舛添都知事が韓国で、戦前の父親の在日組織票目当て選挙ビラを自慢!

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★「韓日首脳間に舛添氏という
 対話チャンネル構築したのは成果」

 中央日報日本語版 2014年07月27日12時50分
 
http://japanese.joins.com/article/217/188217.html?servcode=200§code=200
25日に安倍晋三首相のメッセージを携えて
朴槿恵(パク・クネ)大統領と会談した
舛添要一東京都知事は会談直後に
青瓦台関係者とこうした会話をした。

青瓦台側は、
「会談で(韓日首脳会談議論のような)
 特に言及を避けるほどの話は
 まったくなかったので
 すべて話してもかまわないと答えたもの」
と説明した。同関係者は、
「舛添知事が持ってきた安倍首相のメッセージは
 『韓日関係改善のために努力する』
 というひとつだけだった」
とした。

朴大統領が韓国で日本の政治家に会ったのは
1年5カ月ぶりだ。だが、青瓦台は安倍首相が歴史問題
などで態度を変えない状況で
今回の会談が韓国政府の対日外交基調の変化と取られる
可能性を警戒している。
匿名の青瓦台関係者は、
舛添知事は都知事の名札にハングルの名前を
 併記するほど親韓派
で、18年ぶりに訪韓した点から
 朴大統領が会談したもの。
 議題も日本国内の嫌韓デモ中断と
 東京の韓国僑民が推進している第2韓国学校の
 設立支援の2種類だけだった」
と話した。

だが、外交界では朴大統領が久しぶりに
安倍首相と近い日本の政治家に会ったという点自体に
意味を置いている。現在外交部の局長級対話以外には
ほぼ皆無の両国の外交関係が閣僚級・次官級会談に
拡大する可能性を占う見方もある。

(中略)
一方、舛添知事は鄭議長との会談の席で、
「1930年5月に
 福岡県若松市議会議員に
 出馬した父親弥次郎氏が
 広報チラシにハングルの名前を併記し、
 当時福岡に住んでいた
 韓国人の人権改善を公約として提示した

と説明して父親の広報チラシ写真を見せ、
代を継いだ韓国との親密な関係を強調したと
議長室関係者が伝えた。
(中央SUNDAY第385号)



中央SUNDAYの記事を書いた記者は、
舛添要一都知事の父親の逸話を聞いて
自国の歴史認識の誤り
気が付かなかったのだろうか?

韓国の政治家・学者・メディアだけでなく
日本の『良識的日本人』と呼ばれる政治家や
学者やメディアは・・・
長らく(今現在も)、
日韓併合時の朝鮮人は、酷い差別を受け
創始改名で名前を奪われ
ハングル禁止で、言語も文字も奪われ
奴隷のような扱いだった・・・と繰り返してきた。

先日のNHK「ニュースウオッチ9」の
大越健介キャスター
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「在日コリアン1世は強制連行で苦労した」
http://gensen2ch.com/archives/10278497.html
という発言にも代表される歴史認識・・・

今回の中央日報の記事は
それらと大いに矛盾するのでは???



>1930年5月に
 福岡県若松市議会議員に出馬した
 父親弥次郎氏が広報チラシに
 ハングルの名前を併記し、
 当時福岡に住んでいた韓国人の
 人権改善を公約として提示した


広報チラシとは、選挙ポスターやビラの事です。
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舛添弥次郎は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9B%E6%B7%BB%E8%A6%81%E4%B8%80
”戦前鞍手で炭鉱を経営するなど
 様々な事業を手がけ、
 昭和5年の若松市議会選挙に
 立憲民政党陣営から
 立候補したこともあったという。”

戦争で零落したものの、
要一の幼少時は青果店を経営し、
比較的裕福な家庭に育ったが、小学2年の時の火災を
きっかけに父が病臥(要一が中2の時に死去)、
家業も傾き、以後は貧困の中で苦学した。
と、ある

