、
石窟庵と浮石寺の修理工事に予算の配分が多く

昭和2 年から昭和4 年までは長安寺大雄殿修理工事が
大規模工事であったことがわかる。
一方、大正7 年から大正10 年までは最も補助費の
支給が高かった時期で、遺跡別には石窟庵、仏国寺、
金山寺に多くの予算が配分されている。
その理由として初期にすでに修理された
石窟庵修理工事に問題があり、再修理されたことを
挙げることができる。
また、仏国寺と金山寺の修理工事は表2 - 2 で
わかるように、建物だけの修理ではなく、伽藍全域に
及ぶ修理工事であったためであると考えられる。

(中略)
2)浮石寺無量寿殿及び祖師堂の修理工事

植民地朝鮮における歴史的建造物の修理工事
の代表例の一つである浮石寺無量寿殿及び祖師堂
の修理工事は、1916 年の「保存規則」の制定以後、
最初に実施された。

工事は 1916 年9 月21日に始まり、1919 年4 月20 日に
壁画模写を除いた全工事が完了した。
当時、修理工事の現場監督は土木国営繕課の
木子智隆技手であり、技師は岩井長三郎であった。
また、内務部第1 課の渡邊彰が参加した。
渡邊彰は社寺係の主任であり、初期の修理工事記録
に良く名前が見られる人物であるが、文献考証などの
役目を果たしていたようである。
浮石寺無量寿殿及び祖師堂は韓国の木造建築の
中でも非常に早い時期に修理された例である

修理の対象となった理由としては、関野貞によって
浮石寺無量寿殿が当時知られた建物の中では
最古の木造建築となり、早くから注目されたためである
と考えられる。

当時の修理工事については、1918 年に刊行された
『朝鮮古蹟図譜』第 6 冊に修理工事の際に作成された
と思われる図面と写真が一部収録されており、
その外にも京都大学所蔵の『小川敬吉資料』所収の
「浮石寺保存工事施業功程」という簡略な報告と多数の
写真がある。これに関しては後に杉山信三が出版物として
刊行している。
図2 - 2 は修理後の無量寿殿の断面図で、
基壇部にコンクリートが使用されたことがわかる。


(引用ここまで)

この研究論文によると
浮石寺祖師殿及び無量寿殿の補修に係った
経費は、累計で29,853,470円
2億985万3470円!



★本論 第5章 
 韓国歴史的建造物の保存修理事業
 における朝鮮総督府技手
 小川敬吉の役割

 
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28742/10/Honbun-4812_07.pdf
5 - 1. 朝鮮総督府技手小川敬吉について
5 - 1 - 1. 小川敬吉の履歴
小川敬吉(1882 ~ 1950)は、
1916 年から1944 年まで朝鮮総督府の職員を
務めた人物で、「小川敬吉蒐集資料」の発表
とともに韓国建築史研究者らの間に
その名が広まるようになった。
この資料は、朝鮮総督府の古蹟調査及び保存事業
の記録物で、遺跡・遺物の図面や写真、実測野帳、
拓本などで構成された20 世紀前半の韓国古建築を
窺える貴重な資料として注目された。
それまでこの時代を扱うに当たって韓国建築史研究の
主な参考資料であった『朝鮮古蹟図譜』を補う役割を
担うようになったのである。

(中略)
小川の朝鮮行は関野貞によるものである。
小川は、関野が大正5 年(1916)に朝鮮総督府
より楽浪古墳の発掘調査を依頼された時、
そのスタッフの一人として調査報告の仕事を補助する
ために選ばれた。
藤島亥治郎は小川敬吉について
「日本の内務省時代の古社寺保存会から
 見込まれて渡韓した建築技手で、
 (中略)文化財に関しては談論風発、(後略)」
と書いている。
(中略)
朝鮮総督府の古蹟調査及び行政的な処理は
大正10年頃に一頓挫を来すが、小川は学務局
勤務を命じられており、この時から古蹟・宝物保存の
行政に携わったと推測できる。 
(中略)
杉山によれば、昭和8(1933)年に
「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」が発布
されると、小川は保存修理を必要とする建造物を
挙げて、補助金を所有者にわたすと共に、その仕事を
地方庁に委託させ、修理に堪能な技術者を紹介し、
その指導監督にあたった。
この時期の小川の業務としては、朝鮮古蹟図譜編纂、
古蹟保存補助費起案、殿陵及古蹟修繕費起案、保存
工事監督(出張)、保存修理工事設計書制作、
全鮮寺刹修繕書類取扱、博物館及古蹟調査事務、
保存建物の実測図面作成、保存建物修繕現場監督があった。


