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韓流研究室

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韓国浮石寺信徒「日本に強奪された証拠は無いが、盗難仏像は我々の物」

浮石寺「日本で盗難に遭った仏像、
浮石寺に戻さなければ」

東亜日報(韓国語)
http://news.donga.com/Culture/3/07/20130130/52694317/1
忠南瑞山の浮石寺(プソクサ)信徒会は30日、
日本で国宝級仏像2点を盗んで国内に搬入しようとした
窃盗団が摘発されたことと関連、
立場を表明しその中で
金銅観音菩薩座像を浮石寺に返してほしいと促した。

信徒会はこの日出した文で
「日本の観音寺が所蔵していた
 金銅観音菩薩座像は腹蔵品の記録を通じて1330年、
 瑞山浮石寺で造成されたことで
 すでに明らかになっている」として
「常に浮石寺信徒らが再び迎えることを
 念願してきた菩薩像」と強調した。

信徒会は
「私たちの魂と精神が込められた文化遺産が
 (日本によって)不当に強奪され
 そんな不当に行った遺物が
 再び戻らない現実が残念だ

として
私たちが盗難に遭ったり、
 奪われたことを証明するのではなく、
 日本が正当に取得したことを
 証明しなければならない

と主張した。

浮石寺と信徒会は以後、正式に文化財庁などに
金銅観音菩薩座像の還収を要求するなど
公式対応する方針だ。


はいはい、何が何でも
盗んだ仏像を返還しない方策を練っていますね。
彼らが「日本が盗んだ」と仮定しているのがコチラ

★<対馬の仏像窃盗>
 倭寇の侵略が深刻だった地域…
 略奪品だった可能性も

 中央日報 2013年01月30日09時58分
 http://japanese.joins.com/article/615/167615.html?servcode=A00§code=A10
文化財窃盗団が日本・対馬から盗んできた
新羅・高麗仏像は、韓国国内に残っていれば
国宝に指定されるほど価値が高い作品だと、
専門家は評価している。
仏像2点の価値を金額に換算すれば
数百億ウォンにのぼると推定される。

海神神社に保管されていた高さ45センチの
銅造如来立像は、統一新羅時代の8世紀に
韓半島で作られたと推定される。
当時流行した如来立像の中でも秀作であるうえ、
保存状態がよい。
いつ、どのような理由で日本に渡ったかは不明だが、
1974年に日本で重要文化財に指定されている。
重要文化財は韓国の宝物に該当する等級だ。
当時、日本国内で1億円と鑑定されたという。

仏像専門家である東亜大博物館の
チョン・ウンウ館長(56、女性)は
「ボリューム感があり、法衣のしわがよく表現された
 8世紀統一新羅時代の仏像の典型的な姿をしながらも、
 同じ時期の他の仏像(高さ20-30センチ)より
 大きいのが特徴」と説明した。

観音寺にあった金銅観音菩薩座像(高さ60センチ)は
制作年代と場所が分かっている。
仏像を作る際に内部に入れておいた発願文に、
高麗末の1330年に瑞山浮石寺で制作されたことが
明記されているからだ。
この仏像は長崎県指定の有形文化財に登録されている。

チョン館長は
「似た時期の仏像のうち年代が正確に分かった仏像は、
 1333年に作られて、現在は国立中央博物館に
 保管されている銅造菩薩立像2点など
 数えるほどしかない
とし
「身体の表現など作品性が優れ、対馬に残っている
 韓国の仏像の中では最高レベルの作品」と評価した。

両仏像は盗まれるまで、普段は一般人が接近するのが
容易でないところに保管されていた。
ファン・ベクヒョン対馬研究院理事長(63)は
「銅造如来立像は海神神社境内の左側の
 2つの鉄門を通過しなければ入れない
 宝物庫に所蔵されていた。
 観音菩薩座像は観音寺本殿にあったが、
 普段は施錠されていて一般人が簡単には
 見ることができなかった遺物」
と話した。

これら仏像が韓国から日本に伝来したのか、
それとも略奪または取引で搬出されたのか、
正確な経路は確認されていない。

ファン理事長は伝来の可能性が高いとみている。
ファン理事長は
過去、対馬は韓半島と往来が多かったが、
 僧侶が護身仏または布教を目的に
 仏像を渡した可能性がある
と話した。

