韓流研究室

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台湾、日本統治時代に建設の大観発電所運用80周年で記念式典

★日本統治時代に建設の発電所、
 運用80周年で記念式典/台湾

 フォーカス台湾 2014/07/29 19:04
 
http://japan.cna.com.tw/news/atra/201407290008.aspx

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(台北 29日 中央社)
中部・南投県にある台湾電力大観発電所
今年で営業運転開始80周年を迎え、
29日に同県出身の呉敦義副総統らが参加した
記念式典が行われた。

大観発電所は近隣の日月潭の水を利用して
発電する水力発電所で、
日本統治時代の1918(大正7)年に完成、
1934(昭和9)年に「日月潭第一発電所」として
営業運転を開始した。
5基の発電機が生み出す10万キロワットの出力は、
当時アジア最大を誇り、
台湾で必要とされていた
電力の約70%をまかなったという。


戦後の1985年には大観二廠(第二発電所)が
運用を始めている。

呉副総統は、幼い頃から大観発電所の電力で育ち、
自身が南投県長を務めていた時期に第二発電所が
完成したと話し、
台湾電力の黄重球董事長(会長)は、
1999年の台湾大地震で被災した際、
多くの作業員が早期の復旧に向けて取り組んだ
ことなどを振り返った。

80年間で328億キロワット時の電力を発電したとされる
大観発電所の謝鵬洲所長は、
近代的な機械がなく、交通が不便だった時代に、
過酷な環境を乗り越えて建設された施設を
奇跡的な工事だった
とした上で、
一般市民の生活だけでなく商工業の発展においても
大きな役割を果たしたと長年の活躍を称えた。

(引用ここまで)

台湾の報道
★大觀水力發電廠80廠慶
 吳敦義副總統祝賀

 鉅亨網新聞中心 (來源:中廣新聞網) 2014-07-29
 http://news.cnyes.com/時事/20140729/大觀水力發電廠80廠慶--吳敦義副總統祝賀.shtml



★大觀發電廠
 http://www.tabitabi-taipei.com/topics/20111129/03.php
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大觀發電廠(大観発電所)とは明湖ダムにある
2つの発電所の総称で、
一基は日本統治時代に建造された
慣常水力発電所の大觀一廠
と、
もう一基は抽蓄水力発電所(揚力発電)の
大觀二廠です。
これらの発電用の水は日月潭から引かれており、
その規模はアジアでもトップクラスです。
(中略)
大觀一廠

 大觀一廠は日本統治時代の1918年に着工し、
数々の困難の末1934年に完成した、
旧名「門牌潭発電所(その後日月潭第一発電所に改名)」で、
その規模は当時東洋一を誇りました。
海抜2,400mの日月潭は、この工事により
発電用ダム湖になって水位が上昇し、
現在の地形となりました。
大觀一廠は落差320mの水路5本で5基の発電機を回し、
発電量は110MWで現在でも台湾有数の水力発電所
となっています。
(引用ここまで)



★台湾紀行その8 
 日月潭(じつげつたん)観光

 http://blogs.yahoo.co.jp/yoshii18810801/9549050.html
(引用開始)
湖の周囲は約25kmで水深は約30m、
台湾有数の景勝地である。
日月潭から見る夕日は特に美しいと言われ、
また「双潭秋月(日月潭で見る秋の月)」
台湾八景のひとつに数えられている。
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日本統治時代(1918年)に、
当時台湾総督だった明石元二郎と高木友枝率いる
台湾電力株式会社が水力発電所を建設するため、
台湾で最も長い川である濁水渓から地下導水路で
水を引く計画
を立案した。

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翌年台湾電力株式会社を設立し建設を開始するが、
途中資金不足や関東大震災による影響などで
計画は中断。

1928年に松木幹一郎が台湾電力社長に就任した
ことにより計画が再開され、
1934年6月にダム湖と発電所が竣工した。
その結果、湖面の面積は4.55km²から7.73km²に拡大した。

(引用ここまで)



