韓流研究室

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東京韓国学校設立までの歴史

前記事では、ソウル日本人学校の設立から
現在の新校舎建設までの経緯を記しました。
今回は、
東京韓国学校の設立から現在までを調べました。
まず、2001年度の慶応大学の学生研究資料より

★在日コリアン民族学校の研究
 -同化主義と国民化教育の狭間で-

 
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/tech/korea.html
 東京韓国学校沿革

 東京都新宿区にある東京韓国学校は
54年4月に民団中央本部の指導のもと創立された。
新宿区若松町にあった元日本陸軍経理学校の
木造二階建ての校舎を民団側が買い取り、
そこを民団中央本部と共同で使用するという形

でのスタートであった。
学生数は開校当時、初・中等部あわせて26名と少なく、
その多くも教職員による団員宅への地道な個別訪問
によって通学するようになった子弟達であったという。
地道な教職員たちの努力の結果、
学生数は開校二年目にして100名をこえるように
なったが、教職員の給料の遅配が恒常化するなど
経営状況は悲惨な状況であった。
そのため、一時は毎月平均2名程度の教師が辞めていく
という異常事態に陥るが、本国からの教師の派遣により
難局を乗り切る。
55年には初・中等部が東京都の認可(各種学校)を受け、
56年に高等部を設置する。その後、61年に本国政府の
全額補助によって四階建ての校舎に改築され、
翌62年3月には韓国文教部より正規学校としての
認可をうけた。

 一方、80年代に入り本国の経済成長に伴い
韓国企業の海外進出が活発になるなかで、
公務員や本国駐在商社員の子弟の就学が急増する。
その結果、駐日学生数が在日学生数を上回り、
全体の学生数の9割を占めるに至る。
一番のピーク時であった80年代後半には同校への
入学、編入を待つ「待機生」が150人以上もでる事態が
発生した。そうした状況に対応するため、
91年には本国政府の資金援助(約12億円)を得て
現在の校舎に改築し、派遣教師も大幅に増加された。
こうした在日が民族学校の中で「マイノリティ」になる
状況は90年代半ばまで続くが、97年以降、事態は急変する。
タイのバーツ危機に端を発した「アジア通貨危機」の影響は
韓国にも及び、97年を機に韓国経済は失速、
IMF(国際通貨基金)の管理体制下に入ることになる。
本国経済悪化は韓国企業の経営規模縮小に直結し、
日本駐在商社員などの子弟の多くが本国に帰還してしまう。
そうした状況は多かれ少なかれ民団系民族学校に共通する
ものであったが、同校では学生数の大多数を駐日子弟が
占めていたため、その影響は大きかった。
現在も学生数は漸減傾向にあり、金龍満校長自らが
民団の各支部を巡回し在日子弟の勧誘を行うという
苦しい状況におかれている。
(引用ここまで)



★陸軍経理学校
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%B5%8C%E7%90%86%E5%AD%A6%E6%A0%A1
明治19年(1886年)8月に設立された
陸軍軍吏学舎が前身で、
明治23年(1890年)11月に陸軍経理学校と
改称する。
1898年11月4日、生徒舎が東京市牛込区河田町
元士官学校分校跡に移転した。



2008年3月21日付けの読売新聞に
神奈川県藤沢市在住の男性が
1911年(明治44年)5月16日、
旧陸軍経理学校(東京・新宿区)の卒業式に
父親が第7期生として同校に在学中で、
ひそかに写真師に依頼して校舎2階から
撮影させた、明治天皇を隠し撮り写真を
所有していたという記事が有ります。
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1206079787/-100

 simg20080325_p.jpg
大正12年9月関東大震災の際に被災した
海軍経理学校が、この陸軍経理学校内に
一時移転していたことから
元士官学校分校跡に造られた木造2階建ての
生徒舎は、相当な広さが有ったと想像できます。



1954年、民団にこの軍用施設が払い下げられ
中央本部と韓国学校が設立されます。
設立までの経緯は、
総連との闘争の歴史でもあります。

★ <第61周年光復節>
 民団顧問 草創期を語る

 民団新聞 2006-08-15
 http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?corner=1&subpage=239
・初の在日信組財政支援に力 朴権熙さん
53年に民団の傘下団体であった
在日韓国学生同盟の委員長になった。
副委員長は明大生であった朴炳憲氏(現常任顧問)で、
執行部には各大学から1~3人加わってもらった。

