韓流研究室

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古代武芸で韓日交流?「第3回高麗王杯騎射競技大会」

★古代武芸で韓日交流…
 高麗郡フェスティバル2014

 民団新聞 2014.11.26
 
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=19771

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 疾走する馬上から的を射ぬいた韓国の選手

第3回「馬射戲」競技、渡来人ゆかりの地で
高句麗装束に身を包み


【埼玉】
日本の流鏑馬(やぶさめ)の源流といわれる
韓半島古代の武芸・馬射戲(まさひ)の
「第3回高麗王杯騎射競技大会」が23日、
日高市の小林牧場で開催された。
高麗郡建郡1300年記念事業委員会
世界騎射連盟、日本騎射協会、日韓騎射連盟と共催。
民団中央本部が特別協力した。


 馬射戲はユネスコ世界遺産にも登録された
高句麗古墳群のなかの一つ、徳興里古墳の
壁画に描かれた騎射競技を
現代風によみがえらせたもの。


流鏑馬が長弓を用いるのに対し、馬射戲は短弓。
しかも、的は60㌢四方、40㌢四方、20㌢四方と、
競技が進むにつれ小さくなっていくのが大きな特徴だ。
参加選手は200㍍のコース内に30㍍間隔で5つ設置された
的を、疾走する馬上から連射しなければならない。

 日本から2人、韓国からは女子高生を含む6人が
高句麗装束で参加し、大きな的から小さな的まで
各2回ずつ演武を行った。
見事、的を打ち破ると、観客席から「ウォー」という
大きな歓声が起きた。
特に60㌢、40㌢の的を各2回ずつすべて的中させた
キム・ウソン選手には大きな拍手が送られた。

 開会式で高麗郡建郡1300年記念事業委員会の
大野松茂会長は、
「来年にはアジア大会、(建郡1300年にあたる)
 2016年には世界大会がこの地で開催できる
 ことを望む」とあいさつした。また、
世界騎射連盟の金榮燮議長は、
「高句麗人が勇猛を競った馬射戲で、
 韓日間の友情が深まることを期待する」と述べた。

(引用ここまで)



関連記事

★埼玉・高麗神社で
 「高句麗流馬上武芸」とやらを
 宣伝する変な団体

 2010/10/13
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-715.html



>壁画に描かれた騎射競技を
 現代風によみがえらせたもの


壁画を・・・
現代風に・・・


徳興里古墳は、北朝鮮の平壌西南20キロ、
南浦市江西徳興里の所在する壁画を持つ古墳。
壁に書かれた墓誌には埋葬された人の経歴が
詳細に書かれている。
永楽十八年(409)に没した「□□氏鎮」
「馬射戲」の図というのがコレ
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何故、
現代風にアレンジしなくてはならなかったのか?

それは、今の韓国に「馬射戲」という伝統行事が
伝承されていない証拠。
先祖代々、伝承されてきた伝統文化ではないから
上記の壁画から想像して
日本の流鏑馬神事を参考にして、
現代風に蘇らせたのでしょう・・・
しかも、 韓民族伝統馬上武芸・撃毬協会とやらが
韓国国内で花郎騎射大会を開催し始めたのが
2004年!と・・・たった10年の歴史なんですね。

まあ、伝承されなかったのも当然で
現在の韓国人は、高麗人の子孫ではないからねぇ。


埼玉県にある「高麗本郷」と言うのは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%83%A1
『続日本紀』によると、霊亀2年(716年)5月16日に、
高句麗滅亡によって日本に亡命した高麗人のうち
甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国の
高麗人1799人を集めて武蔵国に移し、
高麗郡を置いたそうですから、高麗人の末裔ですね。
で、昨今、この歴史を利用して
渡来人の里として「町おこし」をしている。

高麗若光の菩提を祈るため、
751年(天平勝宝3年)に建立したと言われている
当地の勝楽寺なんかは
2000年(平成14年)に、山腹に新本堂を建立したときに
在日韓民族無縁の慰霊塔を建立したりしているそうだ。