★日月潭公式ブログ
 ダムの建設

 http://www.sunmoonlake.gov.tw/Japanese/AboutSMLJpa/HistoricalJpa/Historical03Jpa.htm
(引用開始)
■経費不足で一度中止
着工し始めたばかりに、第一次世界大戦に遭って、
世界中の経済が不況で、物価上昇したうえ、
日本は関東大震災が起こって、経済大恐慌に
なってしまった。
この不況の影響で、大正12年(1923年)から
昭和1年(1926年)までの四年間、
中止せざるを得なかった。
この期間に、日本人は何度も工事再開を試みた
できなかった。
日月潭の発電所工事はこの理由で十年あまり
遅れてしまった。

一日も早く日月潭の工事が再開できるように、
昭和4年(1929年)春、日本第56回議会が
資本金を集めるための社債の発行を提案し
日本政府に認められた。

昭和6年(1931年)6月に、外債を成立し、
資本金が集まったので、ようやく昭和6年に工事が
再開された。
建設費用は第一期が28,347,000円、
第二期が40,153,000円、合計68,500,000円
総労働人数が2,544,000人までも達した。



■防疫と保健措置
工事を順調に進めるため、着工前に防疫措置をした。
技師や労働者の人数が多く、そのうえ、工事現場の
環境が高い山にあるため、
病気などにかかりやすいところだった。

中央研究所技師が現地調査来て予防対策を提出した。
工事現場、寮などの草木を切り、蚊や虫などの繁殖が
押さえられ、病気などにかかりにくくなる。


■土地の取得
日月潭の工事で重要なことは、
工事区や集水区の土地を取得することであった。
日月潭辺の住民は
邵族と漢人が170戸、1242人。

漢人は員林田中庄大新、埔里街と國姓郷南港底に
移住させられ、邵族は卜吉、即ち北窟
(台湾が帰還されたからは「徳化社」に変名した)。
買収された土地の面積は151.5807甲で、
土地賠償金は634,337円



★鹿島の軌跡
 第8回 日月潭
 http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki08/index-j.html
(引用開始)
昭和6年10月1日工事開始。
現場は、熱帯雨林で湿気を孕んだ気流が澱む。
マラリア、アミーバ赤痢、ツツガムシなどの被害は
想像以上だった。担架で山を降りる患者が列をなし、
5箇所の病院は患者で一杯になる。

作業員の士気は下がるばかり。
渡邊の頬はこけ、眼光炯炯として苦悩と焦りが見て取れた。
最初の1年で出来高皆無、投資金は100万円(*2)を越した。

そこで渡邊は、
工事を中断して現場の環境整備を決断する。
マラリアを媒介する蚊の根絶のため、周りの山を
三日三晩かけて燃やした。
宿舎付近に草を生やさず、窓は二重網戸。
売店や娯楽設備を完備し、
日本・朝鮮・台湾料理の店を設け

鹿島神社を造営した。
昭和8年1月には医療班9名の直営病院を新たに
2箇所設ける。当時の現場では全て初の試みであった。
第1工区本部のある干卓蕃(かんたばん)には、
木造平屋建ての社宅を8戸作り、家族を呼び寄せた。
作業員宿舎の採光をよくし、金網を張る。
病人も減り、作業員は安定定住するようになる。


工事は急に能率が上がりだした。

(奇跡の工事の様子はリンク先で!)



★戦前台湾の品々
 台湾の株券

 http://www.morishin-web.com/photo/taiwan/taiwan_antique/photo_taiwan_antique.html
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台灣電力株式會社10株券(五百円) 
昭和18年 凸版印刷株式会社印刷 206×263mm

 第7代台湾総督明石元二郎によって設立された
 台湾電力株式会社の株券です。
 日月潭にアジア最大水力発電所を建設、
 その電力によって台湾工業に貢献しました。
 当時の社長であった松木幹一郎は、
 現在の台湾で「台湾電力の父」と称えられています。



★松木幹一郎
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%A8%E5%B9%B9%E4%B8%80%E9%83%8E

★台湾電力の父~松木幹一郎
 http://blogs.yahoo.co.jp/taichu_jp/62336641.html


★松木幹一郎台灣電力社長
 重塑胸像除幕式

 2010年03月10日
 http://pylin.kaishao.idv.tw/?p=2429
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★【台湾レポート】
 台湾電力の父「松木幹一郎」

 メルマガ「遥かなり台湾」より転載
 http://ameblo.jp/gold-eagle/entry-11461900608.html
 (引用開始)
松木社長の逝去後に会社側では
社長の功績を偲び胸像が立てられました。
その碑文には下記のように記されていました。

