韓流研究室

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両陛下、「対馬丸」の犠牲者を慰霊

★両陛下
 「対馬丸」の犠牲者を慰霊

 NHK 6月27日 19時48分
 
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140627/k10015548651000.html
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天皇皇后両陛下は、太平洋戦争中、
沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が
アメリカ軍に撃沈されて、
ことしで70年になるのに当たり、
那覇市にある慰霊碑を訪れて
犠牲になった人たちの霊を慰められました。


26日から沖縄県を訪れている両陛下は27日午前、
那覇市にある対馬丸の犠牲者の慰霊碑を訪ねられました。
対馬丸は太平洋戦争中の昭和19年、疎開する学童らを
乗せて沖縄から九州へ向かう途中、アメリカ軍に撃沈され、
確認されただけでも780人の学童を含む
1500人近くが犠牲になりました。
当時、小学生で、疎開中だった両陛下はこの悲劇に
心を寄せ続けていて、撃沈されて70年になることし、
犠牲者の追悼を強く望まれたということです。

両陛下は、遺族の先導で慰霊碑の前までゆっくり進むと、
白い菊の花を供えて拝礼し犠牲者の霊を慰められました。
続いて、対馬丸の悲劇を伝えるため、10年前、
慰霊碑の近くに開館した対馬丸記念館を視察されました。
館内には、犠牲になった学童や引率の教師など318人の
遺影や筆箱、ランドセルなどの遺品が展示されていて、
両陛下は遺族の説明に痛ましそうに耳を傾けられていました。

このあと、両陛下は対馬丸の生存者や遺族ら
15人と懇談されました。
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天皇陛下は、対馬丸が沈没して漂流したあと
漁船に救助された男性に「よく生き抜かれましたね」
と話しかけ、
遺族には「ご家族を亡くされて残念でしたね」とか、
「ご苦労の多い日々を過ごされたでしょう」
などとことばをかけられました。

懇談は予定された時間を大幅に超えて続き、
両陛下は全員と話し終わると、もう一度、一人一人に
「元気でね。ありがとう」などと声をかけて回り、
記念館をあとにされました。

両陛下は、戦後50年に当たる平成7年に
沖縄や広島、長崎などを回り、
戦後60年には太平洋の激戦地サイパンも訪れていて、
戦後70年を翌年に控えた今回の沖縄訪問も、
戦争と向き合い、犠牲者や遺族に心を寄せられる
ものとなりました。
.
■高良理事長「本当にお優しい両陛下」

対馬丸記念館で天皇皇后両陛下を案内した
対馬丸記念会の高良政勝理事長(74)は、
4歳のときに両親と兄弟合わせて11人で対馬丸に乗船し、
高良さんと当時17歳だった姉の2人だけが奇跡的に
助かり、両親など9人が犠牲になりました。
案内を終えたあと高良さんは、両陛下について
「遺族や生存者の方とゆっくりお話をなさったり、
 体験や悩みを聞いてくださったりして、
 本当にお優しい両陛下だなと思いました。
 遺族や生存者1人1人に
 『ご苦労さまでした。
 これからもしっかり生き抜いてください』
 と励ましのことばをかけられていたのが
 印象的でした」
と話していました。
そのうえで
「国策で亡くなった子どもたちなどの慰霊のために、
 天皇皇后両陛下が70年の節目に
 対馬丸記念館を訪ねてくださったことは、
 非常に意義あることだと思います」

と話していました。

■マリア宮城バートラフさん「夢が実現し、うれしい」

両陛下と懇談したマリア宮城バートラフさん(83)は、
中学2年生の時、家族など6人で対馬丸に乗船し、
祖母と弟、それに、いとこを亡くしました。
4日間の漂流の末の生還について著書を出版するなど
していて、6年前、両陛下のお住まいに招かれて、
みずからの体験を語ったこともあります。