(中略)
また、韓国の中興山城隻獅子石灯籠
(国宝103 号)の保存にも小川が果たした
役割が大きいという記録が残っている。
天沼俊一は次のように述べている。
小川は、その石灯籠にまつわる事件の一部始終を
現地調査した後、総督府に報告した。
その際、遺物登録の手続きも同時におこない、同年
12 月に現地にある遺物の学術的調査をもう一度
くわしくおこなった後、ソウルへ運んできた。
骨董ブローカーの手で大邱の資産家の私有物となって、
危うく永久にみることができない運命になるところ、
小川によって救われ、今、総督府博物館にある。

(中略)
P111の表を参照
■1916年.9月~1919年.4月
 栄州浮石寺無量寿殿及び祖師堂の修理工事
 監督;木子智隆、 技術指導;岩井長三郎


(中略)
朝鮮総督府で主管した修理工事は日本人の
専門家らが参加した修理工事として、日本での
修理現場の影響を受けながら展開されたと思われる。
少数の専門家によって推進された修理工事の事例は
修理工事の全般的な技術向上に寄与したことと
推定される。これは植民地時代前半期の修理工事書類と
保存令制定以後の後半期の工事書類の質的な差からも
窺うことができる。

その中で木子智隆はの植民地朝鮮における歴史的
建造物の保存に貢献した業績の評価が必要な人物で、
韓国初の修理工事報告書を作成した人物であることは
非常に注目すべきことであろう。

木子は担当していた平壌普通門の修理工事について
『大正二年度平壌普通門修理紀要』という報告書を
残しており、それは工事概要と青焼き図面を収録した
非常に貴重な報告書である。
また、木子は浮石寺無量寿殿と祖師堂の修理工事に
ついても監督を務め、その「浮石寺保存工事施業功程」
という工事報告を残している。


(引用ここまで)


修復工事監督の木子智隆は
「浮石寺保存工事施業功程」という
工事報告の残している・・・

朝鮮の建造物の保全活動に貢献した
朝鮮総督府技手の小川敬吉氏の資料を読むと
限られた予算の中から様々の保全修復工事を提言し
ある時は、
「朝鮮国内で良質な木材が確保できなければ
 日本木材を・・・予算の関係で安い台湾木材を・・・」
と予算調整に苦悩していた事が窺える。



★法隆寺の歴史
 
http://www.horyuji.asia/entry5.html
法隆寺の建立は607年(推古15年)。
(略)
このとき建てた寺は、『日本書紀』では
670年(天智9年)に落雷がもとで起きた火災で
焼失したとされています。
したがって、現在も法隆寺の中心となっている
西院伽藍は、焼失後に再建されたもの
ということになります。
(略)
法隆寺はその後もたびたび火災に見舞われ、
925年(延長3年)には西院伽藍のうち大講堂と
鐘楼が焼失。現在の大講堂は、
火災から数十年経った990年(正暦元年)のことでした。

時代が下って近世に入ると、伽藍のあちこちの傷みが
目立つようになり
、17世紀初頭の慶長年間に豊臣秀頼が、
17世紀末~18世紀初頭の元禄 - 宝永年間には
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が
修復を行っています。

法隆寺の修理
さらに時代を下って昭和時代に入ると、「昭和の大修理」と
呼ばれる修復作業が昭和9年(1934年)から始められ、
金堂、五重塔などが修理されました。
(引用ここまで)