碑文(原文は旧漢字使用)
「台湾電力株式会社長従四位勲二等松木幹一郎氏ハ
 明治五年愛媛県ニ生レ
 二十九年東京帝国大学ヲ卒業シ、逓信省、鉄道院、
 東京市電気局長、山下汽船会社副社長帝都復興院
 副総裁等ヲ歴テ
 昭和四年十二月台湾電力株式会社長ニ就任シ、
 爾来会社ノ重大使命タル日月潭発電工事ノ完成並ニ
 会社ノ経営発展ニ努メコノ間毎ニ国策ニ順応シテ
 本島文化ノ開発ニ寄与セラレタル功積亦実ニ
 偉大ナルモノアリ
 不幸ニ竪ニ罹リ昭和十四年六月十四日長逝セラル
 社中ノ有志等相図リ胸像ヲ建テ永ク遺徳ヲ景仰ス
                          昭和十五年十月」

このようにしてたてられたこうしてできた胸像も
戦争末期に物資不足から徴収され
台座だけが残されたままだったのです。

今から3年前の平成22年(2010)3月、
実に60余年ぶりに銅像が復活したのです。
その時の様子を東京中日新聞社が
「台湾電力の父 故松木氏60余年ぶり銅像」
と題して下記のように報道しておりました。

「日本統治時代の台湾で発電事業に貢献した
 台湾電力社長松木幹一郎氏(1872~1939)の
 業績をたたえようと、
 戦時中徴用されたとみられる松木氏の銅像が
 多くの台湾人の協力によって60余年ぶりに復活し
 八日松木氏ゆかりの台湾中部、日月潭湖畔で
 披露された。
 松木氏は愛媛県出身。
 29年に台湾電力の社長に就任後、30年代には
 当時はアジア最大の発電量となる水力発電所を
 日月潭に完成させた。
 「この発電所がなければ今の台湾はない
 と語り継がれ、

 松木氏は「台湾電力の父」と言われる。

 同社の技師で、社史も執筆した林炳炎さん(66)によると、
 松木氏の死後の翌1940年、会社が銅像をつくったが、
 物資不足の大戦末期に徴用され、大理石の台座
 だけが残されたままだった。
 林さんは昨年退職したのを機に、
 銅像を復活させて歴史を伝承しようと思いたち、
 若手の芸術家に依頼した。
 資金面では
 著名な実業家、許文龍さん(82)が支えた。

 日月譚は台湾屈指の観光地で、地元ホテルのオーナーは
 PRに務めた、銅像を除幕した林さんら
 「松木氏は歴代社長中でも
  台湾発展の貢献が大きい。
  台湾と日本の密接な感情がより強まる」

 と復活を祝った。

(引用ここまで)



日本人、台湾を拓く。
 ―許文龍氏と胸像の物語

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 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4944235631/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&tag=ritoukijapan-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4944235631
本書は、
台湾の近代を拓いた日本人を知ってほしいと、
世界的に著名な台湾の実業家・許文龍氏が、
自ら製作したりした胸像を
台湾や日本のゆかりの地に寄贈していることを
背景に、その人物たちの伝記を一冊にまとめた
歴史読物である。

人物と胸像を巡る許文龍氏のエッセイに続き、
複数の書き手による伝記により構成されている。
その人物は、
台湾近代化の父・後藤新平、
糖業を発展させた・新渡戸稲造、
近代水道を敷設した・浜野弥四郎、
環境型ダムを生んだ・鳥居信平、
嘉南ダムを築いた・八田與一、
蓬莱米を作った磯永吉と末永仁、
電力利用を広げた・松木幹一郎、
台湾紅茶を育てた・新井耕吉郎、
古都・台南を守った市長・羽鳥又男である




平成22年(2010)3月、
台湾電力会社の元技師で、社史も執筆した
林炳炎さんら多くの台湾の方々が
「台湾電力の父、松木幹一郎」の銅像を再建し
その除幕式に参加した吉岡生朗氏の言葉

「林先生 
 除幕式に参加させて頂き
 有難うございました
 1人の日本人として 林先生はじめ 
 胸像の再建をサボートされた
 多くの台湾の方にとても感激致しました。 
  私は日本の先人の業績を 
 忠実に評価して頂ける台湾の皆様の思いを 
 出来るだけ多くの日本人に伝え 
 台湾と日本の絆が一層強くなるように 
 努力致します。」