高麗人は、韓民族じゃないってのに・・・



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 http://qookaku.blog.shinobi.jp/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC/


★騎射
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%B0%84
紀元前8世紀頃にスキタイ人により始められる。

騎射は世界史的には
スキタイ文化(紀元前8世紀 - 紀元前3世紀)の
初期から存在し、この疾走する馬上から矢を射る
という特異性から古代ギリシア人はケンタウロス
を想像したと考えられている。
(中略)
日本における騎射

日本において馬が登場するのは4世紀以降であり、
考古学的には6世紀の古墳から挂甲、直刀、鏃、
馬具が一括して出土するようになる。
文献においては『日本書紀』の雄略天皇記で
騎射の記述がある。
雄略天皇が即位する前(456年)、
有力な皇位継承候補だった市辺押磐皇子を狩猟に誘い、
天皇が「弓を彎き(ひきまかな)ひ馬を驟せ(はせ)」偽って
皇子を射殺したという。
これが日本での騎射の初見であると思われる[1]。
雄略天皇は5世紀の人物であるので、
騎兵の成立時期にすでに騎射の技術があったことを
示している。
(引用ここまで)

★流鏑馬
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%8F%91%E9%A6%AC

★笠懸
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%87%B8


★騎射の歴史
 (小笠原流)
 http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/lessons/kisha/history/history.html

★下鴨神社 流鏑馬神事
 http://www.a-rchery.com/yabusame.htm
流鏑馬は
「やぶさめ」、あるいは「やぼさめ」と読みます。
「矢伏射馬」とも書きます。
『貞丈雅記』に「やぶせむまの略語なり」とあるように、
馬を走らせながら鏑矢(かぶらや)を射ることです。
 下鴨神社では、流鏑馬とは云わずに
「騎射」(きしゃ)と明治初年まで呼んでいました。
この騎射が、いわゆる流鏑馬の原形です。
その騎射の歴史は『日本書紀』、
雄略天皇即位の年(457)に
「騁射」(うまゆみ)を行ったとあります。

また天武天皇9年(682
「長柄宮にて馬的射」ともあり、これもまた流鏑馬
のことですから、古くから行われていたのがわかります。
 当神社では、境内の糺(ただす)の森から
古墳時代の馬具が出土しました。
また、『続日本紀』に
「文武天皇2年(698)加茂祭(葵祭)の日に
 民衆を集めて騎射を禁ず」
とあり、
葵祭の日の騎射に大勢の見物人が集まるために
三度も禁止令が出るほど有名になっていましたから、
古くから行われていたことがうかがわれます。

 文亀2年(1502)、葵祭の路頭の儀が中絶した
ことによって騎射もまた中絶しました。
神事は中断しましたが、武家は各地で流鏑馬として
盛んに行うようになり、さまざまな流儀や作法が
派生しました。
元禄7年(1694)、葵祭が再興された時、
騎射も伝統の作法により再興されました。
ところが明治2年(1869)東京遷都祈願行幸の時に
行われた後、再び中断するにいたりました。
 去る昭和48年、下鴨神社式年遷宮の記念行事として、
名称を流鏑馬神事と改め、100数年ぶりに復活しました。

(引用ここまで)


★葵祭
 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/aoi/arekore.html
古墳時代後期の欽明天皇(540 ~571年)のとき、
凶作に見舞われ飢餓疫病が流行したため、
天皇が勅使をつかわし「鴨の神」の祭礼を行ったのが
起源とされている。

■葵祭の前儀
 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/aoi/zengi.html
流鏑馬は葵祭の道中をはらい清める神事。



■室町時代の騎射の図
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■13世紀に描かれた「男衾三郎絵詞」
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 この絵では男たちが3人掛かりで弓に弦を張っている。
 このように張力の強い弓は、弦を張るのに
 必要な人数によって
 「2人張りの弓」「3人張りの弓」などと呼ばれた。


■中国、清代の騎射の図
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さて、韓国では
>徳興里古墳の
 壁画に描かれた騎射競技を
 現代風によみがえらせた
などと、
勝手にアレンジした挙句、それを古来からの伝統と
思い込んでしまう傾向が有る。

日本の場合はどうだろうか?

