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「朝鮮通信使」の記憶遺産登録・・・16年韓日共同申請へ

★「朝鮮通信使」の記憶遺産登録…
 16年韓日共同申請へ

 民団新聞 2015-02-04
 
http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=5349&corner=2
学術・推進会議を公開
対象史料「相互性」柱に


 【長崎】
「朝鮮通信使」関連史料の国連教育科学文化機関
(ユネスコ)の記憶遺産に登録をめざす韓日両国の
民間団体
が1日、長崎市内の長崎歴史文化博物館で
開かれた登録推進シンポジウムで、
「今年がヤマ場」との認識を明らかにした。
16年の共同申請に向けて、双方とも登録物件の
選定を急ぐ。秋にはそれぞれの申請書を作成し、
さらにそれをどう一つのものにまとめていくかが
課題となる。

韓国側「埋もれたもの発掘して」
長崎県が積極支援約束


 朝鮮通信使ゆかりの15自治体や関連団体でつくる
「朝鮮通信使縁地連絡協議会」
(縁地連、事務局・長崎県対馬市)と、
韓国で朝鮮通信使の関連事業を担う
釜山文化財団が昨年3月、
「ともに登録を目指そう」と正式に合意した。
それ以来、公開の場で共同の学術会議・推進会議
を行うのはこれが初めて。

 記憶遺産登録を目指して任命を受けた
韓日双方の学術委員が登壇、今後の戦略を語った。
さらに、パネルディスカッションでは今後の展望に
ついても意見を交換した。
主催した長崎県の中村法道知事は、
「登録に向け、機運を高めていきたい」と、
積極的な支援を表明した。

 2年前までユネスコ記憶遺産選考委員を務めた
西村幸夫さん(東京大学先端科学研究センター所長)
が基調講演。登録対象について、
独りよがりではない
 世界に通用する普遍的な『物語』を
 発信していくのが重要」と強調。
 「国を超えた協調は、ユネスコの論理にもかなう」

と述べた。

 対象史料は
「ユネスコの原則に沿った
 真正性をもつものであること」

日本側の学術委員会委員長の仲尾宏さんは、
「日本に残る国書、書面、絵画などが
中心になるだろう」との見解を示した。

 釜慶大学教授で
韓国側学術委員会委員を務める朴花珍さんは、
「日本に与えたものもあれば、
 韓国が日本から学んだものもある」と述べた。
具体的にはコグマ(甘藷)、灌漑用の水車、
堤防、船舶、地図など。
これらの由来は
韓国側でも十分に知られていないという。


 これを受けて岡山大学教授で
日本側学術委員の倉地克直さんは、
「朝鮮の使節が来て日本で書き残したものを
 日本人が大事にしてきた。
 逆に日本のものが韓国で大事にされてきた。
 朝鮮から使節がやって来るとは
 どういうことなのかを具体的に示す『相互性』は、
 今後、対象を選定していくうえでのポイントになる」
との考えを明らかにした。

 ユネスコへの申請は来年3月をメドとしている。
申請書は韓日の共同提案となるだけに、
日本側委員長の仲尾さんは、
「難しい。時間がかかるだろうが丁寧にやっていく」
と意欲を示した。韓国側委員の朴さんは、
「選定するにあたって意見がぶつかるだろう。
 お互いの史料のなかで埋もれているものを
 明らかにするのも重要だ
と述べた。

(引用ここまで)



この数年、異常に「朝鮮通信使」のみを崇拝し
各種イベントを行う宣伝活動が行われている。
逆に言えば、その様な工作をしなければならぬ程
埋もれていた”記憶”という事になる。