これに対しチョン館長は
「観音菩薩座像が作られた年代は1330年だが、
 20年後から外敵の侵略が本格化した」
とし
「瑞山などは倭寇の侵略が
 激しかった地域の一つで、
 略奪の可能性も排除できない」

と述べた。


盗難された金銅観音菩薩座像が
1330年に瑞山浮石寺で造られたのは事実である。
像内から発見された結縁文に、高麗国瑞州浮石寺の
名があり、天暦3年(元徳2年 1330年)2月に
戒真ら三十数名の発願によって造立されたことが
記録されている。
http://nagasaki-tabinet.com/guide/850/

瑞山などは倭寇の侵略が激しかった地域の一つ
というのも事実だ。
但し・・・
★貿易と倭寇と通信使
 http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/history_2.htm
2.倭寇とその原因
『高麗史』の1223年(高宗10年)夏5月23日条に
「倭寇金州」とあり、これは「倭、金州を寇す」と読むが、
以来「倭寇・・・・・」の記述がしばしば見え、
”倭寇”という句が熟語となる。

倭寇とは、倭(日本)の海賊という意で、
14世紀後半(日本史では南北朝、高麗史では王朝末期)に
最も大規模な倭寇が頻発している。
この倭寇発生の原因として田中建夫氏(東京大学名誉教授、
倭寇研究の第一人者)は、
   
 第一に、
 高麗と対馬の間にあった通交関係が断絶したこと。 
 第二に、
 文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)、
 二度の元寇を経過して、日本人の対外認識が変わったこと。
 第三に、高麗の弱体化。 
などを挙げている。
   
 要するに、正規の貿易が断絶すると、
密貿易が行われる。政治が乱れ、治安が悪くなると
賊が横行する。
これは歴史が繰り返したことである。
14世紀後半は、日本では南北朝の争乱で
賊を取り締まることもなく、
高麗も末期的状況にあえいでいた。
倭寇というなかに、
日本の悪徒より
高麗の窮民が多くいた
ことも
『高麗史』に記している。


 1392年、日本では南北朝の合一なり、
朝鮮半島にも新しい国(朝鮮王朝)が建ち、
この両国が国交を開いた時、正規の貿易が復活した。
(以下略)

★「高麗史」を読めば
 朝鮮半島の倭寇をエスカレートさせた
 原因がよくわかる~~倭寇2

 http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/145/
中国の正史である『明史』には明が興こった
(1368年) 頃に、
地方の有力者で明に服さぬ者たちが
 日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて

 しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」

と記述されている。
『明史』なので「山東地区」だけが書かれているが、
この時期の倭寇は対馬・壱岐を拠点とし、
山東地区や朝鮮半島に出没していた。

倭寇の回数が激増するのがこの時期であるから、
元の末期あたりから中国人が相当数関与していた
ことが『明史』の記述から推察されるが、
それまでは日本人が主体と考えて良いのだと思う。

倭寇の初期には、元寇に際して元軍とその支配下にあった
高麗軍によって家族を虐殺され奴隷にされた
対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民がかなりいて、
「三島倭寇」と総称された
そうだ。
「三島」とは対馬・壱岐・松浦のことを指していたと
言われているが、この「三島」の住民と、
この地域に亡命してきた中国人とが手を組んだことも
考えられるのだ。
(略)
何度も住民を虐殺され、拉致された対馬・壱岐の
人々にとっては死活問題であったろう。
(中略)
次の文章は「倭寇」という言葉を
最初に使った、『高麗史』の記述である。
「忠定王二年(1350)」二月、
 倭、固城・竹林・巨済に寇す。
 合浦千戸の崔禅と、都領の梁琯等、
 戦いて之を破り、三百余級を斬獲す。
 倭寇の侵すは、此れより始まる。」(同上書p.200)
ここに書かれている通り、この年以降、
倭寇の襲来が広域的・連続的かつ大規模となるのである。
初期の倭寇の手口は
家や船に火を付けて食糧などを奪い去る
というものであった。船に火をつける行為は、
当面日本に攻めて来させないための措置だと
考えられている。

『高麗史』のこの頃の記述を読んで、
初期の倭寇が重武装していたとは
とても思えないのだが、
高麗側からすれば、いつ、どこに現れるか
わからない敵に対して準備することは容易ではなく、
倭寇にかなり手を焼いていた。
そこで高麗側は、倭寇の本拠地である
対馬や壱岐を攻めてその勢力を根絶させようと考えた。