今は、夫と共にアメリカに住む宮城さんは、
一時帰国して27日の懇談に臨みました。
懇談では、宮城さんに気付いた皇后さまが
「お話ししてくださいましたよね。
 よく生き抜いてくださいました」と話しかけ、
天皇陛下も「お元気で」と言葉をかけられました。
6年前、両陛下に対馬丸記念館への招待状を
手渡したという宮城さんは、両陛下に訪問のお礼を述べた
ということで、懇談のあと、
「夢だった両陛下の訪問が実現してとてもうれしいです。
 両陛下も必ず訪ねたいとおっしゃっていたので、
 喜んでいらっしゃると思います」と話していました。


■堀川澄子さん「わざわざ訪問されたと聞き感激」

当時小学5年生で、対馬丸とともに海に沈み
翌日救助されたという堀川澄子さん(81)は
「『本当に大変でしたね』とおっしゃっていただきました。
 わざわざ対馬丸の犠牲者の慰霊のために訪問された
 と聞いて、おそれ多いと思うとともに、感激しています」
と話していました。


■上原清さん「子どもたちの魂は安らかに眠れる」

当時小学4年生で、6日間の漂流の末に助かった
という上原清さん(80)は、
「対馬丸の事件を長く後世に伝えたいと話したところ、
 『体に気をつけてお元気で活躍して下さい』と
 言葉をかけていただきました。
 国の象徴である天皇陛下が慰霊碑で拝礼し、
 祈ってくださったので、対馬丸とともに沈んだ
 たくさんの子どもたちの魂は、
 安らかに眠れると思います」と話していました。


■安次富長文さん「遺族として大変喜んでいる」

天皇皇后表陛下と懇談した遺族の1人で、
対馬丸に乗船していた当時8歳の兄が犠牲となった
安次富長文さん(77)は
「両陛下からは『どなたが亡くなられたんですか』
 という質問があり、2歳上の兄が亡くなったと
 お答えしました。
 70年という月日が経過したんですが、
 こういった機会をつくっていただき、
 遺族として大変喜んでいます」と話していました。


■津波古ヒサさん「とても心がこもっていると感じた」

家族11人を失った元ひめゆり学徒の
津波古ヒサさん(86)は
「心に響くように優しく慈しみ深いという印象を受けました。
 『家族11人が犠牲になりました』と伝えると、
 遠慮しがちに『大変でしたね』と言ってくださり、
 とても心がこもっていると感じて、
 ありがたいと思いました」と話していました。


対馬丸とは

対馬丸は大正初期に建造された民間の貨物船で、
太平洋戦争中は旧日本軍に徴用されて軍事輸送に
使われました。
終戦前年の昭和19年7月、本土防衛の重要拠点と
位置づけられていたサイパンが陥落すると、
政府は沖縄での戦闘に備えて、県内の子どもや女性、
それにお年寄りたちを疎開させることを決め、
対馬丸は疎開船としての役割も果たしました。
8月22日、対馬丸は、国民学校の学童などを乗せて
九州に向かっていましたが、鹿児島県の悪石島沖で
アメリカ軍の潜水艦に撃沈され、
確認されただけでも780人の学童を含む
1500人近くが犠牲になりました。


沖縄では、昭和20年3月までの9か月間で、
九州や台湾などにおよそ8万人が疎開しましたが、
のべ187隻の疎開船のうち撃沈されたのは
対馬丸だけでした。
戦争中はかん口令が敷かれ、表だって被害を語ることは
できませんでしたが、戦後、那覇市に慰霊碑が建てられ、
遺族たちが毎年、対馬丸が撃沈された8月22日に
慰霊祭を行ってきました。
平成9年には海底に沈んでいた対馬丸の船体が発見され、
翌年、2回にわたって政府主催の洋上慰霊祭が行われました。
遺族たちは船体の引き上げを求めましたが、
技術的に困難だとの結論が出され、
代わりに10年前、対馬丸の悲劇を伝えるための記念館が
慰霊碑の近くに建設されました。
記念館では、犠牲になった人たちの遺品が展示されているほか、
対馬丸が撃沈された際に生き残った人たちが語り部となって
当時の体験を伝えています。


