韓流研究室

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韓国旧暦正月復元30周年・・・日帝は旧暦正月を祝うことを徹底的に弾圧したnida!

★<正月の歴史>日帝時は白い服着て
 新年挨拶通えば黒い水鉄砲

 ソウル経済(韓国語)  2015/02/16
 
http://economy.hankooki.com/lpage/society/201502/e20150216171614117920.htm
陰暦1月1日が公式正月の地位を回復して
今年で30年目をむかえた。

乙未改革の際、陽暦1月1日を公式正月に
制定して以来

日帝の抑圧などの理由で各種苦難の後、
1985年、政府が国民の要求を受け入れて
旧暦正月を公式正月に戻した。


行政自治部国家記録院は去る1985年、
陰暦正月を公休日に指定してから30年をむかえ、
‘今月 の記録’の主題を‘民族の大名節、正月の風景’
に決め、17日から関連記録物をホームページ
(www.archives.go.kr)に掲示すると16日明らかにした。

国家記録院によれば多くの人々が旧暦正月に
帰省・帰京戦争を体験し、空港が人波で込み合う風景を
今一度作るようになったのは30年前に過ぎない。
当初、朝鮮では旧暦正月を祝ったが、
1896年、乙未改革で
陽暦1月1日が公式正月になった。

その後、日本帝国主義は朝鮮の国権を奪った後、
旧暦正月を祝うことを徹底的に弾圧した。
民族感情を抹殺するためであった。


これは旧暦正月に
各官庁や学校で早退を禁止したり
この日に白い服を着て新年の挨拶に向かう彼らに対し
黒い水が入った水鉄砲を撃つ幼稚な方法まで動員して
迫害した。
その後、光復(解放)をむかえたが、
陽暦と陰暦で二回の正月を送らないようにする、
いわゆる‘二重過歳防止’名目で
陰暦正月‘迫害’は継続した。


1980年代初期まで
全公職者は旧暦正月を祝わないようにするなど
旧暦正月抑制政策を政府が強力に推進したが、
多くの国民は相変わらず旧暦正月を伝統の名節と
認識していた。
このような国民感情に政府は結局、
1985年、旧暦正月当日を‘民俗の日’という名称で
公休日指定することになった。

4年後の1989年には旧暦正月が‘正月’という名前を
回復して、公休日も三日に拡大した。
旧暦正月復元30周年をむかえ国家記録院は
関連動画8件、写真24件、文書8件などを公開し
「正月の意味を再確認して家族の大切さを
 感じられる契機になるよう期待する」と明らかにした。

(引用ここまで)



いやあ・・・
韓国ウォッチャーを長年やってきましたが
>この日に白い服を着て
 新年の挨拶に向かう彼らに対し
 黒い水が入った水鉄砲を撃つ幼稚な方法
 まで動員して迫害した。


などというエピソードは初めて見ましたねぇ。
旧暦正月復元30周年をむかえて創作した
新作エピソードでしょうか????

さて、この記事ちょいと変だわ・・・
今年は戦後70年。

>1896年、乙未改革で
 陽暦1月1日が公式正月になった。

陽暦を採用したのは、大韓帝国ですね。

日韓併合は
1910年(明治43年)8月29日から
1945年(昭和20年)9月9日の
朝鮮総督府降伏までの、35年間

1980年代初期まで旧暦正月抑制政策をしたのは
大韓民国政府
1985年、旧暦正月当日を‘民俗の日’に制定して
旧暦正月復元30周年

大韓帝国が陽暦を採用してから併合まで14年
終戦後旧暦正月抑制政策して40年。
韓国が、自ら陽暦1月1日を正月にしていたのは
54年間!併合機関の35年より長いわwww




2010年の旧正月のハンギョレ新聞は
チュ・ヨンハ韓国学中央研究院教授(民俗学)の
併合期の正月の模様を紹介する文を掲載している。

★雑煮(トックク) 料理を
 独立運動のように行った時節

 http://japan.hani.co.kr/arti/culture/4347.html
1926年ソウル北村一帯のソル(陰暦正月)風景

植民地の憂鬱が世の中を覆っていた当時、
総督府の陽暦使用強要にも関わらず朝鮮人は
依然としてソルを過ごしていた。
通りにはカルビ・キジ・ミカン・蒸餠など、さまざまな
歳饌(セチャン)を頭に載せたり担いだりして通う
老若男女で市場ができた。
北村のある雑煮屋は陰暦初日も店を開け
他郷暮らしをする下宿生たちの孤独を慰めてくれたが…

ソウルが近代の風に吹かれ都市化が急速に進んでいた
1926年、その年の2月14日付<東亜日報>5面には
次のような記事が載せられた。

"ソウル北村の通りには
 数日前からカルビ,キジ,ミカン,蒸餅,
 その他様々な歳饌をある者は頭に乗せ、
 ある者は担いで通う老若男女で時期外れの
 市場ができる一方で、可愛い娘と幼い息子の
 手を握った婦女たちが、服とか履物あるいは
 靴屋で愛しい子供たちのソルの晴れ着
 準備に忙しい。"


ここで‘歳饌’というのはソルに食べるご馳走を指す。
ところで羅列された歳饌の中に何故キジが
入っているのだろうか?

