韓流研究室

ARTICLE PAGE

80億円をドブに捨てた「サハリン残留韓国人」への支援

★80億円をドブに捨てた
 「サハリン(樺太)残留韓国人」への支援

 産経新聞 7月13日(日)9時42分配信
 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140713-00000504-san-soci
 産経新聞の連載小説「アキとカズ」は終戦後、
樺太に残され、ソ連(当時)によって、
故郷へ帰ることが許されなくなった人たちを
モデルにしている。

 1990年前後から本格的に、
政治問題、外交問題化した
「サハリン(樺太)残留韓国人問題」
を知っているだろうか?

「戦争中、日本は『4万3千人』もの朝鮮人を
 樺太に『強制連行』して、
 炭鉱などで苛酷な労働に就かせ、
 終戦後は終戦後、日本人だけは樺太から
 引き揚げたのに、朝鮮人は『置き去り』にされた」

として、当事者らが日本政府の責任を問うた問題である。

 もちろん事実ではない。
 とりわけ『』の部分は、
 悪質なウソである。


「自虐的」な日本人国会議員、弁護士、知識人、
メディアがまず、こうした悪質なプロパガンダであおり

野党や韓国政府が飛びつき、
政治問題、外交問題化させてしまったのだ。

(1)連載小説でもたびたび登場するように、
   樺太に渡った朝鮮人は『強制連行』ではない。
   高賃金にひかれて自ら海を渡ったのだ。
   樺太の場合、昭和19年9月から朝鮮人に
   適用された「徴用」もほとんどない。

 なぜならば、そのころになると樺太周辺の制海権が
怪しくなり、島内の炭鉱は閉鎖。
そこで働いていた朝鮮人労働者の多くは、九州などの
炭鉱へ配置転換になっているからだ。


(2)このため、同年6月に2万8千人いた樺太の
   朝鮮人は終戦時には多く見積もっても「1万5千人」
   『4万3千人』という数字は戦後、ソ連が
   現在の北朝鮮地域や大陸から連れてきた
   新たな朝鮮人

  (つまり日本とはまったく無関係)を含めた数字である。

(3)終戦後、朝鮮人だけを樺太に『置き去り』にしたのは
   ソ連である。すでに冷戦下の東西対立が始まっており、
   ソ連は、アメリカ軍政下にある朝鮮半島の南部分
   (現在の韓国)への帰郷を許さなかった。
   日本人が引き揚げた後の樺太経営のための労働力に
   朝鮮人を充てる狙いもあっただろう。
   いずれにせよ、日本は当時、「占領下」にあり、
   米ソ間で昭和21年に結ばれた引き揚げ協定に
   口出しはできなかったのである。


 だが、政治問題、外交問題化したとき、
日本政府は“お家芸”で幕引きを図ろうとする。
事実でもなく、責任もないのに、謝罪し、
「人道的見地」からの支援(つまりカネだ)によって
丸く収めようとした。

 樺太に残されていた朝鮮人が韓国に帰るための
旅費、韓国に永住帰国したときに住む高級アパートの建設。
事情で樺太に残り続ける朝鮮人には、韓国の親類に
面会するための旅費、ホテル機能もついた会館の建設、
移動のためのマイクロバス…。
まさしく、いたれりつくせりの手厚い支援は
膨れに、膨れ上がって現在まで約80億円に上る。


 事実でもなく、責任もないのに、謝罪し、
「人道的見地」からの支援によって
丸く収めようとした-構図

そっくり「慰安婦問題」にもあてはまる。
国民の血税をドブに捨てる
国賊行為に他ならないではないか。

(「アキとカズ」作者、喜多由浩)



関連記事

★「戦後補償」の亡霊にとりつかれた
  日本のサハリン支援

 2007年 04月 05日
 産経新聞特集部次長 喜多由浩
 http://hogetest.exblog.jp/5457386?_s=5ebda26fe28d88aa203d76486cec53d9


★サハリン残留韓国人への追加支援で
 密かに盛り込まれた「3億円」

 外務省のデタラメ「人道」支援はいつまで続く
のか
 2007年 08月 22日
 http://hogetest.exblog.jp/6326682/

★サハリン残留韓国人
 日本の“理由なき支援”