★法隆寺 昭和大修理
 関連略年表

 
http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/history_horyuji.html




★奈良・唐招提寺
 金堂修理の概要

 
http://www.toshodaiji.jp/shuri_gaiyou.html


★日光東照宮
 平成の大修理

 
http://www.toshogu.jp/heisei/




『仏国寺古今創記』によると
寺を建立するときに唐人の匠工を招いた。
 彼には阿斯という妹がいて、
 兄を訪ねてやって来たものの、匠工の仕事は
 終わっておらず、賎しい身分だとして
 境内に入ることは許されなかった。

と記載されているそうだ。

唐人の匠工を招いて寺を建てながら
その親族を卑しい身分だと寺に入れさせない・・・

朝鮮総督府が修復工事をしてやったら
100年も経過してから
「日帝時の不良保守によって
 建物が崩れそうだ」などと言う・・・

早稲田大学大学院の留学生、キムさんでも
調査することができた研究論文内の
当時の工事関係者が残した
「浮石寺保存工事施業功程」には
各建物の現存目録と修繕内容が記載されている。


戦後70年間、
韓国の文化財庁という部署は
一体、何の仕事をしてきたのだ。

100年前に残した「浮石寺保存工事施業功程」を
調査研究してきていれば、今頃になって
残念なことに1916年解体修理前の
 無量寿殿状態が分かる資料は残っていない

などという戯けたセリフは出てくるはずがない!

結局、
百済は南宋から、高句麗は北魏から
仏師や匠工など職人一族を譲って貰って
寺社建築や彫刻、彩色などを担わせていたのに
職人は卑しい身分と蔑み続けた朝鮮

朝鮮総督府が大規模な修繕工事をしなければ
とっくに朽ち果てて、現存していなかっただろう。
ペ・ハンチョル記者が
”日帝が同時期、弥勒寺 (ミルクサ)跡石塔を
 修理し185トンに達するコンクリートを打設し
 長い間物議をかもしたこともある”
と紹介したのは
7世紀始め百済武王の頃に作られた、
百済最大規模の寺。

★益山 弥勒寺址(미륵사지)~
 韓国最古・最大の石塔

 http://shigeseoul.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_2f25.html
残念ながらこのうち一部でも残ったのは
石造の西塔だけである。
元来9重の塔だったと言われるが残った部分は
6層まで。それだけでも高さが14mもある。
朝鮮半島に残る、どの石塔とも似ていない
大型で且つ細工が細かいのが特徴である。
木塔を、石材でできる限り模倣して造ったのだろう
といわれている。朝鮮の最古・最大の石塔とのこと。

崩壊寸前の状況だったのを
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1915年に日本がセメントで補強して保存したが、
1999年から10年計画で解体修復中である。
2008年までに完了させる予定だが、他に例も無く、
非常に複雑な構造(内部構造まで木塔に似せてある
らしい)のこの石塔、
本当にあと2年で終わるのかな?
と思わせるような進捗状況だった。
戦前の日本の学者も、おそらくパズルが解けずに
降参し、とりあえず崩壊防止だけ考えて
セメントで固めたのではないだろうか。
(引用ここまで)


発見時は崩壊寸前
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1914年に日本人が修復した石塔
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李氏朝鮮時代にきちんと修復していれば
こんな事にはならなかったのでは???
李承晩は
「我々民族の自尊心である文化財が
 チョッパリたちの手で復元された!
 私はやり直したい!」
とか何とか言ったそうだが・・・

グダグダと文句を言っていないで
さっさと自力で修復したら?
やれるものならね・・・

★韓国南大門復元工事失敗
 「日本製の接着剤使用が原因」
 と報道

 2013年10月25日
 http://news.livedoor.com/article/detail/8189763/

★韓国、5年かけて国宝を復元も
 亀裂や退色、手抜き工事か
 ―中国紙

 レコードチャイナ 2013年10月10日
 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=77755&type=0



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