そもそも、
将軍の代替わりの時にのみ謁見するという
通信使(正使ではない)なのに
韓国の歴史教科書の記述のような
『壬辰倭乱をきっかけに
 朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。
 したがって、日本は経済的に困難に陥った。
 そのために戦乱後成立した日本の徳川幕府は
 先進文物を受け入れるために、 対馬島主を
 通して交渉を許可するように朝鮮に懇請した。
 朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも
 建国以来の交隣政策の原則に照らし、
 制限された範囲内での交渉を許した
 (1609年(光海君2年)、己酉約条)。
 そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで
 日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
 また日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を
 派遣するよう要請してきた。
 これに対し朝鮮では通信使を派遣したが、
 その一行はおよそ400余人になり、
 国賓として待遇を受けた。
 日本は通信使の一行を通して先進学問と技術を
 学ぼうと懸命であった。
 したがって通信使は外交使節としてだけでなく、
 朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。

等という”役割”があったのだろうか???

壬辰倭乱以降、日朝の国交断絶で困窮したのは
日朝貿易の拠点の対馬藩。
「朝鮮通信使」は第三回まで、対馬藩が偽国書を使って、
朝鮮にメンツを立て、幕府を言いくるめたり、
対馬藩の宗家が苦心惨憺、努力して、両国外交の中継ぎ
をしていた。

ユネスコに登録しようとする団体は、
両国間の善隣外交の証というのであれば
何故、「朝鮮通信使」のみを美化し
同時期に存在していた朝鮮国内の『倭館』や
日本国内における朝鮮通信使とのトラブルに関して
徹底的に学術調査をしないのだろう????



★NPO法人
 朝鮮通信使縁地連絡協議会

 http://enchiren.exblog.jp/

★仲尾宏
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%B0%BE%E5%AE%8F
日朝関係史学者、京都造形芸術大学客員教授。
財団法人世界人権問題センター理事


★ 一般社団法人在日コリアン・
 マイノリティー人権研究センター

 http://www.kmjweb.com/about/greeting.html
  ■仲尾宏理事長あいさつ
 http://www.kmjweb.com/about/greeting.html

 ■ 組織体制
 http://www.kmjweb.com/about/organization.html


★「‘09 このままでええの?! 
  日本と世界反戦・反貧困・反差別  
  共同行動in京都」

 レイバーネット 
 http://www.labornetjp.org/news/2009/1018inkyoto
主催者を代表して仲尾宏さん ・岡 真理さん が
「パレスチナの今」 と題して特別アピール
纐纈 厚さん(山口大学)が
「このままでエエの?日米安保」の題して講演。
(中略)
敗戦直後、昭和天皇はマッカーサーに
日米軍事同盟を要請した。
その天皇制の解体こそ日米安保の解体である。
今こそ市民の手で新しい日本国憲法を議論しよう
と締めくくった。

(引用ここまで)


韓国側「埋もれたもの発掘して」
対象史料は
 「ユネスコの原則に沿った
  真正性をもつものであること」

 
それならば、
「崔天宗殺害事件」と、この事件を題材にした
韓人漢文手管始
 かんじんかんもんてくだのはじまり」という
歌舞伎について、是非とも研究していただきたい。

★鎖国と朝鮮通信使
 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/chousen.htm


★朝鮮通信使の隠された
 真実の姿を暴く

 http://www.geocities.jp/kusazoshi/jpnchosen01.htm
(中略)
朝鮮通信使殺害事件

『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社
には、次の記述があります。

「通信使の随員の中には、そのような扱いに慣れ、
 段々と尊大な行動をする者も現れた。
 出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に
 積み込んだり
、食事に難癖をつけて、
 魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを
 要求したりというような些細なことから、
 予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者
 に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」

現在、多くの日本人、韓国人は、
何人かの朝鮮通信使と日本の儒学者との間に
親交があったと思っています。
それは、確かに一つの歴史的事実です。
しかし、同時に、朝鮮通信使の傲慢で尊大な態度
と無礼で無法な行為の数々を苦々しく思い、
憤りを感じていた日本人が多かったことも、
また歴史的事実なのです。
(中略)
その時、1764年4月6日

この日の昼、江戸からの帰途、
大阪は長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が
鏡を紛失しました。
通信使の都訓導(中級官人)、崔天宗という者が、
これを咎め、
「日本人は、盗みの仕方が上手だ」
というような悪口を言いました。