キジ肉は朝鮮時代には牛肉より汁を作るのに
はるかに多く使われた肉であった。
キジを狩ることを遊びとした両班たちに
労働力を提供する牛より、キジ肉は簡単に求められる
という長所があった。
それで肉が必要ならば鶏よりキジであったし、
牛肉よりもキジ肉であった。
だが食用のために牛を育て始めた20世紀に入って
野生のキジ肉より牛肉が雑煮汁を作るのに
さらに多く利用されるようになった。

雑煮を作るには先ず餅が必要だ。
餅は本来、米粉をこねて作ったモチを何度もついて、
手でタコの足のように転がして長くする。
19世紀初期に出された<洌陽歲時記>ではこの餅を
‘拳模’と呼び、1840年前後に書かれた<東国歳時記>
では‘白餅’と呼んだ。<東国歳時記>に出てくる
雑煮作りの過程は非常に詳しい。
"餅を葉銭のように小切りにして醤油と混ぜて
 牛肉とキジ肉と粉トウガラシを混ぜて煮たものを
 餅湯という"
と記した。
ところで粉トウガラシを雑煮に入れた点は今とは異なる。
恐らくキジ肉の臭いを消すために粉トウガラシが入った
のではないかと思われる。
1926年正月の歳饌としてキジが登場した理由は
やはり雑煮のスープを作るのに依然としてキジ肉が
最高だと感じた当時のソウルの人々の好みのためだった。
歳饌として登場するカルビは、昔も今も牛肉のカルビで
料理した食べ物だ。
カルビは朝鮮末期でも王室で牛肉食を禁止させたので、
権力者でなければ食べにくかった。
だが1920年代初期になれば、今のソウル,楽園洞
一帯に炭火で焼いたカルビを冷麺と共に販売する
飲み屋ができていた。

だがその価格が半端でなかったため、カルビは
正月のような名節になってこそ一部家庭で
特別な食べ物として食べられた。
ミカンも
朝鮮時代には宮中に進上した果物だったが、
日帝強制支配期以後に済州道で
改良ミカンが栽培され事情が変わった。

たとえ今ほどにはありふれていなかったとしても、
お金さえあればミカンの購入が可能だった。

(続きはリンク先で)



1926年 (大正15年・昭和元年)の正月風景

おやおやおや???
朝鮮の一般大衆が、牛肉を食べる事ができたのは
20世紀以降なのですね。
高額とはいえども、正月のハレの日には
牛肉カルビ入りの煮込み料理が食卓に上がる。

★韓牛の半分は釜山から
 http://nekonote.jp/korea/old/usi/index.html
牛は農業経営上なくてはならない財産
ばかりではなく、市場での金融手段として
重要なものでした。
毎月数回の市が全国各地で開かれて
流通していました。
市は1日と6の日とか 2日と7の日とか地域に
よって定まって開かれていたのです。

牛契といって牛の購入や繁殖を目的とする互助組織や、
富豪や地主が耕牛を貸す預託制度など活発に
行われていました。
明治43年の日韓合邦までは朝鮮全土で
牛の飼育総数が約70万頭になっていました。
牛の質が高いことに着目した朝鮮総督府は
畜産奨励策を推進し3倍の270万頭を目標にかかげ
大正9年には2倍の140万頭に達することができました。


敗戦で朝鮮総督府の保護が消えると
韓牛の数は減小します。
そして不幸な民族同士の争いである朝鮮戦争
(1950)でさらに半減するのです
(引用ここまで)



次に、ミカン!

>日帝強制支配期以後に済州道で
 改良ミカンが栽培され事情が変わった。

改良ミカンとは、温州ミカンの事ですね。

★柑橘(ミカン)の島
 済州ウィークリー
 http://www.jejujapan.com/news/articleView.html?idxno=105
韓国本土では育たない柑橘類が
済州ではごくありふれている。
しかし、古代あるいは中世社会では柑橘類は
王様や権力者だけが味わえる黄金の果実だった。
(中略)
柑橘類に対する陸地(本土)の権力者たちの
欲望は、そのまま済州の人々に対する搾取
直結した。済州の民衆は毎年、柑橘類を懸命に
育てて果実を実らせねばならず、
中央権力は柑橘類の貢納を受けて、
それを適切に分配する装置を通じて、その果実に
まつわる権力のアウラを演出してみせた。
柑橘類が生産され運送され分配されるといった
一連の過程は中央権力によって管理統制され、
そうした食物の連鎖の下層部で済州の民衆は
踏みしだかれ呻吟していた。
韓半島の本土と済州の間には、同じ民族とはいっても、
その民族内部におけるプランテーションシステムが
千年以上も続いてきた。
1894年になってようやく柑橘進上が廃止されたことは、
実に驚くべきことである。
(中略)
風や雨で果実が傷ついたり、カラスや雀が実を
ついばめば、その家の主が責任を負って代納
しなくてはならなかった。
害虫や風で実が落ちてしまい、割り当て数を満たすことが
できない場合にも、所有者にその責任を追及したので、
柑橘栽培はとうてい人間の仕事ではありえなかった。
民衆たちは柑橘類の栽培をまるで毒薬のように見做し、
植え増ししようなどとはしなかった。
柑橘類は苦痛をもたらす木だと、熱湯をかけて
枯死させるような場合も数知れなかった。