執行部発足に当たっては、
新宿区若松町にあった民団中央本部
(現在東京韓国学園のある場所)の2階の
韓学同事務所
で2週間ほど合宿し、
朝は学校へ、夕方に会議、夜は勉強という
生活をして
「われわれはどう生きるべきか」と真剣に
討論したものだ。

・国家民族のために闘った日々 
 鄭ドンファ(■和)さん(■=火+同)

1946年10月に民団が結成され、初代団長に
朴烈氏が選出された。
日帝下の独立運動であまりにも有名で、
民団ではカリスマ的な絶対的存在だった。
私は宣伝局員としてその下にいた。
鄭翰景団長の当選や珍しい3人団長団実現させた。

 今だから話せることもあるが、
若いころはかなり無茶をしたかもしれない。
しかし、私利私欲のためではなく、国家民族のため、
愛国心と自己の信念に基づいて闘った。
 
民団草創期には明大の学生だった。
解放直後に朝鮮学生同盟ができ、またたく間に
全国組織になったが、左翼系学生に主導権を
握られたままだった。
われわれは1年以上準備して機会を待ち、
朝鮮学生同盟の役員改選のとき総会に乗り込んだ。 
われわれには殴ってから話す流儀があったので
役員を殴って舞台を占領し、2回ほど流会させた。
ついに総会で彼らが退場したのでわれわれは
「在日韓国学生同盟」と改称した。

 朝鮮学生同盟の事務所は、
新宿奨学会の事務所にあった。
われわれは事務所を奪還するため突入しよう
としたが、騒ぎが大きくなり何百人もの朝連、
民団の人々が奨学会の建物を取り囲み、
ついにはアメリカの憲兵が封鎖し、
両方とも使わせないようになった。


 韓学同の事務所は、
新宿区若松町の民団事務所に置くことにした。

(引用ここまで)


上記サイトをみると、
1953年には新宿区若松町の旧陸軍経理学校を
民団中央本部の事務所として使用していたのですね。
2階を韓学同事務所として使用し、学生達が
合宿所として利用していた・・・

建物と敷地を買い取ったのは
既に使用していた後のことだったのですね・・・


一方、
「在日朝鮮留学生同盟」
日本の敗戦後、在東京留学生たちが
8月16日~17日、東京神田にある
韓国YMCAに100余名が参集し、
学生たちの権益と親睦を目的とした団体を
組織する。
1945年8月下旬、東京新宿区角筈2丁目の
財団法人朝鮮奨学会(当時、川岸文三郎理事長)を
接収
し、同奨学会の理事陣を韓日両国人で構成した。
池來漢氏が理事長、日本文部省から麓保孝氏が
理事に出された。

 朝鮮奨学会建物を学生同盟会館に使用し
「在日本朝鮮学生同盟関東本部」の結成を
9月初まで完了させ、10月には全国中央本部を
設置した。

朝鮮の留学生達に接収された朝鮮奨学会の
設立の経緯とその後の歴史はコチラ
★朝鮮奨学会のビル、
 8億円超払わなければ競売に

 韓流研究室 2013年2月8日
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2283.html
(略)
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写真にある建物は1934年に竣工した。
当時は朝鮮総督府内の朝鮮教育会奨学部が
管理していたが、
1941年2月からは朝鮮奨学会となり総裁は
前朝鮮総督南次郎。
当時の地番は「東京市淀橋区角筈2丁目」。

 朝鮮に進出し財を成した野口遵が
 朝鮮総督府に寄付した資金500万円で
 活動したといわれている。


(略)
解放後は朝鮮人学生運動の拠点になったが、
財団法人としての朝鮮奨学会は存続した。
写真は1949年7月に撮影されたものだが、
当時の面影を伝えている。

(続きはリンク先で)


2009年の47ニュースには
伊藤元修共同通信記者が書いた
東京韓国人学校での
オールドカマーとニューカマーの内紛が
報道されています。

http://www.47news.jp/47topics/daitenkan/3-6.html
東京・新宿の東京韓国学校には、
日本に住む韓国人の小中高生約千人が通う。
「学内紛争は、一部のニューカマーによる
 “在日”追い出し劇だった」