■沖縄訪問は10回目

天皇陛下は、これまで皇太子として5回、
即位後に4回、皇后さまと沖縄を訪ねられていて、
今回の訪問が10回目です。
最初の訪問は昭和50年。
沖縄国際海洋博覧会の名誉総裁として開会式に
出席されるためでした。
戦後30年を経てもなお県民に複雑な感情が残る
なかでの訪問で、女子学生たちの慰霊碑「ひめゆりの塔」
を訪ねられた際には、訪問に反対する過激派のメンバーが
火炎瓶を投げつける事件が起きました。

昭和62年には、病気療養中のため訪問がかなわなかった
昭和天皇の名代として、沖縄で開かれた国体の開会式に
出席されました。
即位後の平成5年には、全国植樹祭に出席するため
歴代の天皇として初めて沖縄を訪れ、
平成7年にも戦後50年の「慰霊の旅」で
再び沖縄を訪ねられました。
その後も、平成16年には「国立劇場おきなわ」の
記念公演を鑑賞するため、
また、おととし11月には全国豊かな海づくり大会に
出席するため沖縄を訪問されています。

(引用ここまで)


テレビ朝日『報道ステーション』は、
今回の両陛下 の「対馬丸」の犠牲者との
懇談会のニュースを報道した後で

~揺れる犠牲者~とテロップ紹介
「対馬丸」の犠牲者の一人・平良啓子さん
インタビューを放送しました。
 o20120620-平良啓子さん ③

冒頭のナレーションは、主語が無く
『軍に強制的に疎開させられ
 殺された子供達』


そして、平良啓子さんの悲惨な体験談・・・
「(沈没後)いかだを奪い合っていたんですよ。
 掴まる事ができた人は命が助かったけれど
 (沈んで)はい上がって来る事ができない人は
 みんな死んだんです。地獄だった・・・
 誰も助けてくれなかった。
 その光景が思い出されてしまうので
 (両陛下に)会いに行くのは戸惑った。」

と、いうような内容でした。

軍に強制され、殺された子供達というナレーションに
意図的なものを感じ、とても引っ掛かる。
軍の学童疎開(女性や老人を含む)は間違っていた?
だから”殺された”???
対馬丸を撃沈したのは、アメリカの魚雷ですよね。
平良さんのインタビューの間に挿入されたのは
沖縄戦後に
”保護”された子供達と、赤ちゃんを抱く米兵の写真・・・

★学童疎開船「対馬丸」撃沈と
 無制限潜水艦作戦:
 The Tsushimamaru Sunk

 http://www.geocities.jp/torikai007/1945/tushimamaru.html
3.1944年8月23日,那覇を出航し長崎に向かった
学童疎開船対馬丸は,米潜水艦「ボーフィン」に撃沈され,
学童疎開者755名を含む1700名以上が殺された。 

国民学校令第一条
「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ
 国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」
に基づいて教育を受けた沖縄の小学生たちが、
対馬丸で九州に疎開しようとした。
しかし、アメリカ軍は、日本軍の暗号解読に成功しており、
航行する日本の船舶(民間船)、艦船(軍艦)を効果的に
待ち伏せていた。
アメリカ軍は、対馬丸の航行についても、
日本側の無電を傍受し解読翻訳していた。


アメリカ軍は、対馬丸ほか3隻の船舶が、
護衛艦2隻のエスコートされ、
「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する、
 那覇には19日13時到着の予定」
との情報を確認していた。
対馬丸は、那覇から九州鹿児島に向かう途上、
哨戒中のアメリカ海軍潜水艦「ボーフィン」に待ち伏せ、
撃沈された。


1944(昭和19)年8月22日22時すぎ、
疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人
を乗せた学童疎開船対馬丸は、
鹿児島県の悪石島の北西10㎞の地点で、
アメリカ海軍潜水艦「ボーフィン」は魚雷3発を発射、
対馬丸は、11分後に沈没した。
対馬丸の死者は、
学童約 800人を含む1,400人以上である。


