韓流研究室

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やはり、疑惑だらけの慰安婦被害者の証言。

★慰安婦被害者1人死去 
 生存者54人に=韓国

 朝鮮日報  2015/02/03
 
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/02/03/2015020300551.html
旧日本軍の元慰安婦だったファン・ソンスンさんが
死去してからわずか5日後、また1人の元慰安婦が
この世を去った。
今年に入ってから2人が亡くなったことになる。
これにより、韓国政府に登録されている旧日本軍の
元慰安婦238人のうち、生存者は53にまで減った。

 韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)は
2日、韓国政府に登録されている元慰安婦の
パク・ウィナムさん(93)が先月31日に持病のため
亡くなったと発表した。
女性家族部(省に相当)と挺対協によると、
パクさんは16歳だった1938年
「満州(中国東北部)の
 軍需工場に行けば金を稼げる」
という近所の人の話にだまされ

慰安婦として連れていかれ、7年にわたって
辛酸をなめた。
光復(日本の植民地支配からの解放)とともに
帰国したが、慰安婦として働いたことによる
身体的・精神的な後遺症のため苦しい生活を
強いられた。
女性家族部によると、パクさんは婦人科疾患に
悩まされ、死にもつながったという。
生活保護を受給していたため病院の費用は
免除されたが、まともな収入がないまま
江原道や慶尚北道などでたびたび引っ越しを
繰り返し、子どもを産むこともできず、
妹の息子を養子にした。

 亡くなる6カ月前の昨年8月、
ようやく政府に旧日本軍の元慰安婦として
登録された
。遺族は
「故人の過去の記憶を呼び覚ますのは
 とてもつらかったため、登録が遅れた」と話した。
パクさんの元慰安婦としての登録を支援した
女性家族部の関係者は
慰安婦の『慰』の字を口にするだけでも
 驚かれたため、調査も容易ではなかった

 妹たちを通じて過去の経歴について聞き、
 ようやく登録できた」
と話した。

 パクさんの遺族は葬儀を身内だけで行い、
遺骨は忠清南道天安市の「望郷の丘」に安置した。
「望郷の丘」は1976年、祖国への埋葬を願う
海外在住の韓国人100万人のために開設された
国立墓地だ。

オム・ボウン記者

(引用ここまで)



あらあら、朝鮮日報日本語版を作成した人は
1月26日に作成した記事から上書き保存したのか
タイトルの生存者人数を変更し忘れているのかしら?
やっつけ仕事的ないい加減さを感じます

関連記事
★慰安婦被害者1人死去 
 生存者54人に=韓国

 朝鮮日報  2015/01/26
 
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/01/26/2015012602355.html
 【ソウル聯合ニュース】
旧日本軍の慰安婦被害者の一人、
ファン・ソンスンさんが26日午前8時ごろ、
老衰のため韓国・全羅南道の病院で死去した。
88歳だった。
市民団体の韓国挺身隊問題対策協議会が
明らかにした。

 1926年に全羅南道で生まれたファンさんは
両親を早くに失い、弟と暮らした。
10代の時、
釜山にある工場に就職させてやる
という隣人にだまされ

南太平洋のナウルにある
慰安所で戦争が終るまでの約3年間、
慰安婦をさせられた。


 韓国政府の認定を受けた慰安婦被害者
238人のうち、生存者は54人となった。

 挺身隊問題対策協議会の関係者は、
一日も早く慰安婦問題を解決し、
おばあさんたちが少しでも平穏に老後を過ごせる
よう協力して欲しいと訴えた。

 挺対協はこの日、パクさんの死去について公表し
「1日も早く慰安婦問題が解決し、
 残された時間があまりない被害者たちが
 真の意味で解放されるようにしてほしい」
と訴えた。

(引用ここまで)

★慰安婦被害者の
 ファン・ソンスンさんが死去

 中央日報 2015年01月27日
 
http://japanese.joins.com/article/814/195814.html
(略)
挺身隊対策協によると、
1926年全羅南道長城(チャンソン)で生まれた
ファンさんは、両親と早くに死別して弟と2人で
暮らしていた。
17歳ごろ、叔母の家にご飯を食べに行こうとして
いたとき、「釜山(プサン)の工場に職がある」という
男の話にだまされて彼らについて行った。