鞍手とは
福岡県鞍手郡のことだろう。



★舛添弥次郎で検索してみた
 http://ameblo.jp/eccentricbear/entry-11748494136.html
そしたらこんなページが・・・
 http://books.google.co.jp/books?id=G9l_NB_uKAwC&pg=PA66&lpg=PA66&dq=%E8%88%9B%E6%B7%BB%E5%BC%A5%E6%AC%A1%E9%83%8E&source=bl&ots=8MzyZ-2z9v&sig=sIwF05bE8A9Zn0JKMHtx5JPDgk4&hl=ja&sa=X&ei=tTjSUt_8NcS3kAXEqIGQDw&ved=0CGgQ6AEwCQ#v=onepage&q&f=true

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 舛添氏の父、弥次郎氏は、炭鉱経営のかたわら、
福岡県若松市(現北九州市若松区)の市議選挙に
立候補した経験を持つという。
写真はそのときの広報ビラだ。
名前の左側を見るとハングルでルビがふられている
ことが分かるだろうか。

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弥次郎氏が立候補したのは昭和五年というから
当時は、在日朝鮮人にも選挙権が与えられていた
事が分かる。
昭和七年(一九三二年)月三日の東京朝日新聞によると
東京府での朝鮮人有権者は4350人だったという。

そこで推進派の有識者らは弥次郎氏のポスターや
このデータを持ち出し、
「戦前でも在日朝鮮人に選挙権が与えられて
 いたのだから、現在も与えられて当然」

と主張し始めたのである。
しかしおかしな話ではないか。
あれほど戦前の日本を暗黒時代がごとく、
非難していた人々が、
今度は、戦前を持ち出してきたのだ。


 しかも不思議だ、
確か若者は、日本政府が朝鮮人から
ハングルを奪ったと習ってきた。

ところがどうだろう。
弥次郎氏のポスターを見ても分かる通り、
ごく普通にハングル文字が使われているではないか。
というのももともと1920年、内務省は、
朝鮮人、台湾人、樺太人にも選挙権を付与する事を
決めていた。ところが当時、朝鮮人でも、日本語を
書けないものが多かった為に、
内務省は、1930年にローマとハングル文字による
投票も有効としていたのだ。

しかも選挙権も被選挙権も付与されていたことも
付け加えておこう。
実は戦前の方が在日朝鮮人の権利が保障されて
いたとしたら、実に皮肉な話ではある。
―――――――――――――<転載終了>



★戦前の在日の参政権
 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuuichidai
金賛汀『異邦人は君が代に乗って
(岩波新書 1985年8月)の120頁に、
猪飼野の住民が増えるにしたがい、
そして彼らにも
日本の選挙権が与えられるとともに、
その選挙の票一票を目当に、
種々の融和団体が発足した。

とあり、以下その当時の状況を記している。

金達寿『わがアリランの歌』
(中公新書 昭和52年6月)の118頁では、
 「金二弼は数字といくつかの漢字が
 やっとわかるだけで、ほとんど文盲に近かった。
 のちに私は、
 そのころは在日朝鮮人にも選挙権があったので、
 市会議員の投票をすることになった彼から、
 誰にしたらいいかと相談されたことがある。

とある。


★在日韓国人の参政権
 http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9
戦前の在日韓国人には参政権があった。
朝鮮の歴史で意外と知られていないのが、
戦前の内地(日本本国内)に住む朝鮮人には
日本人と同じように参政権があったことだ。
1920年の衆議院選挙では、
所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人
選挙権を行使している。
そして1925年には普通選挙法が成立し、
納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられる
ことになった。

(中略)
なお地方議会議員選挙でも
立候補した在日はかなりの数にのぼり、
当選も少なくない。

(続きはリンク先で)


★「在日コリアンと日本社会-
  『公民権』をめぐって」

 http://home.att.ne.jp/wood/akira/ferris/josei_resume_0519.htm
【戦前の在日朝鮮人と参政権】

① 梁泰昊「尼崎市会議員—朴炳仁のこと」
 (『ほるもん文化』3号所収)より:

 1925年の男子普通選挙法(選挙区は日本本土のみ)により、
 1929年の堺市議会議員選挙に初の朝鮮人立候補者を
 出すが落選、その後42年までに立候補者延べ382人
 当選99名

② 松田利彦「衆議院議員選挙と朴春琴」
 (『ほるもん文化』3号所収)より:

 1930年現在、日本人の有権者/人口比が2割に対して、
 在日朝鮮人有権者は8.1%(24,244人)
 「欠格事項」(貧困で公私の救助・扶助の受給者や
 一定住所のない者など
)ゆえか。