これに対応した鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)という
対馬藩の通詞(通訳)は、紛失しただけで
何の証拠も無く日本人が盗ったと言われたのは
「日本の恥辱」になると感じ、
また、日頃から通訳として朝鮮通信使のそばにいて、
彼らの姑息な窃盗にうんざりしていたので、
「日本人のことをそのように言うが、
 韓半島人も、食事の際に出た飾りの品々
 (食器など)を持って帰っているではないか。
 これをどう思うのか」
と言い返しました。

そうです。
朝鮮通信使は、食器も盗んでいたのです。

(中略)
鈴木伝蔵に痛いところを突かれた
崔天宗は、身に覚えがあったからでしょう
頭に血が上り、人々が見ている前で、
鈴木伝蔵を杖で何度も打ちました。


鈴木伝蔵は、下級の武士とはいえ武士です。
このままでは、武士として生きていくことが
できません。思いつめた鈴木伝蔵は、
仕方なく崔を殺すことを決心します。

その夜、鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、
崔天宗の喉を槍で突き刺し殺害しました。

(続きはリンク先で)


★朝鮮通信使と大坂(3)
 通信使と歌舞伎

 http://www.hachikenya.org/kiji/text/10026_091120.shtml



さて、この事件は
日本側と朝鮮側では違いがあるらしい。

★「日朝修好条規」の条理
 ―日韓交渉の要諦

 この世の眺め ─亀井秀雄のアングル─
 http://fight-de-sports.txt-nifty.com/ukiyo/2012/12/post-2436.html
(興味深い内容ですので、全文をお読みください!)

因みに、対馬藩通詞・鈴木伝蔵に疑いを掛け
人前で罵り、杖(馬のムチ?)で打ちまくった崔天宗。
彼が「倭人に盗まれた」と大騒ぎした鏡は
船の中に置き忘れていたのだという・・・


1764年に起きたこの事件は大変な騒ぎとなり、
大坂角の芝居で上演中の歌舞伎「長崎丸山細見図」
に盛り込まれる程のスキャンダルだった。
三年後の1767年2月には大坂嵐雛助座(角の芝居)で
並木正三作『世話料理鱸庖丁(すずきぼうちよう)』を上演。
あまりに史実に近かく刺激的だったために
2日間で上演中止を命ぜられ、ただちに奥州藤原の世界に改めた
『今織蝦夷錦』を上演した。
事件から25年も経て、今度は長崎を舞台にした事件
として創り替えられ『韓人漢文手管始』を上演。
しかも、殺されたのは韓人ではなく
「唐人の衣装をつけた日本人」となっているが、
題名に『韓人漢文・・』とすることで、
観客は、25年前の「朝鮮使殺害事件」とダブらせた。

朝鮮通信使マンセーの人達は
「朝鮮通信使が歌舞伎にも影響を与え
 韓流ブームの先駆けだった!!!!」

などと評しているのだが
たった2日で上演禁止となるほどリアルな作品で
鈴木伝蔵がかなりの美男子だったと伝えらて
いる事から想像すると・・・
この歌舞伎の作者は、伝蔵が不当に貶められて
凶行に走ってしまい、
挙句の果てに通信使の見ている前で斬首される
という理不尽な事件に、『仮名手本忠臣蔵』のような
処刑された伝蔵への同情と幕府・通信使に対する
怒りを露わした内容だったのでは?