 ぼやきくっくり 2007.06.05
 http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid305.html



当ブログでも、この問題は何回か取り上げている。

「自虐的」な日本人国会議員、弁護士、知識人とは・・・

★日韓戦後処理は不十分だから
 個人賠償したい!by仙石由人

 韓流研究室 2010/07/07
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-533.html


★厚顔韓国政府、サハリン残留韓国人
 帰還事業支援延長を日本政府に要請

 2014-01-21
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2879.html

■サハリン残留韓国人問題
 「政治利用こうして始まった」 
 元支援会会長が指摘

 2010.8.15 19:59
 http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/bd48351bf05b806f4603ced0da0ce1df
 著書を手に、サハリン残留韓国人の
帰還支援運動の実態を語る新井佐和子氏

 菅直人首相が「歴史の事実を直視する」として
10日に発表した首相談話に含まれていた
「在サハリン韓国人支援」は、
かつて仙谷由人官房長官自身がかかわり
国会などでも
「日韓の和解のモデルケース」

言及してきたテーマだ。
だが、産経新聞のインタビューに応じた
元サハリン再会支援会代表の新井佐和子氏(80)は、
仙谷氏の個人的な思い入れの矛盾点を指摘。
逆に新たな問題を引き起こしかねないとの
懸念を示す。(宮下日出男)

ーー仙谷氏の一連の発言をどう受け止めるか

「サハリン韓国人残留問題には
 (仙谷氏の友人で、韓国での対日慰安婦補償
  請求訴訟などを推進してきた)
 高木健一弁護士が深くかかわっていた。
 仙谷氏は高木氏とずっとコンビを組んでいたので
 官房長官就任時から、
 私は戦後補償問題の再燃を懸念していた」

ーー残留韓国人問題は戦後補償の
  代償行為として受け止められてきたが


「この事業はもともと、サハリンから
 昭和33年に日本に帰還した韓国人の
 故朴(パク)魯(ノ)学(ハク)氏が始めたものだ。
 朴氏は現地に残る韓国人に頼まれ、
 帰還支援運動を開始した。
 朴氏はサハリンの同胞たちは
 ソ連に抑留されているとの意識で、
 日本の戦後補償問題とは考えていなかった。
 だが、高木氏らはこれを
 安保闘争の延長の反政府運動として利用し
 韓国人の帰る自由を奪ったのは日本、
 帰国させる責任も日本にあるとした



ーー「韓国人4万3千人がサハリンに
   強制連行されて戦後置き去りにされた」
  との主張もあった


「戦前戦中を通し、
 サハリンは暮らし向きが内地よりよく、
 給料も高かったため、自ら渡ってきた韓国人が
 ほとんどだ。
 『強制的』といえるのは終戦直前に徴用された
 少数だけ。
 『4万3千人』という数字も、
 戦後にソ連の友好国だった北朝鮮から来た
 労働者らが含まれており、根拠はない



ーー日本の責任は

「まったくない。
 日本が帰そうと思っても、
 ソ連が労働力が必要だとして
 帰さなかったのだから。
 ソ連には、韓国と対立していた北朝鮮を
 刺激したくないとの配慮もあった。
 韓国の家族との再会のためにサハリンから
 日本に呼び寄せた韓国人が、韓国大使館で
 『なぜ今まで自分たちを放っていたんだ』
 と訴えたこともある。
 韓国人には韓国政府を批判する人が多かった」



ーー帰還支援運動は、仙谷氏もかつて所属した
  旧社会党が熱心に見えたが


「在サハリン韓国人を家族と再会させ、
 韓国に帰すことが活動の目的なのに、
 彼らはサハリンから韓国人を日本に招く際の
 招請人になることに消極的だった。
 社会党は、すでに活動の道筋がついた段階で
 急に乗り出してきた。
 五十嵐広三元官房長官は朴氏の死去前日に
 病床を突然訪れ、感謝状を贈呈して
 マスコミに取材させるなど政治利用はみえみえ。
 朴氏の妻、故堀江和子氏も活動を横取りされた
 とくやしがっていた