『高麗史』に次のような記述がある。(鄭地列伝)
「…近ごろ、中国は征倭を声言す。
 若し我が境に並(あつま)り、戦艦を分泊すれば、
 則ちただ支待すること艱しと為すのみに非ず、
 亦た我が虚実を覘(うかが)うを恐る。
 倭は国を挙げて盗を為すに非ず。
 其の叛民は、対馬・一岐(壱岐)の諸島に拠り…。
 若し…先に、諸島を攻め、その巣窟を覆し、
 また日本に移書して尽く漏賊を刷(はら)い、
 之をして帰順せしむれば、
 即ち倭患は以て永く除かるべし。
 中国の兵も亦た由りて至ることなし。…」
 (岩波文庫『高麗史日本伝(下)』111)

この記述にあるとおり、中国の「征倭」の申し出を
受け入れれば、高麗に中国の戦艦が駐留し、
その接待やら費用負担が大変である

日本は国を挙げて盗みを働いているのではないので、
倭寇の拠点を叩けばその原因を断つことが出来る
との考えだ。
高麗は倭寇を撃退するのに中国の力を借りる気は
なかったようだ。


何度も倭寇との衝突があり、何度も倭寇の勢力は
半島で人や食糧を奪い、あるいは高麗の勢力に
斬られたり捕虜にされたりしている。その繰り返しだ。

しかし『高麗史』を読み進むと、
少なくとも倭寇は1375年までは
高麗人を殺していなかったことが明記されている
のに驚いた。
一方で高麗人はそれまでに何人も倭人を殺す記述が
あるのにもかかわらずである。
では、この1375年にどのような事件があったのか。

この年に高麗は全羅道の金先致という武官に対し、
倭寇の藤経光という人物に食事をふるまって毒殺せよ
と命じたのだが、その謀が途中で見破られてしまい
藤経光に逃げられてしまう。
この事件が倭寇のメンバーを激怒させてしまった。

『高麗史』には、これ以降の倭寇は半島に来るたびに
殺戮を繰り返すことになったと記述されている。
「此れより前、倭の州都に寇するに、人畜を殺さず。
 是より入寇する毎に、婦女・嬰孩すら屠殺して
 遺(のこ)すなし。」(同上書p.121)
そのために、全羅道・楊広道・慶尚道の3道沿岸地帯
の人々は沿岸を離れて仮住まいし、
村々は荒廃して「粛然一空」*となってしまった、
とも書かれている。(*がらんとして何もないさま。)

さらに1389年には、高麗は戦艦百艘で
倭寇の拠点であった対馬を攻撃している。
「…倭船三百艘、及び傍岸の盧舎を焼きて殆ど尽く。
 元帥の金宗衍・崔七夕・朴子安等継ぎて至り、
 本国の被虜男女百余人を捜して以て還る。…」(同上書p157)

14世紀後半の『高麗史』は、このような記録ばかりだが、
要するに元寇以降対馬や壱岐を中心とする人々と
高麗とが相互に復讐行為を繰り返していただけの
ことではないのか、という印象を持った。
また、これほどまでに倭寇をエスカレートさせた
原因はどちらにあったのかというと、
高麗側の方に多かったようにも思える。


文永の役で対馬や壱岐の多くの人々を虐殺し、
若い男女を拉致して持ち帰り
高麗王に献上したことからすべてが始まり

当初の倭は偵察行為を行った程度だったが、
最初に多くの人を斬殺したり、リーダーを饗応する
と見せかけて毒殺しようとしたのも高麗側である。
これらはすべて高麗の正史である
『高麗史』に書かれていることなのである。


高麗は倭寇が原因で国力を弱め1392年に李成桂に
滅ぼされることになるのだが、
その後の倭寇のメンバーについては、
朝鮮人の割合が圧倒的となっていた
という記録が残っている。

朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷
二十八(1446年丙寅)十月壬戌条(10月 28日 (壬戌))には、

「臣聞前朝之季、 倭寇興行、 民不聊生、
 然其間倭人不過一二、而本國之民、 假著倭服、
 成黨作亂、 是亦鑑也。」

とあり、
真倭は一割、二割にすぎず、
残りは我が国の賎民である

と記述されている。

「朝鮮王朝実録」は韓国の歴史書で、
世界遺産にも登録されている書物で、
そこに15世紀の半ばには
倭寇の構成員のうち
日本人は二割程度で、
残りの八割は李氏朝鮮国の賎民だと
明確に書かれている事実は重要である。