その後、ファンさんは釜山と日本を経て
南太平洋ナウル島の慰安所に行くことになった。
ナウル島で終戦までの約3年間、
日本軍“慰安婦”として動員され

あらゆる苦難を経験した。

(引用ここまで)



ファン・ソンスンさんも、パク・ウィナムさんも
韓国の慰安婦証言には
「○○の工場に行けば金が稼げる」
知り合い(隣近所の人)に騙されたというケースが
あまりにも多い!
ハンギョレ新聞によると、
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/19552.html
16~17歳だった1938年頃、
満州の軍需工場に行けば
金をたくさん稼げるという
町内の人の話にだまされて
慰安所に連れて行かれた
そうである。

貧困家庭の少女にとって
「金をたくさん稼げる」という甘事は
かなりの魅力だったのだろう・・・
「金をたくさん稼げる」稼業がどんな所か
知らなかったのだろうか・・・
当時の朝鮮は、
隣近所の人間が少女を騙し捲っていたの???

★軍慰安所従業婦等募集に関する件
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E6%89%80%E5%BE%93%E6%A5%AD%E5%A9%A6%E7%AD%89%E5%8B%9F%E9%9B%86%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BB%B6
(略)
通達が出された背景

1930年代の朝鮮における
人身売買と誘拐事件
[編集]

「朝鮮南部連続少女誘拐事件」も参照

1933年、少女たちを誘拐し、売春宿に売り飛ばして
いた朝鮮人誘拐団のトップが逮捕された事件[9]、
1936年には農村の女性を騙して満州に娼妓として
売却しようとしていた朝鮮人を逮捕[10]、
1938年には17歳の二人の少女に
満州での就職をもちかけて誘拐し、
自分に親権があるかのように委任状を偽造して
遊郭に売った朝鮮人紹介業者が逮捕され
[11]、
1939年には日本女性を騙して中国へ売り飛ばそう
としていた朝鮮人が逮捕[12]、
また同年には、1932年から各地の農村を歩き回って
「生活難であえぐ貧しい農夫達」に良い仕事がある
と騙し、約150人を満州や中国本土などに売っていた
朝鮮人が逮捕され、
その朝鮮人から50名ほどを買った京城(現ソウル)の
遊郭業者を警察が呼び出すと、それを察知して
その女性たちを中国に転売した事件
(朝鮮南部連続少女誘拐事件)が発生していた[13]。

以上のように、朝鮮人が女性を甘言・誘拐により、
売春宿に売却しようとして日本の警察に逮捕された
例が数多く報道されている。

朝鮮総督府統計年報によると、
略取・誘拐での検挙数は
1935年は朝鮮人2,482人・日本人24人、
1938年は朝鮮人1,699人・日本人10人、
1940年は朝鮮人1,464人・日本人16人
となっている。 

(引用ここまで)



さて、ファン・ソンスンさんの経歴について
在日韓国人の方が鋭い指摘をなさっています。

★ファン・ソンスンさん
  ご冥福をお祈りいたします

 http://blog.livedoor.jp/kanedashoji70/archives/21464075.html
もし、日本の活動家が慰安婦として
あなたを担がなければ、
もっと平穏な余生を送ることができたでしょうに。

今までの証言をまとめると、
1926年に生まれ、17歳、
1943年に「隣人」に騙されて、
クゥエゼリン環礁にあるナウル島に送られた
というファン ハルモニ。
恐らく、今までの証言通りであれば
ナウル島に到着したのは1944年なるのですが、
1944年2月2日にはナウル島は米軍に占領されて
いるんです。


残念なことに、
到着していた時には日本軍はいない、という
"悲劇"に見舞われたファン ハルモニ。
そして、日本軍のいないナウル島で
3年間も慰安婦をしていたなんて、、、


確かに苦しい生活ですよね。
米軍相手だったのでしょうね。
日本軍兵士相手なら高級取りだったでしょうが。
米軍相手だと手取りは少ないでしょうし。

どうして、あなたが到着するまで
日本軍は踏ん張れなかったのでしょうか。
どうして、日本軍相手の慰安婦として
働かせる事ができなかったのでしょうか。
そう、考えると、日本に対して腹を立てるのも
よく分かります。