ーー日本政府は首相談話で
  今後もサハリン韓国人支援事業を行うと表明した


打ち切るべきだ。
 本来は韓国とソ連の問題であり、
 日本の役割は両国の国交樹立(1990年)で
 終えている。
 もうサハリンに戦争当時の人はほとんどいない。
 日本の負担で永住帰国者のために
 韓国に建設したアパートには、
 戦後になってサハリンに行った
 北朝鮮人まで入居している



ーーだが、仙谷氏は日韓間の
 「和解」の成功例として何度も引用している


「残された韓国人が気の毒だからといって、
 情緒的に問題を持ち出すのは疑問だ。
 過去に個人的に動いたのは
 それぞれの生き方だから構わないが、
 官房長官として国益を損ずることを
 起こすのはいかがか」

(引用ここまで)



★犠牲者しのび慰霊碑建立へ 
 日本人有志ら稚内に今秋にも

 民団新聞 2004.2.4
 http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=2&newsid=2467
日本の国家総動員政策のもとでサハリン(旧樺太)に
連行され、第2次大戦後も置き去りにされた
韓国人に思いをはせ、犠牲者の霊を慰める
「サハリン残留韓国・朝鮮人慰霊碑」(仮称)が、
日本人有志らで構成される
「サハリン残留韓国・朝鮮人慰霊碑建立委員会」
(共同代表=五十嵐広三元内閣官房長官、
 高木健一弁護士)
の手で
北海道稚内市内に建立されることになった。

 稚内は「強制連行の出発点」ともいうべき
象徴的な場所で、サハリンのユジノサハリンスク
(大泊)港からは約40㌔ほどの距離。
趣旨に賛同した稚内市が稚内公園内の市有地
8平方㍍を無償提供した。
碑文は建立委員会内部で検討し、
秋までには除幕式を執り行いたい意向だ。
建立費用の1000万円は、全額市民からの
募金でまかなう。

 稚内での慰霊碑建立は
日本人妻の同伴者としてサハリンから帰日した
韓国人でつくる樺太帰還在日韓国人会(李羲八会長)が
長年の念願としてきた。
長年にわたる裁判闘争と議員懇の運動
残留韓国人の永住帰国実現のレールを敷いてきた
高木弁護士も
「一つのけじめ。象徴として日本に残したい」と
李会長の思いを支援することにした。

(引用ここまで)

日本人妻の同伴者として
 サハリンから帰日した
 韓国人でつくる
 樺太帰還在日韓国人会
 

おやおや・・・母国には帰らなかったのか・・・

★在留朝鮮人
 http://www.phoenix-c.or.jp/~aoki3818/saharin/korea.html
(略)
 サハリンの人口70万人近いなか、
朝鮮系の人達は約4万人といわれる。(65%が韓国系)。
大陸の各地から移住したり、
北朝鮮から自ら望んできた人達もいる。

3世までの彼らは勤労意欲が高く、自由経済のなかで
経済力を増して、
一般のロシア人よりも生活水準が高いと言われる。
日本語を話すことで、貿易や観光の通訳に引っ張りだこだ。
祖国に望郷の念を抱きながらようやく、
韓国へ永住帰国した人は約300人。

 今なお1000人以上が帰国を希望しているという。
サハリンを訪れる日本人は、歴史の悲劇が生んだ複雑さに接し、
こうした事を2度と起したくないと胸に誓うはずだ。

 余談だが、
サハリンマフィアの主導権を握っているのは
朝鮮系マフィアといわれている。

(ちらっと聞いた話なので定かではない。) 
経済力、言葉、団結力などをもって、実権を握っているようだ。
釧路の貿易商が殺害された時も朝鮮系の男がからみ、
私が車を持ち込んだ時、ユジノまでのガード役も
朝鮮系の若者だった。
通訳の利を生かし、カニ買いつけ用の資金を
数百万円持ち逃げし大陸にドロンした朝鮮人もいた。