学校にほど近い喫茶店で、在日韓国人二世の
元理事(65)は灰皿にたばこを押しつけながら
苦々しげに振り返った。

 学校は、
朝鮮戦争(一九五〇―五三年)終結後の混乱で
祖国に帰国できなかった在日韓国人の有志

五四年に設立。

当初は在日生徒がほとんどだったが、
八〇年以降に来日した「ニューカマー」が逆転し、
在日は現在約5%にすぎない。

 授業を日本語、韓国語で受ける在日組と、
韓国語だけで学ぶニューカマー組との摩擦が
二年前にある紛争を生んだ。

 二〇〇六年十二月一日。中高等部校舎一階の
理事会室前に突然、ハングルで書かれたプラカード
を手にニューカマーのPTA役員ら十数人が現れた。
「民族教育をねじ曲げるな」
「(在日が中心の)理事会は解散しろ」。
声を張り上げる保護者らの周りに「何事か」と
生徒たちが押し寄せた。

韓国政府からの支援金が
 約20%入っている韓国の学校

 授業はすべて韓国語で行うべきで、
 在日のために設けられたクラスは
 中止すべきだ」


韓国から派遣された校長やニューカマー組の
保護者はこう主張した。理事会側は
「日本のカリキュラムに則した
 在日クラスを残さないと
 日本の大学進学に不利になる」

と譲らなかった。
(中略)
「デモをしたニューカマーは
 在日が苦しい時代を経て基盤を築いた
 民族学校だということが分かっていない」
と元理事。

 韓人会の李承/ミン/(イ・スンミン)事務総長
(43)は年配の在日男性から
「君たちの多くは日本語もできないのに
 なぜ日本に来るのか」
と真顔で尋ねられたことが忘れられない。
一部の不法就労者や、武装すり団のような
犯罪を目的に来日する韓国人に話が及ぶと
「われわれは日本に定住しようとしているのに、
 同じ目で見られることすらある」とこぼす。


入管難民法の改正により、〇七年から
日本に入国する外国人に指紋採取と顔写真撮影が
義務化された。
ニューカマーは対象になったが、民団関係者は
「(特別永住者として除外された)在日側から
 反対運動が盛り上がらなかった」
と明かす。

(引用ここまで)



という訳で・・・
まだ、新宿区若松町に有ったという
旧陸軍経理学校跡の木造2階建ての建物が
戦後のいつ頃から、民団中央本部の事務所として
使用されちゃっていたかは解らないが
1954年に、東京韓国学校が設立された経緯は
以上である。

当時の歴史を知る事で
舛添都知事が用意しようとしている
「第2東京韓国学校」の土地に対する
彼の見解が見えてくるのでは?

正しい歴史認識さんのサイトには
『日本外交はなぜ朝鮮半島に弱いのか』
という佐藤勝巳氏の著作と共に
こんな記事が掲載されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/36710289.html
社会党の立会いのもとで、国税庁が
在日朝鮮人商工連合会と交わした
許せない合意は、
「五箇条の御誓文」などとも呼ばれる。



終戦後の混乱から現在まで
日本と朝鮮半島からの住民との間に
一般庶民には計り知れない、様々な裏事情が有り
これが
今の日本社会の混乱に延々と繋がっている。

ただ、解る事は・・・あの地の辿ってきた歴史。

★新宿の戦争遺跡
 http://www.burat.jp/members/writerblog/entry_disp.200609201200-0010077.200610291922-5000116.201112241128-3000014



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Comments 1

弓取り

併合で温情  戦後も温情  今後は逆差別解消で「平等」

在日コリアンの一世たちは、ひとやま当てよう、食い詰めたので日本へ行こうと、密入国も厭わず着の身着のままやってきました。
そして、日本人に日本社会によって、いわれのない差別に・・・!

・・・あってませんでした! 
むしろ、むかしから逆差別レベルで優遇されていたのね。犯罪行為を温情で見逃されるのも優遇だ。

(元手もなにもない密入国者を厚遇する国なんて、世界のどこにもいないね)

差別だのなんだのが本当なら、戦後帰国したはずだし、ニューカマーなんか日本に来るはずないもの。

2014-10-03 (Fri) 00:58 | EDIT | REPLY |   

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