1944年8月22日2223,
鹿児島県悪石島の北西10kmで対馬丸撃沈を
成し遂げたのは米潜水艦「ボーンフィッシュ」である。
死亡した疎開者の内訳は,
7才から14才の学童疎開者775名(引率者を含め804名)
一般疎開者569名である。

死亡した学童の在籍国民学校(小学校)は,
那覇207名、甲辰103名 垣花100名などとなっている。
死亡した一般疎開者の出身地域は,
那覇市 143名,名護市108名,読谷村 53名と
本島中南部が多いが,最北部の国頭村22名,離島の
座喜味村2名,粟国村 3名なども判明している。
対馬丸乗員(船員)の死者24名,船舶砲兵の死者21名
を含め,対馬丸撃沈に伴う犠牲者は合計1,418名で,
学童が775名と過半数を占めた。救助されたのは59名。

救助され鹿児島に連れてこられた子供たちは、
上陸すると憲兵隊によって対馬丸遭難のことを
口外しないよう、箝口令がしかれた。

対馬丸は,沖縄から九州あるいは台湾に向けて
住民を運搬した疎開船の一隻であるが、
国民学校(1941年3月以前の小学校)の学童が
過半を占めた。学童だけの疎開船ではないのは
当然だが、乗客・使者に学童の比率が他の撃沈船舶よりも
圧倒的に高い。したがって、
「沖縄県民が「学童」とつけるとより悲劇的に聞こえるだろう」
とか「事実を誇張・歪曲し報道している」というのは誤認である。
対馬丸撃沈は、
親と離れた子供たちが、疎開途上で無残にも殺された
という「学童の悲劇」を伝えるものである。
(引用ここまで)

 tusimamaru.jpg
 http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2012/08/post-79.html
「無線傍受翻訳 対馬丸 1944年8月16日」
 閲覧用資料コード:0000036968

 米潜水艦部隊は、日本軍の暗号解読に成功し、
日本近海を航行する商船、艦船の待ち伏せ攻撃を
強化しました。米軍は日本の海上封鎖に成功し、
沖縄は孤立の度を深めました。
この資料は、米軍が傍受した日本軍の無線の翻訳記録です。

 対馬丸その他の船舶が
「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する」
ことを伝えています。



★対馬丸記念館
 http://www.tsushimamaru.or.jp/index.html
 


★対馬丸事件の悪役は誰?(2)
  日本軍は遭難者を見殺しにしたのか

 木村日向子
 (自由主義史観研究会サイト制作担当)
 http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu8_kimura2.html

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最初に生存者を発見したのは、
佐世保大村飛行場所属の長谷川春一中尉と
鮫島国光少尉とされている。
対馬丸撃沈の翌日、2人が乗ったパトロール機は、
たまたま通常のコースを外れて飛んでいたところ、
漂流している人々を確認。
長谷川中尉らはすぐさま、近海で漁を行っていた
開洋丸と栄徳丸に通信筒で連絡し、
現場へ誘導して救助活動を開始させたのだ。

(興味深い内容ですので
 是非、リンク先へ!)



平良さんのように、対馬丸撃沈事件で
多くの家族を失った生還者やご遺族たちにとって
その悲惨な体験から
「沖縄の人たちは知っている、
 軍隊はけっして
 国民を守ってくれるものでないことを」

と、旧日本軍に、日本に、怒りと憤りを抱き続け
生き抜いてきた犠牲者の方々は多いと思う。

しかし、大きな”敵”を非難する為に
上記サイトに有るような、兵士達の必死の人命救助を
無かった事にはして欲しくないと思う。

対馬松沈没で漂流中に、飢えを凌いだという
飛行機から遭難者のために落とした
小豆ご飯の入った竹筒・・・

”生存者の多くが日本兵に救われて、
 命拾いしたことにも触れておきたい。
 芥川賞作家・大城立裕氏のノンフィクション小説
 『対馬丸』(理論社)には、
 「船員や兵隊と同じイカダに乗りあわせた者が、
  多く生き残ったようでもある」と、述べられている。
 兵隊達は海上における知識や経験も豊富だったため、
 救助を待つ間の安全な過ごし方を指導した。
 寒さに震える子供に腹巻を外して与えたり、
 常に励まし続けたのも彼らだった。