 つけ加えるが全部がそうではないことは言うまでもない。
私はサハリンに多くの朝鮮系知人、友人がいて
ずいぶん助けられている。
 フルシチョフ政権末期のロシア化政策に終止符が
打たれたあと、ロシアでの外国語教育が認められたは
1988年。サハリンでは他の外国語と比較し、
韓国語が大ブ-ムになっている。



この問題の根底にあるのは、
韓国人の、
日本やサハリンの炭鉱で働いた人々は
「植民地支配による強制徴用」であるという幻想。
強制徴用であるならば、どうして”家族”
炭鉱を転々とする人達が多く存在したのだろうか?
労働力のみを必要とする強制であるならば
男性だけを連行すれば良いのだけれど・・・

李恢成という作家の、幼少期に過ごしたサハリンの
思い出を綴った小説の内容を見てみると
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AA11472506/AjiaShakaiBunka-Kenkyu_7_1.pdf
朝鮮人である自分の家族が
日本やサハリンに漂流しなければならなかったのは
日本の植民地政策のせいだと言及している。
父親が、毎晩酒を飲んでは、包丁を持って大暴れし
母に、唇が切り裂けられる程の酷い暴力をふるうのも
母が死ぬと今度は長男に殴る蹴るの暴行を働くのも
日本の植民地政策による鬱憤のせいだと・・・
しかし、彼は母親の父との結婚のいきさつについて
祖母の話を聞くと、若く綺麗な母親は奔放な性格
両親は、真面目な男と結婚させようとしたのだが
当時の女達のように「砧をうつ女」にはなりたくないと
一晩かけて親を説得し
「三年ごとに邑に帰って来るからと、
 一人で日本に金儲けに行った。」


しかし、当初の約束と違って
炭鉱で知り合った男に連れられて、九州から北海道
さらに樺太まで行ってしまったと・・・。

彼の自伝的小説でさえ、
強制連行でも強制徴用でもなく
富裕層もいれば最底辺の貧者もいる当時の半島で
日本で金儲けをして貧困から抜け出したい!
という人々が描かれている。
貧しい状況が変わらないのは、日本のせいだと恨む

この李恢成
http://d.hatena.ne.jp/lombardia+bungeitekina/20121002/1349168531
作家となる以前、朝鮮日報や朝鮮総連に属し、
 時の北朝鮮帰国運動に関与していた。

 また北朝鮮の工作員を勧誘する仕事もしていた。
 彼の自伝的な小説「地上生活者」には、
 工作員として韓国の変革と統一運動に従事していたが、
 やがて韓国内の工作線の解体を決意し、
 「『在日』の問題をやっていく」と宣言する人物が出てくる。
 北朝鮮の理想に幻惑され、やがてその夢から醒めると、
 あたかも思想工作の延長のように
 「在日」という問題を手元に手繰り寄せるこの人物は、
 あたかも李恢成その人のように思える。
 ここにも架橋不能な両岸の存在が感じられるのだ。
 拉致に関与した北朝鮮のスパイ、シン・ガンスの
 助命釈放運動をしたのは菅直人や千葉景子であるが、
 李恢成も、同じく北朝鮮のスパイ、ソ・スンの、
 韓国のでっち上げとする助命運動を、井上ひさしや和田春樹
 と共にしている。
 しかしそもそもソ・スンをオルグしたのが実は李恢成だった。
 彼のこのような活動を、文学の外部のものとして
 捨像することは出来ない。”

(引用ここまで)


そもそも、彼らは日韓併合のずっと前から
喰い詰めると、勝手に国境を超えてしまう
中国領だろうがロシア領だろうが、お構いなしに。

★CISの朝鮮人、
 又は儒学者の奇妙なロシア冒険

 ルースキー・ジュルナール 2002年1月9日
 http://www.geocities.jp/intelljp/chosen/zai/cis/koryo.htm
ロシア-ソ連-CISの朝鮮人は、
ソ連崩壊時までにその数が45万人に達した
が、
この規模の全ての少数民族中で、
常に最も目立たなかったようである。
それにも拘らず、朝鮮人は、ロシアで既に長い間
暮らしている唯一の東アジア少数民族である。