『上田秋成集』所収「膽大心小録」岩波書店には
 http://melma.com/backnumber_78763_836427/
「上田秋成は、1768年(明和元)年の
 朝鮮通信使と筆談を行ったが、
 俗称唐人殺しに着いて記述がある。(明和元年は1764年)
 鈴木伝蔵と云うた対馬者が、
 何とやらいふた韓人をころして、大さわぎじやあった。  
 (中略)  
 是皆つしまの平田将監と云人の欲心からでた
 さう動じやとさ。伝蔵は、ぎんみすんで、
 尻なし川の韓人の舟の前で、首打たれたとさ。
 (中略) 
 美男じやあった故に
 「あれかいな、あれがなんの人ころそうぞ。
  公儀といふものは、むごいものじや」
 といふたとさ。」

鈴木伝蔵の唐人ごろしに対する大阪市民の
反応がよく伝わる。
(中略)
3年後人気劇作家並木正三が「世話料理鱸包丁」という
作品に織り込み大坂角の芝居嵐雛助座で上演された。
わずか二日の興行で打ち切りとなった。
幕府の監視の目は、
国際的事件の舞台化にきびしく、
善隣関係への配慮から中止命令となった
が、
二年前の大事件の事実に近い脚色は大人気を博し、
新しい衣装等で歌舞伎の新機軸をみせた。
上演禁止の後26日から「今織蝦夷錦」と開作され
上演された。(並木正三作)
 今度は、唐人・朝鮮通信使を削り、蝦夷人に代え、
事件の舞台を奥州に移して検閲の目をくぐり抜ける
したたかさ
である。
観客は裏目読みで崔天宗事件を重ねた。
 この作品の影響を受けて二十五年後に書き上げられ
1789年寛政元年、同じ角の芝居中山福蔵座で
上演された「漢人韓文手管始」(かんじんかんもん
てくだのはじまり)4幕12場の通し狂言は・・・・・・・
 鈴木伝蔵が寺に隠れた史実を取り入れている」

(引用ここまで)


あらら、現代とさして変わらない状況でしたね。

私の頃は教科書では「日本は鎖国をしていた」だったが
これは一般庶民の海外渡航を禁じたものであって
江戸時代は海外交流、貿易が盛んだった。

朝鮮の倭館と出島は、幕府が外国との貿易を行った
2大拠点で、貿易センターのようなもの。
朝鮮の倭館は10万坪、長崎の唐人屋敷1万坪、
オランダ商人の出島4000坪という規模がそれを物語る。

★草梁倭館時代
 http://nekonote.jp/korea/old/map/wakan.html

★草梁倭館時代2
 http://nekonote.jp/korea/old/map/wakan2.html

★18世紀の朝鮮人も
 すき焼きやワッフルを楽しんだ

 http://japanese.joins.com/article/521/145521.html?servcode=A00§code=A10



朴承武著の
『ソンビとサムライ―韓国人外交官が
 見たニッポンの姿』という本の
朝鮮通信使に関する章で
朝鮮のほうが格上で、
 日本の使節のソウル入城は許されなかった

と記述されているらしいが、これは間違い。
室町時代には、ソウルに東平館という日本使節用の
客館が存在していた。
秀吉の朝鮮侵略により、朝鮮は防衛・安全保障上の
理由で、日本通信使の上京を許さず
李王朝の代替わりごとに訪れる江戸幕府の使者を
わざわざ李朝の要人が釜山の草梁倭館に出向いて
国書と土産を受け取るさまは、中華思想から言えば
格下に見えてしまうのだが・・・
当時の中華文明圏では、格下が格上のところに
出向くのが外交儀礼であり、格下の国使を盛大にもてなし
国家の威光を見せつけるのが目的だった。
朝鮮通信使は、4~5百人という規模でやって来て
幕府も百万両もの予算を組んで国賓待遇で接待したが、
基本的には新将軍の就任祝いや世継ぎ誕生を祝いに
参上する通信使に対しての儀礼は、
中華思想の形式的には日本の方が格上に見えてしまう。
まあ、お互いに見栄の張り合いをしていたのでは?