★故実書から吉宗流流鏑馬再興
 http://ha16na.exblog.jp/9399624/

★流鏑馬装束
 http://ha16na.exblog.jp/9920717/
「元文流鏑馬記」に
・・・紅、くちは、とくさ、の水干に、金銀の箔を以って、
家々の紋を押たり、綾藺笠などいふ物へりを、
染革にてつつみ、金の散花を押す、
をのをの夏毛のむかはきを履たり、
をよそ神事に用るには、やたらひやうらうの
行縢とて、異なる秘事のよしなれは、委しくハ尋ね
とハず、弓小手ハ、精好、あるひハ、金襴、あるひハ、
繻子を、用ひたるも有之、白かな物の太刀佩て、
短刀を帯し添たり、沓手袋なとハ、皆一やうに見ゆ、
箙ハ逆つら箙本儀なりといへとも、此時新調に余日
なかりしにや、各ひきはたゑひらを用ひたり、
鏑矢箆は、白箆、鷹の羽ね、小羽ハ、
例の山鳥の引尾と見ゆ、しこめたる弓を執り、
右の手に、竹の根のむちをぬき入て持たり、・・・・・・・

とあります。
吉宗が再興した流鏑馬の第一回目の様子です。

これが当時の最高権力者が
各藩に命じて古文書・古画を提出させ、調べあげ
長い時をかけて再興した流鏑馬姿です。

(引用ここまで)



武家社会では
14世紀、南北朝の頃になって騎射戦から
打物戦に変化していくと、
それまでの弓馬の常識は常識でなくなり解らない
ものとなり、その時になって故実書が書れていった
戦闘としての「騎射」は廃れてしまい
実用としての「騎射」から、武芸へと変化していく。
斉藤直芳著「弓馬と名将」
「総じて芸は
 実際にもちいられているうちは生命があり、
 実用をはなれると式化する」

また、古豪族・伴一族の「騎射」は
藤原氏に流刑された各地で神事となって
日本各地の神社に継承されていく。
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韓国が、近年になって
「茶道は韓国起源」説を唱えながらも
古文書の一節から”想像”して、日本の茶道をパクリ
あたかも、昔から存在した文化のように偽装するために
色々とアレンジしていくうちに、支離滅裂な韓国茶道を
創ってしまったように・・・

流鏑馬の起源をパクろうと
「高麗王杯騎射競技大会」なんてのを開催していくうちに
恐らく、限りなく日本のものに似てしまうのだろう・・・

高句麗装束なんてのも、
時代考証がメチャクチャな韓流時代劇を
参考にしたんじゃなかろうねぇ?

それにしても、
1298年経っても、渡来人の子孫だの
「高麗人の末裔」とはね・・・
http://komagun.jp/komagun

朝鮮半島で、
百済滅亡(660)、高句麗滅亡(668)によって
日本には百済や高句麗から多くの人々が渡来した。
渡来とは聞こえがいいが、国が滅亡した結果の亡命者。
大和朝廷は、続々と逃げてくる渡来人を、例えば
百済人男女400を神前郡(665)に、男女2000名を東国(666)に、
余自信ら男女700名を近江蒲生郡に配した。
高句麗からも高麗若光や背奈福徳等が渡来し、
高麗人687名を常陸国(687)に、
そして各地に分散させていた1799名を武蔵国(716)に配した。
新羅から生活に困窮し渡来した新羅人を下野国に(持統期)。

天武、持統朝になると、
百済男女214名を武蔵に、高麗人56人を常陸へ配するなど、
渡来人を関東などの遠隔地に配するようになる。
これは、大宝律令以降(701)、
外国使節が往来する道路の近くに渡来人を置かない目的と
未開な遠隔地の開発が目的だった。
上州には新羅系渡来人を中心とした多胡郡が置かれる(711)

『三国史記』新羅本紀によると、
745年頃から750年代後半にかけて新羅では
飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊する。
新羅南部の流民や漁民は海賊行為を繰り返し日本を襲う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