その半世紀の歴史に渡って、このある意味で
唯一の民族集団は、
新しい祖国の地に深く根を下ろしたが、
それでもやはり、最終的な祖国とはならなかった。

朝鮮人のロシア移民は、
既に1860年代に始まり、

移民の大部分は、需要によって引き起こされた。
移民の主力は、土地不足と 官僚の税の取立てから
逃れた農民が構成したが、19世紀末からは、
日本人から逃れた政治難民も、移民の中に入った。

ロシアにおいて、朝鮮人移民への態度は、
当初から二面性を有した。
一方で、沿海地方行政府は、朝鮮人が処女地を開墾し
少なからない収穫を取り入れることによって、
食糧問題を解決し、巨大な無人の地方を開拓することを
助けたため、移民を歓迎した。
他方で、当局は、「アジア人」により新たに獲得された
土地の居住が、時と共に、そのアジアの隣国側から
ロシアへの領土要求に対する根拠となることを恐れた。


要するに、朝鮮人移民は、
今の中国人移民とほぼ同様に扱われた。
特にそれ故、つい最近、CISの朝鮮人により発行された
ある新聞において、
「極東に溢れ、そこに落ち着こうとした中国人の専横」
を完全に訴えるサハリンからのルポタージュを読んだとき、
笑わずにはいられなかった。
百年前、ちょうど同じ論調(ほぼ同じ表現でも!)で、
この記事の著者の先祖について紙面に書かれていた。

移民達は、主として、ロシア語とウクライナ語が
異なるのとほぼ同様に、文語のソウル言葉と
強く異なる古い北東(咸鏡)方言で話した。
それ故、彼らの言語がロシアでの長い生活で
「損なわれた」 というCISの朝鮮人中で流布した主張は
正しくない。CISの朝鮮人は、言葉を「損なわず」、
逆に、生まれてこのかたソウル式に話したことがない
自分の祖先の会話を保持した。
例外はサハリンの朝鮮人だが、彼らは、かなり遅く、
1945年になって初めてソ連領土に入った。
20世紀初め、朝鮮系ロシア人の自称
コリョ・サラムも生まれた
(朝鮮自体では、既に数百年間使用されていない
 朝鮮のロシア名の明らかな影響下)。

 1917年までに、ロシアには、
既に約10万人の朝鮮人が居住した上に、
沿海地方では、全住民のほぼ3分の1を構成した
(若干の地区では、90%まで)。

朝鮮人の大部分は、家族を連れて
真剣かつ長期、ロシアに移住した。
移民達は、喜んで洗礼を受け、正教を受け入れ、
ロシア国籍を得ようとした。
少し豊かな朝鮮人は、ロシア語を習い、可能ならば、
子供をロシアの中学校に送ろうとした。
1917年までに、移民の中では、
ロシアの大学の卒業生にも既に出会えた。
しかしながら、
ロシア式に教育されたこれらの朝鮮人は、
総じて閉鎖的に暮らし続けた朝鮮人共同体の非常に
小さな部分を構成した。

 内戦時代、圧倒的多数の朝鮮人は、
ボリシェヴィキを積極的に支持したが、このことは
全く理解される。ボリシェヴィキは、少数民族の
あらゆる差別を終わらせることを約束し、
朝鮮人は、当局がかなり警戒して接した少数民族だった。
ボリシェヴィキは、土地を平等に分けることを欲し、
朝鮮陣中では、土地の小さな農民が優勢だった。

ボリシェヴィキは、世界に火の手を上げ、
帝国主義を葬ることを約束し、
朝鮮は、日本の植民地だった。

最終的に、
極東において、白軍の主要同盟国及び後援国は、
忌まわしい日本人であり、
このことは、赤軍を「敵の敵」、つまり味方にした。

 当初、新政権は、その約束を守ろうとした。
朝鮮農民は、土地を受け取り、地方では、
新しい朝鮮学校が開校され始め
(1930年代初めまでに、250校以上)、
ウスリースクでは、朝鮮人師範学校が活動を始め、
朝鮮劇場と今もアルマ・アタにおいて「高麗日報」の名で
発行され続けている朝鮮紙「先鋒」が設立された。
30年代中盤、ウラジオストクにおいて、当時、一般に
世界唯一の朝鮮高等教育施設だった
(朝鮮自体では、大学での講義は、
 日本語のみで行われた。)
朝鮮教育大学が創設された。
党機関は、
「少数民族」支援の公式方針に従いつつ、
朝鮮系ソビエト人から成る「民族要員」を積極的に
昇進させた。