(中略)
20世紀に入って、温州ミカンが登場する。
それによって柑橘類の大衆的な普及が始まる。

温州ミカンは1911年フランス出身の神父タケが
日本にいた神父から15株を受け取り西帰浦に植えた
のが端緒であった。
1913年には西帰浦市に1haの温州ミカンの果樹園が
峯という日本人によって始められた
(現在の済州農園)。
それによって従来の土着の品種が衰退した代わりに、
柑橘の大衆化時代が開かれた。

(続きはリンク先で)

-------------------------------------------------
併合期に、済州島に温州ミカンが植えられたことで
柑橘の大衆化時代が開かれ、お正月にもミカンが買えた。。。

この記事にも、一部誤りがある。

★「構造調整」期における
 韓国済州道の柑橘生産

 福島大学商学論集 佐野 孝治
 http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/385/1/3-453.pdf
(引用開始)
済州島に巖初に温州みかんが導入されたのは
1911年である。天主教神父Esmlle J.Taque氏が、
日本産温州みかん苗木15本を西帰浦の西洪海の会館
(修道銑〉に新植した。
その翌年、全羅南道種苗場済州支部によって苗木が
配布され、西帰浦に柑橘園が開設された。
さらに1930年代こ殖産政策の一環として
一般農家に苗木を配布したが、うまく普及しなかった。

解放以前には日本人経営の柑橘園を中心に、
栽培面積15ht、生産量も50t と低水準であった。
その理由として、当時日本産みかんが自由に移入され
販路開拓が困難だったこと、技術不足のため結実が
10~15年かかってしまったこと、
当時韓国にはみかんを食べる習覆が無かったこと
などが挙げられる。

1945年の解放によ日本産の柑橘類が輸入禁止に
なったため、済州道の柑橘産業にとって生産拡大の
チャンスであったが、実際には柑橘生産は荒廃した。
韓国人農家が日本人経営の果樹園を引き継いだが、
技術不足と肥料・農薬・資料などの不足により失敗した。

1946年当時みかんの収穫量は6.3tに過ぎなかった。
その後1948年の「4.3事件」により全島は戦場になり、
農地や柑橘園は一層荒廃してしまった。

(引用ここまで)



という訳で、
1926年ソウル北村一帯の市場で、陰暦正月用に
朝鮮の人達が購入していたのは・・・
日本産のミカンでしたとさ。

★村山智順所蔵写真選
 http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mura/index.htm
一九二〇から三〇年代の朝鮮の人と暮らし

 Img1033m.jpg
歳拝(セペ)する子供
元旦は、邸内の祠堂、あるいはイエのなかで、
四代までの祖先に拝礼する(茶礼(チャレ))。
次に長老に新年のあいさつをする。
これを歳拝(セペ)という。子供たちはこのとき
歳拝銭(セペトン)(お年玉)をもらう。
写真の老夫人の被りものは、飾りを付けた防寒用
の帽子でチョバウィという。拝礼する女の子は
弁髪に大きなタンギ(リボン)をつけている。
結婚前の女の子の典型的な姿であった。
この写真は『朝鮮の習俗』に「歳拝」として
掲載されている

『朝鮮の習俗』、朝鮮総督府、1928年



そうそう、
日帝が正月の伝統的な遊びを
強制的に止めさせた事があったわ!
民族感情を抹殺する弾圧nida!!!

★韓国人「日帝が廃止した
 朝鮮の伝統的な遊び」

 カイカイ通信
 http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/30500839.html
 ac828e12-s.jpg
 ▲1902年2月8日に紹介された投石戦の描写

投石戦は高句麗時代から存在していた
とされており、当初は国家行事的な扱いを
受けることもあった。
朝鮮時代には正月や端午の日に行われた遊び。
内容はその名の通り石を投げ合い戦う遊びであり、
村と村が野原や川を挟んで戦った。
勝負は一方が降伏するまで続けられるため
何日間も続く場合もあったという。
死傷者が多数出る危険な遊びだけに
当局から禁止されるがしばしばあった。
日本が韓国を併合した1910年に禁止され
その後は行われていない。

(詳細はリンク先で)



>この日に白い服を着て
 新年の挨拶に向かう彼らに対し
 黒い水が入った水鉄砲を撃つ
 幼稚な方法まで動員して迫害した。


「ソウル経済」の記者が、
旧暦正月復元30周年をむかえて
新たに創作した歴史捏造エピソードのネタ元
去年行われた行事をヒントにしたのかも・・・

★日本巡査に水鉄砲撃つ
 光復節行事?
 北朝鮮子供と何が違うのですか

 韓国クッキーニュース 
 U-1速報 2014/08/18(月)
 http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50429270.html




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2015-06-04 (Thu) 17:22 | EDIT | REPLY |   

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