同じ「倭寇」という呼び名でありながら、
途中で日本人中心の集団から
自国民中心の集団に
変質していたのだ。

高麗時代についても、高麗の反政府勢力が
倭寇の中心メンバーであったという説もあるが、
その説も一理あると考えている。

こういう史実を知ると、次のような日本史教科書の
「倭寇」の記述に
(略)
李成桂は倭寇を撃退した英雄扱いだし、
倭寇は日本人ばかりであったような印象を持って
しまう
人が大半だと思うのだが、
なぜ日本の教科書はこのような書き方に
なるのだろうか。
高麗や李氏朝鮮の正史で、明らかに自国に不利な事を
書いている部分を見落としてしまっては、
歴史の真実が見えてくるとは到底思えないのだ。



『高麗史』の高麗末期には、倭寇の侵略の事例が
500回前後の記述があるのだそうだ。
それらは沿岸に集中している事も解る。

西暦677年に建立されたという浮石寺は、
忠清南道瑞山島飛山の麓にある。
瑞山市内から車で30分ほど掛かるそうだ。
http://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%BF%A0%E6%B8%85%E5%8D%97%E9%81%93%E7%91%9E%E5%B1%B1%E5%B3%B6%E9%A3%9B%E5%B1%B1&rls=com.microsoft:ja:IE-ContextMenu&oe=UTF-8&rlz=1I7SNJA_jaJP420&redir_esc=&um=1&hl=ja&biw=1431&bih=818&ie=UTF-8&sa=N&tab=il
山門の入り口から、山の斜面に沿って登って
ようやく本堂の代わりの「極楽殿」にたどり着く。
http://cocoa051.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17

初期倭寇である
高麗軍によって家族を虐殺され奴隷にされた
対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民で
構成されていた「三島倭寇」
見つかれば即刻虐殺されていたのだから
リスクを冒してまで、山の上の寺まで登り
高さ45センチの仏像を盗む事をしただろうか?

では、新羅や統一新羅はどうだろう?

★海賊・倭寇の起源を探る
 http://dennoubunko.iobb.net/blogn-rekisi/blognplus/index.php?e=174
百済は、その建国以来、何度も新羅に侵略されていました。
新羅の本拠地は、丘陵地帯で食物が不足していたのでしょう。
土地が余っていた日本とは違い、大陸から次々と移民して
くるのに従って、新羅は食糧問題に直面します。
それが、農地の多い百済への侵略だったのでしょう。
7世紀の統一後は、半島の政情も安定したかのように
見えましたが、9世紀にもなると寒冷期が訪れ、
地球規模で飢饉や疫病が蔓延していたのは事実です。
統一新羅では国政に失敗して民が飢え、
山賊に首都が荒らされるようになったことは、
三国史記にも記載されています。

(中略)
貧窮した新羅の政情不安の余波は、日本にも到達しました。
東アジアにおける“海賊文化”の始まりです。
以下、日本に残る記録から抜粋しました。

弘仁四年(813年)、新羅の賊1100人が平戸に来寇し、
9人を殺して100人余りを連れ去った

貞観十一年(871年)5月22日夜、新羅の船2隻が
博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走した

貞観十五年(873年) 朝廷は、出雲、石見、隠岐等国に
命令を下して、新羅の賊行為に備え、警戒を固くさせる

元慶四年 (880年) 但馬国に新羅の不審船が出没し、
但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐国等に、
改めて厳戒令が敷かれる

寛平五年(893年)5月には肥前松浦郡、閏5月には
肥後飽田郡に来寇した

寛平六年(894年)6月、新羅から賊2500人が45隻の船で
対馬に来襲し、文室善友らが士卒100人を率いて
防戦にあたった。のみならず、これに加えて
島分寺の僧・面均など島民も戦闘に参加した。
合戦には、賊302を射殺して勝利した

侵攻の発端は、捕虜が言うには
「人民辛苦、倉庫悉空、王城不安、
 然王仰為取穀絹、飛帆参集」

(新羅民衆が飢えで苦しんでおり、
 倉庫には何もない。
 王城は不穏になっており、
 王が穀物を奪ってくるよう命令した。
 だから帆を上げて集まったのだ
)

と、財政の窮迫によって、王が命令したことを
述べています(『扶桑略記』)。
事実ならば、国家の政策による
日本への侵略であり、非常に忌々しきことです。

(中略)
押し寄せる半島からの度重なる侵略に怒り、
土地を荒されて貧窮した対馬や松浦の人々は、
後に倭寇とも呼ばれる海賊行為を行ったのでしょう。
この起源が、9世紀にあったのです。