 あらゆるインターナショナル的なレトリックにも拘らず、
中央当局は、朝鮮人に疑いを持って接し続けた。
当時、朝鮮は日本の植民地で、朝鮮人は、「ほぼ日本人」、
従って、極東におけるソビエト・ロシアの主敵の
潜在的エージェントと受け取られた。
沿国境地区にまとまって居住する朝鮮人は、
当局に不安を引き起こし、
日本との関係悪化につれ増大した。


これらの条件下において、1937年の大惨事、
つまり、当時までにロシアに既に約18万人いた
朝鮮人の強制移住が起こった。

沿国境地区からの全朝鮮人の退去と中央アジアへの
移送に関する決定は、1937年8月21日、
全ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会及び
人民委員会議により採択された
(布告第1428号-326bss)。

ソビエト史で初めて、一定の民族集団への所属
それ自体が、処罰に十分な根拠となった。
加えて、
退去には、1937年基準ですら激烈なテロルが
先行した。弾圧過程において、革命後に抜擢された
党指導者は、ほぼ一人残らず除去され、
1953年のスターリンの死まで、朝鮮人は、
公的な差別を受けたが、その地位は、他の
「弾圧された民族」(ドイツ人、カルムイク人、クリミアの
タタール人)よりも良かった。
(中略)
 移住後、朝鮮人の主力は、
ウズベキスタン及びカザフスタンにいた。
1959年の人口調査のデータによれば、
ウズベキスタンには、全朝鮮系ソビエト人の44.1%が、
カザフスタンには、23.6%が居住していた。

中央アジアで主として米作を専門とした朝鮮人
コルホーズが設立されたため、朝鮮人は、
村々に分散された。
しかしながら、分散は、「純粋な朝鮮人」の大地区が
生まれないことを意図して行われた。

朝鮮人町は、互いにかなり遠く離れ、ウズベク人、
カザフ人、ロシア人の 町中の広大な領域に分散された。
加えて、1937~1938年、朝鮮人師範学校を含めて、
多くの朝鮮文化施設が解散された。


 1945年、朝鮮系ソビエト人の数が、
南サハリンのソ連併合のため急成長した。

その領域には、日本当局により動員秩序で送られた
朝鮮人が働く多数の炭鉱が存在した。
1945年までに、その数は4万人に達した。
朝鮮系ソビエト人の中で、彼らは、非常に独特なグループ
を形成した。その大部分において、サハリンの朝鮮人は、
南部道の出身者で、中央アジアの朝鮮人と異なり、
ソウル訛りで話した。
島の併合後、彼らは、奇妙な状態に置かれた。
自動的に日本国籍を喪失した彼らは、
ソビエト国籍を獲得せず、粘り強い陳情にも拘らず、
簡単には与えられなかった。
彼らの一部は、北朝鮮市民となり
(ちなみに、彼らは決してそこにいたことはなかった。)、
多数は、長い間、「無国籍者」のままで、
島から出るのに特別な許可が要求された。
サハリンの朝鮮人は、1970年後初めて、
ソビエト国籍を受け入れ始めた。
(引用ここまで)



日本のサヨク研究者でさえも、こう指摘している・・・

★ロシア極東の朝鮮人
 -ソビエト民族政策と強制移住-

 岡  奈津子
 http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/45/oka/oka1.html
(略)