さて、
江戸には朝鮮通信使の他に「琉球通信使」もやって来た。
こちらは薩摩藩の担当で、システムも全く同じ!
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-136317-storytopic-6.html
「琉球通信使」について研究する人が少ないので
あまり知られていない。

新将軍への挨拶にやって来る通信使よりも
頻繁にやってきて、江戸庶民になじみが深かったのは
長崎藩が担当した「オランダ商館の使節団」
その様子が記録に残っている。

★一八二六年の江戸参府紀行(一)
 原題 陸路および海上旅行。
 一八二六年の参府旅行
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/bigwalk2009/reference/edosanpu_kiko_1826.html

この記録を見ると、
”朝鮮の先進文化”よりもはるかに文明の進んだ
オランダの国使が長崎の出島から江戸まで、
将軍謁見の為の参府の様子が解って面白い。

「われわれの行列はだいたい大名行列に似ている。
 そしてわれわれの使節は大名と同じ身分の表示と
 特権を享けるのであるが、
 これは外国の使節だからというのではなくて、
 彼がやがて将軍に拝謁する栄誉をになっている
 からである。

 しかしこういうことはただ大名だけにふさわしい
 ことである。それでも日本ではオランダ人という
 名称に対して人びとが寄せている好意と信頼とが、
 大いに役立っていることも否定できない。
 それゆえ陸上旅行の全行程中、
 大名行列と同様の順序が守られる。 」


当初は毎年、それ以降は4年毎
また将軍の代替わりの旅に江戸に参府する
オランダ使節団なので、こんなエピソードもある。
京都にはいわゆるオランダ人の友人が
 たくさんいるが、とりわけ天皇の宮廷の侍医、
 小森肥後介Komuli Hikonoske は、
 私が知っている日本人のうちで最も誠実な、
 最も教養のあるひとのひとりである。
 こういうような〔ヨーロッパの学問の〕信奉者は、
 よく自分たちの家族を伴ってやってくるので、
 われわれは日本人の家庭的な団欒のなかで、
 本当に楽しい夜を過ごすのである。
 また、内裏の身分の高い方も
 お忍びで時折りみえることがある。
   」




さて、
対馬・長崎や京都の人達が「朝鮮通信使」に
殊更、深く傾倒する理由には
サヨク思想だけでなく、こんなカラクリがある。
江戸幕府の監視を掻い潜っての私貿易
ダミー商社を使ってまで貿易していたのだから
現代の構図と変わらないわなぁ・・・

★〈朝鮮通信使来聘400年-7-〉 
 倭館と出島

 朝鮮新報 2007.6.29
 http://take8592goole.wiki.fc2.com/wiki/%EF%BC%90%EF%BC%97%E3%80%80%E5%80%AD%E9%A4%A8%E3%81%A8%E5%87%BA%E5%B3%B6
(引用開始)
京都の西陣の織屋が「糸屋町銀主」という
組合をつくって朝鮮貿易に資金を
提供したからである。

京都に本店を構えた三井家(越後屋)は、
ダミー商社を通して投資し、対馬藩から
直買いして利益をあげている。

(引用ここまで)

越後屋、
おぬしも悪よのう・・・


時代劇でも有名なセリフの一つなのが、
「阿漕な商売をする越後屋」で有名だったから?
強欲で汚いやり方のビジネスの代表格か・・・


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Comments 2

トマト

日本にもまだまだばか野郎がいるので本当にこまったものです。なぜ日韓仲良くとか妄想に過ぎないことがわからないのか腹立たしいです

2015-02-06 (Fri) 13:14 | EDIT | REPLY |   

名無しさん@ニュース2ch

実際に細かい何が起こったかもだけど、一番大事なのはなぜ来させていたかじゃない?
私が学生のころは朝貢にこさせていたって習ったと思うんだけどなぁ。
それがいつのまにか、先進の文物を頂くとかあべこべの話にすりかえられてる。
レイバーネットだかのエセ学者の政治運動屋だけじゃなく、他の学者の先生たちは反論とかしないの?

>格下の国使を盛大にもてなし国家の威光を見せつけるのが目的だった。
これってもしかして中共が日本から行った政治家や財界の人達にやっていることもこの意味なのかしら。

2015-02-06 (Fri) 16:23 | EDIT | REPLY |   

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