(引用ここまで)


炭鉱を経営していた舛添弥次郎は
1930年の若松市市議選挙の立候補に際し
1925年に成立した普通選挙制度を利用して
当時、選挙区に居住していた朝鮮人の票田を得る為
彼らの望む公約で釣って、
当選しようと目論んだということですね。
昔も今も、組織票獲得のためなら何でもやるのか・・・
舛添弥次郎は、見事落選しましたが。

1925年の普通選挙法成立で、朝鮮人には
納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられたが
内地での朝鮮人有権者数が
1930年の人口30万人に対して、8.1&だったのは
貧困で公私の救助・扶助の受給者や一定住所の
ない者などが、有権者として欠落していた!?

はい、そうなんですね。
この当時、内地の朝鮮人の皆様は日本人同様
生活扶助の受給を受ける権利がございました。
彼らが有権者になり得なかったのは
当時の救護法は、
生活扶助に加え、医療、助産、生業、葬祭扶助
などがありましたが、
要保護者は公民権がはく奪されるという規定
設けられていたからです。

また、選挙の権利を行使できなかったのは、
住民登録をせずにいた住所不定者ですね。

密航して出稼ぎに来ていた住所不定者には
投票用紙は渡せませんからねえwww

おやおや、これで差別を受けていたとは・・・

「良識的知識人」とやらのサヨク人権屋さんは
今まで、本当にばかりついてきた事になりますね。


同じような事例は、以前図書館で読んだ
「朝鮮人強制連行」の歴史書で、
九州の炭鉱を事例に出し、麻生炭鉱の労働争議を
非難する文章が記載されていたのだが・・・。
炭鉱事故で重傷を負った朝鮮人炭鉱夫が
病院に長期入院中
労災による治療を途中で打ち切られた
という内容だった。

麻生炭鉱の朝鮮人労働争議では、左翼の活動家達が
「組合」を支援し(というか背後で扇動し)
麻生炭鉱の労務責任者の朝鮮人が警察を呼んだので
暴動に発展するという内容だったと記憶する。

私は驚いた・・・
授業では、強制連行された朝鮮人は
奴隷扱いだったと教わったからだ。
「あれれ?
 朝鮮人労働者は組合にも加入していて
 労働災害補償制度の保険適用されていたのか」


差別が有ったとすれば、
例えば・・・炭鉱での給与は日本人労働者よりも
朝鮮人労働者の方が給料は安かった。
但し、日本語を話すことができる朝鮮人は
『労務管理者』として重用されていました。

大手の炭鉱だけでなく中小炭鉱でも!
そのため、日本語を話せる朝鮮人労務管理者
高給でヘッドハンティングされることもしばしば・・・
恐らく、
日本人炭鉱労働者よりも高給取りだったのでは?

麻生炭鉱の朝鮮人労務管理者は、副業で
炭鉱近くで飲み屋を経営していたそうでして
朝鮮人労働者の為に、半島から出稼ぎにきた
同胞女性達を酌婦として雇っていたそうです。



■戦前の社会保障
 http://www.shougaihokenya.com/senzen/
 (略)
1911年には工場法によって、
使用者の労働者に対する無過失責任主義に
基づく労働災害者補償制度が創設され

1931年に労働者災害扶助法が制定されます。

社会保障はいまでこそ、
当たり前の医療保険制度ですが、
1922年に健康保険法が制定されます。
しかし、自由診療を主張する医師会の反対が大きく、
制度が施行されたのは、1927年と5年後になりました。
法の適用対象者は、
炭鉱及び工場の労働者でした。

そのため、
対象にあたらない農漁村住民や自営業者を
対象とする、国民健康保険法が誕生したのです。
ちなみに国民健康保険制度は、
任意設置・任意加入となっていました。
(引用ここまで)



中央日報さん、
これからも舛添マンセー記事をどんどん書いて
彼の父、舛添弥次郎の選挙広報ビラのエピソード
韓国国民に広めていってくださいねwww

当時の事がよく解りますから!

舛添都知事の行動原理も
父親の弥次郎氏同様に、
参政権を持つ日本国籍を取得した韓国系
組織票狙いでしょうかねぇ。


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