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「最後の残留日本兵、小野盛さん死去」に関するインドネシア現地報道まとめ

★「最後の残留日本兵、
 小野盛さん死去」に関する
 インドネシア現地報道まとめ

 インドネシア人の本音 2014年09月04日
 
http://honnesia.doorblog.jp/archives/39892557.html
  
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 東ジャワ州バトゥの英雄墓地に埋葬された
小野盛と祈りを捧げる現地人参拝者ら。
小野の棺にはインドネシア国旗がかけられ、
国軍兵士らの先導で地元の英雄墓地まで運ばれた。


第2次大戦後、インドネシアに残り対オランダ独立戦争
に参加した元残留日本兵の小野盛(さかり)さん
2014年8月25日朝に亡くなりました。
日本では各種メディアで取り上げられましたが、
現地インドネシアでは小野さんの訃報は
どのように報じられたのでしょうか。
以下に、今回の訃報に関するインドネシアメディアの
報道をまとめました。

   ★ ★ ★ ★ ★

(以下抜粋)
■日本の45年戦争退役軍人、マランで死
 2014年8月25日月曜日13時38分(WIB)
(略)
TEMPO.CO, Malang -
45年戦争の退役軍人、小野盛こと
ラフマット・シゲル・オノ少佐が2014年8月25日
月曜日午前5時50分、
ムハマディヤ・マラン大学病院の集中治療室(ICU)
で亡くなった。95歳だった。
(中略)

小野の遺体は今後、
バトゥの英雄墓地に埋葬される。

アグスによれば、小野の葬儀はマラン県および
バトゥ市/0818軍管区司令官の
アフマッド・ソリヒン中佐に先導されるという。

小野は体調悪化を理由に、
大統領宮殿から招待を受けた
第69回インドネシア独立記念式典

への出席を取りやめていた。
この式典にはスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領や
他の退役軍人数百名も出席していた。

1919年9月26日、小野は日本の富良野で生まれた。
1945年12月、
日本が連合国に無条件降伏した5か月後に
インドネシア軍へ加入した。


1945年から1949年にかけての独立戦争期、
小野は1948年6月に結成されたインドネシア共和国の
エリート部隊のひとつ、日本人特別遊撃部隊
(PGI, Pasukan Gerilja Istimewa)の隊員となった。
この部隊は東ジャワ州ブリタルのウリンギを拠点とし、
部隊長をブン・アリフこと吉住留五郎、
副隊長をアブドゥル・ラフマンこと市来龍夫

が務めていた。

1949年、
日本人特別遊撃部隊は敵軍に遊撃拠点を
知られた後に崩壊。
アブドゥル・ラフマン(市来龍夫)は戦死した。
日本人遊撃部隊はその後 改編され、
パスルアンを本拠とするウントゥン・スロパティ
十八部隊となった。

独立戦争時における小野の英雄的行為は、
1958年にスカルノ大統領から
退役軍人勲章およびゲリラ勲章が
授与されたことが証明している。


ジャカルタの「福祉友の会」がまとめた記録によれば、
インドネシアの兵士らとともに903人の日本兵が
ゲリラ戦に身を投じた。うち531人(59パーセント)が
死亡もしくは行方不明、
324人(36パーセント)がインドネシア国籍を取得、
残る45人(5パーセント)は日本へと帰国した。

2013年10月15日に
「福祉友の会」会長のウマル・ハルトノこと
宮原永治少尉が死去した事で、
小野は日本の45年戦争退役軍人の
最後の一人とみられていた。

Veteran Perang 45 Asal Jepang Meninggal di Malang

  ★ ★ ★  ★ ★

■追悼:インドネシアのために戦った
 日本人、95歳で死去

 『ジャカルタ・ポスト』紙(2014年8月27日水曜日)

 
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インドネシア独立のために戦った存命する
最後の日本兵のひとり、
ラフマット・シゲル・オノが日曜日、
東ジャワ州マランで亡くなった。95歳だった。
(中略)

ラフマットは
1918年9月26日、日本の北海道で生まれた。
独立戦争期にオランダと戦った
日本兵324人のひとりであり

後にインドネシア市民となった。

【訳注】 ラフマット・シゲル・オノこと小野盛は
1919年9月26日生まれ。
また、「福祉友の会」の調査に基づくと、
「オランダ領東インドでは、903人の残留日本兵が
 発生したとされる」という
(林英一『残留日本兵』、33ページ)。

ラフマットは
満州で戦うために20歳で大日本帝国陸軍に入隊し、
1942年に当時 オランダ植民地の一部であった
オランダ領東インド
へ派遣された。


西ジャワ州バンドンでラフマッドはペタ(PETA)
-第2次世界大戦時に
 日本が率いたインドネシア人義勇軍
-の教官となった。
ペタは後に結成されたインドネシア国軍の中核となった。