日本の国民が、
特亜やサヨク学者・メディアによって
先人達の偉業を歪曲され
「植民地政策の悪行」を洗脳される中
日本人に忘れ去られてしまっている
台湾に貢献した名も無き日本人の功績を
顕彰するために尽力された許文龍氏や林炳炎氏を
はじめとする多くの台湾の皆様、
そして・・・
今回の台湾電力大観発電所営業運転開始80周年
記念式典をお祝いしてくださった呉敦義副総統や
台湾電力大観発電所の皆様に感謝を込めて
私も、一日本人として
日本の先人の業績を 
忠実に評価して頂ける台湾の皆様の思いを 
出来るだけ多くの日本人に伝え続けたいと思います。


台湾の皆様、
本当に、本当に、有難うございます!



因みに、
日韓併合時代の朝鮮半島には
日本人技師たちによって1937年から1944年に建設された
当時世界最大級だった「水豊ダムがあります。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B1%8A%E3%83%80%E3%83%A0
http://dammania.net/?http://dammania.net/else/suihou.html
このダムの建設においても
満州と朝鮮の水没地住民に対して、
鴨緑江水電の補償だけでなく、満州国でも
移住費用と補償金を支払っている。
土地家屋補償費・移住費は当時の金額で610万円。
その内訳は、460万円は土地家屋の補償金、
150万円は「北満」の浜江省、吉林省へ移住希望者への移住費。
水没地内の朝鮮人の中で「北満」への移民を
希望しない300戸の農民は、職場確保のために
付近の鉱山に坑夫として仕事を斡旋しました。

建設反対する水没地住民たちも存在し、
「四割以内の自作農以上層の住民が残っていた。
 彼等は土地家屋問題と債務整理問題で仕方なく
 滞在せざるを得ない事情」があったという。
 下層民が移住費を貰い比較的早く
 移転に合意したのに対し

 自作農以上は移住金額を巡り
 日本側と対立していた。」


日本の左翼学者の
「朝鮮人は農地を奪われ、
 満州に強制移住させられた」
のではなく
当地の6割の小作農民など
土地を持たない下層民は、
移住費用を貰いさっさと移転に合意しているのだ。

移住に反対し、最後まで残留していた朝鮮人約600戸に
対しては、公共工事における強制代執行のように
強引な手法で強制的に、しかし住民と座談会を開き
説得を続けながら土地代金と補償金は
すぐに現金で支払うと確約している。

ダム建設の労働者に対しても、きちんと給与を支払い
労働者の為の娯楽施設や理髪所を設けていたのですが
財団法人「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)
20年間も、
『戦時中の日本での朝鮮人強制労働の証拠写真』として
この水豊ダムの工事現場の写真を展示していました・・・
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1503.html

嘘吐きサヨクと台湾の皆様との、品性の違い
日本人はよ~~く覚えておいてください!


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Comments 2

マザー

80周年とは思えないほど、きれいに整備されてますね。

2014-07-30 (Wed) 00:28 | EDIT | REPLY |   

背水の塵

DVD「日本南進台湾」もお薦めします

シリーズw「こんな統治(朝鮮の言う植民地)があったらいいな」
>水没地住民に対して、移住費用と補償金を支払っている
>移民を希望しない300戸の農民は、職場確保のために付近の鉱山に
坑夫として仕事を斡旋

台湾では:八田與一技師
・烏山頭ダム殉工碑。台湾人、日本人の区別なく亡くなった順に名前が
刻まれている、更に工事期間中に亡くなったその方々の家族の名も。
・1923年、関東大震災が発生。、台湾総督府からダムの建設予算の大幅
カットを言い渡される。「人を減らせ」当然台湾人は覚悟した。
ところが、何と八田が解雇したのは日本人ばかりだった。台湾人工夫は
驚き、なぜ自分たちを優遇して残したのか、その理由を尋ねた。
すると八田はこう答えた。
「当然ですよ。将来このダムを使うのは君たちなんですから」

どう思うよ東インド会社のダッチ、どうなんだよシナよ

2014-07-30 (Wed) 13:35 | EDIT | REPLY |   

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