また、大量に流民してくる新羅人に対し
757年 『養老律令』によって、大和朝廷は天皇の徳を慕って
渡来して来た蛮族・新羅人に帰化を認める。
758年 日本への帰化を希望してきた新羅人74人を、
武蔵国の未開地に移住させて新羅郡を置く。
760年、淳仁天皇は、帰化希望の新羅人難民131人を
武蔵国に送る。
770年、新羅で内乱が起き、国力が衰退すると
多くの新羅人達は、祖国を捨て、逃げるように日本に移住。
毎年の如くやってくる新羅人難民が関東地方に
大挙して移住していた・・・

『日本記略』によると
弘仁11年(820年)2月頃、
遠江・駿河両国に配した新羅人700人が反乱を起こした。
「人民を殺し、屋舎を焼く」と記された新羅の乱民は、
伊豆国の穀倉を破り船を盗むなど蛮行を繰り返す。

『遠江国風土記伝』によると、
遠州と三河の国境にある富幕山の麓に、
新羅人の集落が有り、山頂の手前には「幡教寺」
存在していた事が解っている。
幡教寺跡は別名「新羅堂」と呼ばれていた。

新羅人達は、
日本に渡来した当初は仏像などを献上していたのだが、
弘仁4年(813年)から同年8年頃までの間に
集団で帰化すると朝鮮式山城を築き勢力を拡大する。
各地で、地元住民との衝突を繰り返し、
次第に対立するようになる。

新羅堂との争いは激化し、
世に言う「新羅堂崩れ」にまで発展する。
方向寺の記録では、
「高野山との宗旨の争いが原因で、
 紀州から軍勢が押し寄せ只木村側より
 奇襲を掛け堂内の僧侶と交戦し、
 堂塔を破壊した」
とある。
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 現在の幡教寺(新羅堂)跡

帰化人には口分田と当面の生活費が与えられた。
数年間は租税を免除し、未開地の開墾に励むよう
各地に配置されたのだが・・・

日本の流民してきた新羅人達は、
博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、
それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みし
遠江國での反乱を起こしたものと推定されている。

この反乱では、
遠江・駿河両国軍では制圧できず、
相模・武蔵等七国が兵士を動員して力を併せて
追討した結果彼らは降服し、ほとんどが処刑された。

この反乱で戦死した新羅人数百人の屍は、
そのまま放置されたまま野ざらしとなっていた。

浜松市にある法雨山甘露寺は、弘法大師が
弘仁13年(822)に開創した。
寺伝によると、「弘仁11年(820年)の新羅人の反乱」で、
野ざらしのままの骸を拾い集め、その霊を慰めたという。

830年、大和朝廷は帰化を認めなくなった。

帰化氏族達は、自らの始祖を中国に求めたり、
8世紀には日本風の氏に改姓するものも増えた。
この中で武蔵の新羅人が姓を金に変えたり(728)、
上州の新羅人が吉井に姓を変えたり、
百済王氏の一部が三松氏に変えるなど、
全国的に名字が変えられ、
一見して渡来系とは分からない者も増えていったとさ。

日本って、
大昔からこんな歴史だったのね・・・



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Comments 2

DUCE

16世紀のフランスではユグノー教徒が迫害されてドイツに渡り、その末裔がフランス語の姓のまんまドイツ人と称していますが。渡来人の場合はそれ以上の歴史がありますからな。一旦よその地に定着した連中に関して、トンスラーどもが自分らの歴史と称するのはいかがな物でしょうか。

2014-12-08 (Mon) 07:54 | EDIT | REPLY |   

F.Y

12月20日の「世界ふしぎ発見」でモンゴルの騎射協議を取り挙げるようです。
日本の流鏑馬と関連付けるようですが、さて、民団の皆さまはどのようにご覧になりますやら。
「モンゴルにもウリ達のご先祖が伝えたニダ!」でしょうか。

2014-12-10 (Wed) 22:36 | EDIT | REPLY |   

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