★嘉靖以前の倭寇たち
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/izen.html
朝鮮半島を襲った倭寇達が騎馬隊を擁していたこと、
そして「阿只抜都」という名にモンゴル語の響きが
あることが挙げられます。
当時、朝鮮の南に浮かんでいる済州島(チェジュド)には
元に支配された時代の牧場があったと言われ、
どうもここの住民がこの時期の倭寇に大きく
関わっているらしいのです。
その後の「倭人」の中には明らかに現在の感覚では
朝鮮人に分類される人々が数多く見いだされます。
(中略)
「倭寇」を語るときに注意して欲しいことは、
その中に出てくる「日本人」「朝鮮人」「中国人」
という言葉を現代の国家・民族の感覚でとらえては
いけないということです。
前近代では国家や民族なんてのはかなり曖昧なもの
だったはずです。だからこそ「倭寇」という
日本人も朝鮮人も中国人も、はては西洋人まで加わった
ゴチャゴチャな「無国籍集団」
が出現したわけです


さて、日本人どころか倭寇が
「忠南瑞山の浮石寺」を襲撃したとか
寺の宝物を強奪したという記載がないことは
今まで韓国が古文書の記述を元に
返還の正当性を訴えていないことから推測できる。
1995年に、この金銅観音菩薩座像が
今回と同様に韓国人窃盗団に盗まれた際も
日本の返還請求に韓国政府は応じているのである!

日本によって奪われた証拠がないから
日本が正当に入手した証拠を出せ
と言っているのです。


http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_6_1.jsp?gotoPage=&category=&areaCode=&recommCid=274468&cid=1136330
 瑞山浮石寺は、 慶尚北道栄州にある同じ寺名の
 浮石寺ほど有名ではありません。
 規模が小さく、歴史的記録は多くありません。

>(日本によって)不当に強奪
と、大ウソをついても欲しい仏像。
例え、浮石寺にあった仏像であっても
強奪された記録がない以上
韓国窃盗団に不当に盗まれた仏像は
日本に帰しなさい。


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kakusan kibou

国宝・朝鮮鐘、韓国側の返還要求に神社困惑

韓国の市民団体から返還を求められている国宝の朝鮮鐘(福井県敦賀市の常宮神社で) 豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に日本に持ち込まれたとされる福井県敦賀市の常宮(じょうぐう)神社の釣り鐘「朝鮮鐘(ちょうせんしょう)」(国宝)が、韓国の市民団体から返還を求められている。

 朝鮮半島由来の文化財の返還請求はこれまでにもあるが、戦前の日本統治時代に移された文物が大半。国宝が対象になるのも異例で、困惑する神社側は「国の宝なので国が問題を解決してほしい」と望んでいる。

 鐘は青銅製で、高さ112センチ、口径67センチ、重さ337キロ。銘文には新羅時代の833年に鋳造されたことや、所有した「蓮池寺」の名がある。文禄の役(1592~93年)の後の1597年(慶長2年)に敦賀城主・大谷吉継が奉納したと伝えられる。1952年に「国内で最古の朝鮮鐘」として国宝に指定された。

 神社によると、5年ほど前から、返還を求める韓国人が訪れて、鐘の前で泣いて訴えるようになり、神社は一般公開をやめた。

 昨年3月には、かつて蓮池寺のあった晋州(チンジュ)市の市長を名誉団長とする市民団体の約30人が来訪。「貴社の真心で保存されたことは幸い」「速やかな返還を」などとの返還要求書を宮本民雄宮司に示した。宮本宮司は受け取りを拒んだが、写しを置いていったという。

 その後、市民団体の働きかけはないものの、共同代表は読売新聞の取材に「すぐに返してもらえるとは考えていない。日本の学者や政治家らにも考えを説明する」と回答している。

 宮本宮司は「代々守ってきた地域の宝で、返還には応じられない」と話す。文化庁美術学芸課も「国宝の国外持ち出しは文化財保護法で禁じられている」との考えを示す一方で、「民間同士の話には入れない」として、市民団体に国が対応することには否定的だ。

(2013年1月31日15時35分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130131-OYT1T00916.htm?from=blist

2013-01-31 (Thu) 22:05 | EDIT | REPLY |   

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