 当時14歳だった島袋善栄さんは、*2
 「自分たちの筏には兵隊が2人乗っていて、
  よく私たちをはげましてくれた。
  眠くなると『ねむってはいかん、ねむると
  流されてしまうぞ』と時々びんたをはった」と証言し、
  彼らが怪我を気遣ったり、生のニンニクをくれたことも
  手記に書いている。

 救助艇の兵隊達も遭難者に優しかった。
 天妃小学校の6年生だった阿波連休子さんは、*2
 「やがて艇にぴったりと横づけにされると、
  縄はしごがおろされた。私はこのとき右足に
  痛みを感じてなにげなく見ると、
  肉がふわっともりあがって傷ついていた。
  それで縄はしごをあがろうとしても痛みで
  動けずにいると、それを見た兵隊さんが
  縄はしごを急いでおりてきて、背負ってくださった
 (…中略…)
  艇にあがると、みんなが歓声をあげて迎えてくれて
  あれこれとせわしく私たちの面倒をみてくださった
  びしょぬれになった衣類は蒸気室で乾かされ、
  頭や顔の傷ついた人たちは手当てをうけた。
  私の足の傷にもていねいにヨーチンをぬって、
  繃帯(ホウタイ)をしてくださった」と、述べている。”

マスコミに登場する、
「極悪非道で冷酷で残忍な日本兵」像とは
まるで違っている・・・

上記サイトの木村日向子さんは
本文で、こう訴えかけている
「私はこの記事を執筆する前に、
 1人でも多くの関係者の体験談を読むように努め、
 彼らが体験した‘地獄’を知れば知るほど
 一部とは言え生存者の方々の主張に反論するのは
 大変心苦しかった。
 辛い体験をされた方が気分を害されるようなことを
 指摘するのは誰もが嫌だろうし、私とて例外ではない。
 それでもこうして筆を取ったのは、
 受けた扱いを理不尽と感じるならば、
 何故に軍部がそうしたのかという理由について
 きちんと考えてほしいと望むからだ。
 また、生存者の方々が平和運動において、
 軍職に就いている方々を十把一絡げにし
 ‘助けてくれない’‘守ってくれない’と
 まことしやかに口にされると、
 例えそれが現在の米軍基地問題等についての
 発言だとしても、世間は対馬丸事件の際にも
 そうだったのだろうと誤解してしまうのだ


 体験談を公の場で話すにあたって、
 昨今の時事問題等に対するご意見を併せて
 述べる権利は何方にもあるが、
 自身の立場と影響力を吟味して、
 こうした誤解が生じないように配慮していただきたい。

 冒頭でご紹介した平良さんが乗っていた筏には、
 兵隊がいなかった。また、前述したように、
 彼女を救ったのは漁師達だった。
 もし平良さんが吉田さんと同じ筏に乗っていたら、
 もし平良さんが軍の船に救助されていたら…

 「軍隊はけっして国民を守ってくれるものでない」と、
 それでも彼女は言うのだろうか?」

平良啓子さんなどの地獄の体験をした
沖縄の犠牲者たちが、
「未来の子供達に、もう二度と
 自分達と同じ体験はさせたくない!」

と切に願うお気持ちは、真実だ。

ただ、
彼らの「怒り」「哀しみ」を利用して
誤解させるような方向へ導く、本土からの運動員・・・
何だかねぇ・・・

天皇・皇后両陛下は
私達がこの悲惨な事件を記憶から消さないよう
犠牲者の皆さんに心を寄せ続けてこられた。
陛下がご自身と同じ年代の子供達が犠牲になった
この対馬丸の事件に長年想いを寄せられ
犠牲者の追悼を強く望まれていたお心を、
平良さんにも、陛下とお会いになって
少しでもご理解いただけたら良かったのにな・・・
と思った次第です。

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Comments 5

介護職

<軍に強制的に疎開させられ殺された子供達

本当にこれっておかしい!
日本軍は戦火から逃れさせるために疎開させ、殺したのはアメリカ軍!