1945年8月15日に日本が降伏すると、
ラフマットはアブドゥル・ラフマンこと
市来龍夫が率いた
日本人遊撃部隊に参加した。
彼は
東ジャワのスメル山でオランダ軍との戦闘中に、
爆発事故で左腕を失った。


日本のインドネシア占領に関する
 話の全てが真実とは限らない
 と父は話していました。
 多くの日本人が中国人商人と同様、
 現地コミュニティに溶け込んでいたが、
 彼らの行動は労務者(romusha)に関する
 残虐な説明の陰に隠れてしまったのだ、と

とエルは、第2次世界大戦中の強制労働である
インドネシア人の虐待に言及した上で語った。

第2次世界大戦のおよそ10年前からインドネシアで
暮らしていた市来は、後にラフマットが参加すること
になる部隊を結成した。
ラフマットが市来の部隊への加入を決めたのは、
インドネシアを独立させるという約束が
日本の敗北によって反故とされた
ことに
失望を覚えたためだ。

【訳注】 市来龍夫は1928年からスマトラ島
パレンバン、ジャワ島のバンドンおよびバタビア
(現在のジャカルタ)で暮らした。
30年代後半に一度日本へ帰国したが、
1942年の日本軍政の開始に合わせて、軍とともに
再びバタビアへ戻った。
(林英一『東部ジャワの日本人部隊』、第二章)

しかし、
インドネシアのために戦った日本兵の中には
祖国に戻った場合、戦争犯罪に関する裁判に
かけられる者もいただろうと歴史家は指摘する。


「市来さんの家族とはインドネシアで何度かお会いし、
 子供の頃の思い出などたくさんのお話を伺いました。
 当時は友人らに『侵略者の子供』と呼ばれたことも
 あるそうですが、ご家族の皆さんは自分たちの
 父親の行為を誇りに思っていました

とエルは語った。

「市来さんはマランのバトゥで、後に私の母となる
 女性を父に紹介してくれました。
 母ダルカシは地元リンゴ農家出身のジャワ人でした」
とエルは続けた。

1982年に亡くなったダルサキの家族は
ラフマットのインドネシア在留を後押しした。
ラフマットは当時、日本政府からは市民権を
取り上げられ、インドネシア国籍もまだ取得していなかった。

「母の家族は父にリンゴの栽培方法を教えました」
とエルは話した。
「貧しい暮らしではありましたが、両親はどうにか
 日々のやりくりができるようになったといいます」

ラフママットは1951年にインドネシア市民となり、
家族を支えるためにジャワやカリマンタンで
大工、精米業、家禽飼育として働いた。

彼は日本の親類へ自分の爪と髪を送っていたので、
彼らは小野がすでに戦死したものとして考えていた。

【訳注】 小野は1953年にインドネシア国籍への編入と
「独立戦争参加章」を求める上申を行なった。
その結果、1962年6月18日付で、独立戦争参加日に
遡って有効とする国籍所有証明書が正式に下附された。
(林英一『残留日本兵の真実』、298ページ)

「父は2000年に消化器障害の手術を受けています。
 強盗にナイフで刺された傷が原因でした。
 しかし、父は晩年になってもなおリンゴ農園で
 クワを振っていました。本当に働き者でした」
とエルは話した。
ラフマットは1970年、ジャカルタ・タムリン通りの
サリナデパート付近で強盗と格闘し腹部を刺されている。
その当時の刺し傷が原因となった痛みを軽減するための
手術であったという。

ラフマットは最終的に日本の家族と再び連絡を
取るようになった。エルは日本でしばらく働いた際に、
父の親類を訪ねた。
四男の實人(まこと)は老人ホームで暮らしていた。
五男の正人はすでに亡くなっていた。そのため、
「正人さんの娘、ユキ・オノ 【訳注】 がバトゥに
 半年間滞在してくれたことがあります」
とエルは話した。

【訳注】 原文は「Yuki Ono」。漢字等は不明。
(中略)
スルナニによれば、ラフマッドは親類からもらった
模造刀をいたく気に入っていたという。
「父が持っていた本物(の日本刀)は
 戦闘中に紛失したそうですが、
 父はこの刀をインドネシア独立記念日の式典へ
 常に持参していました」

1958年、ラフマッドはスカルノから退役軍人勲章
(the Veteran’s Medal)およびゲリラ勲章
(the Guerrilla Medal)を授与された。
また、ムルデカ(独立)広場で開催される
インドネシア独立記念式典にも毎年招待されていた。

「父は自分の子供たちに、
 平和な生活を送り、戦争を避けるよう
 常に言い聞かせていました」

とスナリは、ラフマットの生前に語った。
イデオロギーや
 アイデンティティの違いによる
 対立はどのようなものであっても
 家族が分離するきっかけとなるだろう、と


In Memoriam: Japanese who fought for Indonesia dies at 95

 
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 この記事は電子版だけではなく、
 2014年8月27日付け『ジャカルタ・ポスト』紙22面
 にも掲載された。
 小野さんの訃報が写真つきで大きく扱われている。

(引用ここまで、
 全文はリンク先で、是非是非お読みください!)