(引用ここまで)



関連記事

★ドイツの植民地 第3部 
 オセアニア 島嶼領土

 http://www.kaho.biz/germany/oceania.html


★太平洋島嶼地域における
 リン鉱石採掘事業の歴史と現在

 http://www.jaipas.or.jp/article/other_01.html
(略)
太平洋戦争が始まると、ナウル、バナバ両島は
日本軍に占領された。
日本も両島からのリン鉱石採掘を目指し、
ナウル島に南洋拓殖株式会社、バナバ島に南洋興発
株式会社の職員を送り込んだが、
戦局の悪化によって結局一度も輸送船を送ることが
できず、両島からのリン鉱石の積み出しは、
1943年から1946年まで4年間ストップした。


クェゼリンの戦い
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A7%E3%82%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

■ルオットおよびナムルの戦い
(略)
2月3日11時18分にナムル島の占領が宣言された

(略)
また、飛び石作戦により無視されたマロエラップ
などの日本軍守備隊は、なんら戦局に寄与できない
まま放置された。
飛行艇などによる人員救出が試みられて、
航空隊関係者など少数だけは脱出に成功した。
残された者は、補給途絶により食糧難に苦しみ、
砲爆撃を浴びながら終戦を迎えることになった。


(引用ここまで)

マーシャル諸島の作戦/
 クェゼリン島・ルオット・ナムル島

 http://holywar1941.web.fc2.com/sensi2/sensi-tyubu12.html


★昔の思い出
 ナムル島警備隊

 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_374_1.pdf


ピエズ島の惨状
 http://www.panda1945.net/album/ocean/piedu.html
 ナウル通信会の発行した
「ピエズ島‐続ナウル守備隊の記録」はその事情を
以下のように記している。
ナウル守備隊は
 昭和二十年度の連合艦隊編成表では第四艦隊に属し
 終戦処理を米軍が担当していれば真っ直ぐ元気で
 内地に帰れたはずなのに
 ナウル・オーシャン両島はオーストラリアの行政区で
 あった為豪州軍が担当し

 遠くソロモン群島に強制連行されブーゲンビル島
 トロキナでは炎天下に豪州軍の銃剣に追い立てられ
 強行軍を強いられた、そして数日後、次の収容所
 ブーゲンビル海峡に浮ぶピエズ島に再び移送された。
 ―中略―
 トロキナの朝昼夕食も支給せず、また一滴の水も与えず
 二十名の死者まで出した二十KMの強行軍といい、
 ピエズ島では原住民も住まないマラリア蚊の
 猛棲息地に抑留させ薬剤も与えず僅かな食料を支給して
 栄養失調に陥いれ半数近くの四百名の人命を
 死に至らしめた―後略―』


★消滅の危機、
 ナウル共和国のいま

 http://www.jaipas.or.jp/124/124_3.htm



ナウル島に配属された通信兵が
6時間の勤務の後や非番の日はカボチャ作りの
畑仕事をしなきゃならない程、食料確保に困り
配属中の5年間、米を口にした事が無かった・・・
こんな現状の戦地に、ファン・ソンスンさんは
終戦まで旧日本軍慰安所が存在し
「戦争が終るまでの約3年間、
 慰安婦をさせられた」
という・・・

彼女を担ぎ上げた
韓国挺身隊問題対策協議会は
当時の日本の戦況がどんなものだったのか
知る由も無かったのだろう・・・
あの当時、
朝鮮半島に居住していた日本人の証言によると
戦争中の日本の食糧難と空襲による混乱と違い、
朝鮮は・・・
”空襲があるわけでもなく、
 食料事情なども何の問題もなくて”
と、
日本の状況とはまるで違っていたらしい。

彼らが本当の地獄を見るのは、
”解放後”の、ロシア郡やと米軍の進駐
日本人が強制退去させられた後のコレラの蔓延
そして朝鮮戦争からなのだから・・・

★昭和20年8月15日 68年前
 2013-08-15 05:44:03 | 自分史
 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/6a67f7c73e7535c9f9fd492f047ba8b0



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