(2)国籍問題
ロシア極東に移住して来た朝鮮人にとって、
日本人は祖国の独立を蹂躙した敵であった。
また革命ロシアにとっても、日本は侵略者であった。
ソビエト政権を打倒するための干渉戦争に加わった
諸外国のなかで、日本は最も長期にわたる軍事干渉を
行ったのである。
1918年8月、日本軍はウラジオストクに上陸を開始したが、
20年になって他国が引き揚げたあとも、居留民保護を
名目に極東に居座り続けた。
日本が出兵に執拗にこだわったのは、大陸への勢力拡大
のほかに、極東における朝鮮独立運動の阻止を狙って
いたからでもあった。
日本軍はロシアの革命指導部と朝鮮独立運動に大弾圧
を加え、とくに朝鮮人に対しては、村を襲撃し住民を逮捕し、
民族学校や新聞社を焼き払った。
このときロシア極東の朝鮮人は、日本の侵略に対抗すべく
立ち上がり、またソビエト政権樹立のために闘った(30)。
しかしその一方で、
日本は朝鮮人の村々に親日組織をつくり
富裕な朝鮮人をその会員としたほか、
占領機関や水産業などで朝鮮人を積極的に雇用した。
また沿海州には、日本軍へ物資を納入するため、
朝鮮からたくさんの業者が流れ込んで来た。


これらの朝鮮人たちは
日本人の庇護のもと、ロシア人住民を零落させ、
 ロシア人と朝鮮人のあいだの憎しみを
 極限まで増大させた」
ともいわれている(31)。
日本側に協力する朝鮮人が現れた背景には、
帝政ロシア時代の民族関係が影を落としていた。


極東に移住して来た貧しい朝鮮人農民は、
ロシア人地主の搾取にあえいできた
そのため朝鮮人の一部は

日本人の保護を利用して、
 革命以前にロシア人から受けた
 侮辱、弾圧、はずかしめすべてに対する
 仕返しをしようとした
」のであった
(32)。

日本軍は1922年10月に最終的に撤退し、
極東ではソビエト政権が樹立され、親日組織は消滅した。
しかしその後も
ロシア人と朝鮮人のあいだの緊張した関係は解消されず、
そのことは朝鮮人への国籍付与問題にも影響を及ぼした。
(引用ここまで)



中国朝鮮族といい、朝鮮系ロシア人といい
その流入の歴史は、日本のソレと大して変わらない。
しかも、その後の言動も・・・ほぼ同じ。


日韓併合前から、満州に移住していた人々も同様に
その根底に
「日本人の保護を利用して、
 併合以前に現地国民から受けた
 侮辱、弾圧、はずかしめすべてに対する
 仕返しをしようとした」


勝手に流入してきた民族に、
移住先の国民から受けた”差別”を恨み
その仕返しに日本人の保護を利用した。
日本が敗戦国となるや否や、
次の権力者に取り入り、
今度は日本に仕返しをするために
かつて、自民族を”侮辱、弾圧、はずかしめ”た
宗主国の中国に頼ろう!と企む。

民族の歴史が、このような体質を生むのか・・・
哀しい”性”だなぁ、「恨」ってやつは。



政治 ブログランキングへ
スポンサーサイト

Comments 2

トマト

仙石 高木の悪党だけは絶対許したくない。日本にどれだけの損害を与えたか…それに本当はサハリンの方々他が何を望んでいたか、この悪党たちは全部かきけしたんですよ。本当に生き地獄にいってほしいそれだけです

2014-07-14 (Mon) 14:53 | EDIT | REPLY |   

読み応えあり

朝鮮人女性は救われない

李恢成という作家、この人は芥川賞を受賞してますよね。小説には史実を誤解させるものが多分にあります。要注意ですね。
それにしても、
>>父親が、毎晩酒を飲んでは、包丁を持って大暴れし母に、唇が切り裂けられる程の酷い暴力をふるうのも母が死ぬと今度は長男に殴る蹴るの暴行を働くのも日本の植民地政策による鬱憤のせいだと・・・

この手のいかれた父親像は、他のコリアンの話しでもあります。こんなんじゃ、祖国でも外国でも家庭でも鼻つまみの役立たずでしょう。
そのあげく、どこでも定着も同化もできず、建設的な団結もできず。祖国にも貢献できず。ただ、恨みつらみ。だめだ、これじゃ。

2014-07-15 (Tue) 00:01 | EDIT | REPLY |   

Leave a reply