>日本が敗戦を迎えた時、
 小野は祖国への帰国を拒否した。
 彼はインドネシア兵士とともに戦う道を選んだ。
 小野にとって、自身の選択と行動は
 日本の天皇の約束を実現するためのものだった。
 彼は日本が植民地支配者と呼ばれることを
 望んではいなかった。

 小野は自らの選択に全責任を負った。
 全身全霊をかけて戦い抜いた。
 ともに戦った仲間の目には、
 小野は恐れをしならない人物として映ったという。
 彼はまた、インドネシアの独立を守る闘いを
 続ける中で左腕を失った。

http://news.liputan6.com/read/2092170/inilah-tentara-jepang-pembela-indonesia-zaman-perang-dunia-ii

インドネシアのメディアは
小野盛さんについて、この様に報じた・・・



★インドネシア独立戦争
 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/asia-in.htm
 
★インドネシア独立戦争と市来龍夫
 http://www1.kamakuranet.ne.jp/murudeka/index.html
1949年1月3日
インドネシア共和国のジャワ島東部のスメラ山麓の
ジャサリ村にてひとりの日本人が戦死する。 
アブドラ・ラハマン
終戦後もジャワに残留して
インドネシア独立戦争を戦った日本人
市来龍夫であった。

平成十九年九月 カリバタ英雄墓地に墓参する
安倍総理と宮原永治さん
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★残留日本兵のその他証言
 http://www3.nsknet.or.jp/~yoji-yoko/blog/sonota/bandonkaigi.htm



敗戦後、助かった命を、
祖国を捨てインドネシア独立のために
もう一度命を掛けて戦い、
亡くなった元日本兵たちがいる。

一方、
中国やソ連の捕虜収容所で洗脳教育を受け
日本に帰国した元日本兵たちもいる。

★「日本軍は慰安婦を殺して食べた」 
 中韓が「日本戦犯の証言」を報道

厳選!韓国情報 2014年09月04日
 http://gensen2ch.com/archives/12332359.html
【ソウル=ニューシス】文芸性記者=
中国が抗日戦争勝利記念日の3日に前後して
日本慰安婦強制連行など日帝侵略の証拠になる
戦犯自白書を電撃公開し、その中に日本軍が
慰安婦を殺害してその人肉を食べたという
衝撃的な証言が明らかになった。

4日、中国新華網によれば
中国遼寧省社会科学規画基金事務室は
最近公開した8人の生存戦犯自白書にこのような
内容が含まれていた。同機関の研究員が昨年7月、
日本に直接行ってインタビューなど資料を収集し
整理したと伝えられた。

8人の戦犯の中で、石渡毅は日本軍第59師団
54旅団の兵士として参戦し
去る1945年、ソ連軍に逮捕された。
1950年ソ連軍から中国軍に引き渡され
遼寧省撫順戦犯収容所で1956年に赦免され
日本に帰った。

収容所の教化プログラムを通じて
自身の罪を深く反省し、親中要人に変わった。

日本で'帰還者聨合'の常務委員など勤め、
両国交流のために活動してきたことが分かった。

(引用ここまで)


収容所の教化プログラムを通じて
自身の罪を深く反省し、親中要人に変わったか・・・
今は、中帰連の人達を批判する事は
しないでおこう。
捕虜となった彼らが「生きるために」
教化プログラムを受け入れたのも
洗脳を受け入れずに、過酷なシベリアで
戦争で助かった「命」が無残にも殺されて行った
狂気の世界を目の当たりにしての
「生き残る」ための手段だったかもしれない・・・
と、思いたい・・・

小野盛さんがご家族に残した言葉
イデオロギーや
 アイデンティティの違いによる
 対立はどのようなものであっても
 家族が分離するきっかけとなるだろう


本当に、その通り。
小野さんにとっては、多くの元日本兵が
命を掛けて「インドネシア独立」の為に戦い
多くの仲間が亡くなっていった。
しかし、せっかく独立を果たしたこの国は
政治腐敗や1965年9月30日に起きた内戦で
(9月30日事件)で、イデオロギーの違いから
7万8000人とも200万人ともいわれる虐殺があった。
そう、韓国の済州島虐殺事件のように・・・