2014-06-28 (Sat) 17:03 | EDIT | REPLY |   

S

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1680.html
>この対馬丸記念館で、ある女性が実際に体験されたお話です。

彼女が一人で見学していたときのことです。館の関係者らしき初老男性ガイドが、5〜6人ほどの男性客を案内しながら入ってきました。展示パネルを指さしながら対馬丸の悲劇を説明していました。

「沖縄からの疎開のための学童を乗せた輸送船の対馬丸は、22時10分に魚雷攻撃を受けました。大爆発を起こした対馬丸は、22時23分頃沈没し、子供たちは海に投げ出されました。皆は救助を求めましたが、対馬丸を護衛するはずの2隻の護衛艦は、黙ってそのまま行ってしまいました。」

ガイドは、ここで言葉を切りました。
そして、その言葉がじわり、と浸透するように、わざと沈黙しました。

客の一人ひとりが、小さな声で言いました。「えっ!見殺しにしたの?ひどいね〜」

ガイドはこの言葉を確認すると、満足したかのように「では次の展示に行きましょう」と移動しようとしました。

傍で聞いていた彼女は、おもわず声をあげました。

「ちょっと待ってください!護衛の艦は、助けたくても助けられない状況だったんじゃないですか?あなたの説明は言葉が足りません。対馬丸は一隻ではなかったはずです。ほかに2隻、護衛すべき船があったことを、説明に入れるべきです!」

ガイドは、ギョッとした顔をしました。客の一人が「そうだったの?それなら、二次被害の可能性もあるね」

彼女は続けて言いました。「護衛の駆逐艦は、700隻以上もの疎開船、輸送船を沖縄から長崎まで送り続けました。唯一、沈められたのが対馬丸です。それ以外の船は命を懸けて護衛しました。ガイドさん、あなたは、あたかも『海軍が見捨てた』、という印象の説明をされましたが、本来、責めるべきは魚雷を撃った潜水艦なのではありませんか?」

ガイドはギロっと彼女を睨んだそうです。けれど、彼女は、そのガイドの眼を見返します。

ガイドは反論できません。そのうち、客が、「そりゃそうだ。敵はアメリカだしな」「残った2隻だけでも守らないとな」

彼女は続けて、事件の9か月前に、二次被害によって生存者の救助にあたるために停止していた護衛艦が襲撃を受けて、せっかく救助した被災者とともに爆死した事件があったことを話しました。ガイドは、バツが悪くなったのか、そそくさと一行を次の展示に移動させていってしまった。

けれど彼女は、すくなくとも、客の2人が正常な反応をしてくれたことに、少しホッとしたといいます。(以下略

2014-06-29 (Sun) 16:16 | EDIT | REPLY |   

白珠

テレビ朝日『報道ステーション』に都合よく利用されたり、
インタビュー内容を切り張りされたりもしてるかも知れないけど、
被害者だからこそ関わった事件の全体像や事実をしっかりと
把握しなきゃならない事を示す、いい例ですよね。

印象操作に加担する加害者側へと、いとも容易く転落してしまうんですから。

2014-06-29 (Sun) 20:49 | EDIT | REPLY |   

白珠

対馬丸記念館HPの内容には、護衛艦についての記述があまり無いんですね。

2014-07-06 (Sun) 00:44 | EDIT | REPLY |   

読者

阿波丸事件も忘れないでください。

阿波丸事件(あわまるじけん)は、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393)」の雷撃により撃沈され、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡した事件。「阿波丸」は日米間の協定で安全航行を保障されていたはずであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2014-08-24 (Sun) 04:33 | EDIT | REPLY |   

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