第1次~第2次世界大戦
あれだけの犠牲者を出しても尚
世界は対立を止めようとはしない。

朝日新聞の罪は
イデオロギーやアイデンティティの違いによる
対立を煽ってきた
という事にある。

★朝日新聞を批判した
 盧泰愚大統領:宮崎哲弥

 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/39739048.html
(略)
1993年の3月に『文藝春秋』で、
当時の韓国の大統領の盧泰愚さんに
浅利慶太さん、劇団四季の浅利慶太さんが
インタビューした記事があって、
これは非常に興味深いのでもういっぺんこれを
読み上げたいと思います。93年3月号です。

つまり、今回の釈明記事の一連の記事が
ずっと91年から92年まで出た、その後の、
直後と言っても過言ではない。
盧泰愚さんがこうおっしゃってます。

慰安婦の問題に関して。
 こうした問題は国民全体、とりわけ
 識者たちの考え方次第だと
 私は思っております。
 例えば先般から挺身隊問題についても


挺身隊問題とここで言ってるわけです。
これは朝日の誤報、
そのまま参照したものだと分かります。

「日本が心から済まなかったと言ってくれれば
 歴史の中に埋もれていくものだと思います。
 ところが実際は日本の言論機関の方が
 この問題を提起し、わが国の国民の
 反日感情を焚き付け
 国民を憤激させてしまいました。

 そうなると韓国の言論も、日本は反省していない、
 と叫び、日本に対して強い態度に出ない政府の
 対応はひどい、と更に感情論で煽ってきます。
 こうした両国の言論のあり方は問題を更に
 複雑にはしても、決してよい方向には導かない
 と私は考えているのです。
 とにかくもっと両国の言論に携わる識者の人々が
 冷静になり、反省し悟らねばならないと
 私は強く思います。」


これ聞いて朝日新聞の幹部たちは
どう思うんですかね。
これ、まさに挺身隊問題みたいな誤用でも
分かるように、
盧泰愚さんは朝日新聞のこと言ってるんですよ。
一部の識者。言論機関。
こんなことで済まされると思っているのか。
盧泰愚さんが既に93年に言ってるわけですよね。
こうして吉田清治証言というのは
世界を駆け巡っていったわけです。
(引用ここまで)



朝日新聞にはしごを外された韓国メディアは
昨日、NHK見解を早々に報道した。

★NHK幹部
 "'済州島で慰安婦強制連行'
  吉田証言偽り"

 イーデイリー 2014-09-04
 http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fnews.naver.com%2Fmain%2Fhome.nhn&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_submit=+%E7%BF%BB+%E8%A8%B3+
朝日新聞が
「済州島で日本軍慰安婦を強制連行した」という
日本人吉田清治(死亡)の証言を扱った記事を
取り消したのと関連して、
NHK幹部も吉田の発言が事実でないという
見解を明らかにした。

4日共同通信によれば
松坂千尋NHK編成局計画管理部長は
「現時点では(吉田の証言内容が)
 事実でないと考えている」
と話した。

NHKは1991年11月日本軍慰安婦被害者が
日本政府を提訴しようとする動きを扱ったニュースで
吉田のインタビューを放映した。
引き続き
1992年2月日帝強制占領期間の朝鮮人強制連行
問題を扱った関西地域報道プログラムでも
吉田の証言を扱った。

松坂部長は
日本政府の見解などの色々な観点に
基づいて吉田の証言を扱ったので
報道内容自らの訂正を考慮していはしない
と付け加えた。


朝日新聞は1992年過去の日本軍が
慰安婦動員に関与したことを見せる文書が
防衛庁傘下図書館で発見されたという内容を
報道するなど日本軍慰安婦問題を早くから
積極的に扱ったし
この過程で
‘2次大戦の時済州島(チェジュド)で
 女性を強制的に引っ張ってきた’
という
日本人吉田の発言も何回も紙面にのせた。

この新聞はしかし最近特集記事で
吉田の証言を色々な面で検討した結果
偽りと判断されるとし関連記事を取り消した。
日本保守・右翼勢力は朝日新聞関係者を
国会に召還して真相を明らかにしなければ
なければならないと主張している。
(引用ここまで)


★吉田氏インタビュー、
 NHKも91年放送 「強制連行」証言

 日本経済新聞 2014/9/4
 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG0403A_V00C14A8CR8000/
(略)
編成局の松坂千尋計画管理部長は
現時点で(証言内容は)事実ではない
 と思っている」とした上で
「同じニュースの中で日本政府の見解など
 さまざまな見方も踏まえて報じており、
 訂正は考えていない」と述べた。



過ちは、きちんと認めるべきだ。
それが、
遠い異国の地で、祖国に帰ることなく亡くなった
多くの日本人に対する責任だ。



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2014-09-05 (Fri) 09:13 | EDIT | REPLY |   

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2015-03-03 (Tue) 09:41 | EDIT | REPLY |   

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