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韓国考古学学会、5世紀墓発掘したら日本独自スタイルでアイゴー!

5世紀墓発掘、日本スタイル見えて…
学界意見入り乱れ

コンシューマータイムズ(韓国語) 2012.11.27
http://www.cstimes.com/news/articleView.html?idxno=85117

85117_71227_3617.jpg


5世紀の墓発掘、
日本スタイルが見えて…学界の意見入り乱れ

5世紀の墓発掘のニュースが話題だ。

国立羅州(ナジュ)文化財研究所は
5世紀前半の墓と見られる文化財資料第218号
‘高興(コフン)野幕里 (ヤマンニ)野幕(ヤマク)古墳’
発掘調査に関して、去る26日、明らかにした。

文化財庁国立羅州文化財研究所は27日午後2時、
高興郡豊陽面(プンヤンミョン)で
全羅南道(チョルラナムド)文化財資料第218号
‘高興 野幕里 野幕古墳’の現場説明会を開催する予定だ。

野幕古墳は独立した丘陵に1基だけ造営される位置づけの
独自性と墳丘表面に石を敷いて仕上げる
墓の形式の‘葺石施設’で作った。
葺石施設
日本で古墳時代(3世紀後半から7世紀末)に
普遍的に現れる墓の形式だ。


野幕古墳は2006年発掘された高興・吉頭里(キルドゥリ)
雁洞(アンドン)古墳のように
沿岸航路を通行した
交易主導者の勢力の様相を
調べることができる
重要な資料だ。
特に日本的要素が目立って
学界の論議が予想される。


5世紀の墓発掘のニュースに接したネチズンらは
「5世紀の墓発掘、
 その時から日本と交流があったのか?」、
「5世紀の墓発掘、
 どんな分析が出てくるのか気になる」

等の反応を見せた。


★全南高興郡・野幕古墳 
 古代日本の古墳と類似の形式を
 見せていることが判明
 2012-11-26 22:54:48
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/2d51b0db75595c9fbede431cc69b85ad
 全南道は26日、国立羅州文化財研究所が
調査した文化財史料第218号(2001.09.27指定)
「高興 野幕里 野幕古墳」
(고흥 야막리 야막고분、
 全南高興郡豊陽面野墓里 461-4)は、
古代日本の古墳と類似の形式を見せたことが
分かったと発表した。

 野幕古墳は西南海岸一帯の古代沿岸航路で
確認されている倭系石室を採用した古墳

同じ形態を見せ、墳丘表面に葺石を敷いていた。

 出土遺物は中国製青銅鏡(注1)、
倭系鉄製甲冑(三角板革綴板甲(삼각판혁철판갑)、
三角板革綴衝角付冑(삼각판혁철충각부주))、
剣、大刀、矛、矢尻などの武器類と
広口小壷、管玉と勾玉(注1)など装身具類を含み
約150点に達する。

(注1) 青銅鏡は裏面に双頭龍文を配置し、
 その間に位至三公の文字を刻んだ
 「双頭龍文鏡(位至三公鏡)」で、
 3-4世紀中国魏末から西晉時代に落陽を中心に
 北方地域で主に製作されたと見られる。
 出土品から、築造時期は
 5世紀前半と見られる。

 27日に発掘現場で説明会が開催される。
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高興郡(コフンぐん)は、
大韓民国全羅南道の南海岸にある郡。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%88%88%E9%83%A1
 地図
 http://map.goo.ne.jp/map.php?blog=1&from=gooblogparts&MAP=E127.21.30.713N34.36.26.273&ZM=1&W=1 

★葺石
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%BA%E7%9F%B3
葺石(ふきいし)とは、
主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や
墳丘を覆う外部施設の1つで、
古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石(れきいし)を
積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたもの。
(中略)
葺石墓は、弥生時代中期以降の西日本に点々とみられ、
古墳時代へとつながっていく。

とくに一般的に「定型化された大型前方後円墳」の
最古の例と考えられている箸墓古墳および
若干それに先立つとみられるホケノ山古墳(奈良県桜井市)
では葺石をともなうことが確認されており、
葺石は、出現期古墳の特徴を示す一要素となっている
(中略)
日本の墳墓においては、中国の墳墓に顕著にみられる
版築の工法がほとんどみられない一方で、
斜面を礫石などで葺いてがっしりと安定させる手法が
採用されており、
この工法は日本列島独自のものである。
(中略)
古くから瀬戸内および四国地方には石工集団がおり、
石に関する知識が特に豊富であったことを指摘している。

なお、『日本書紀』と『古事記』には、
箸墓古墳(奈良県桜井市)の造営の際、
大坂山の石をリレー方式で運んだという説話
が記されているが、このとき運ばれたのは
葺石のための石材であったと考えられる。


古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などに
びっしりと葺石が施され、遠目には石塚のように見え、
平坦なテラス部分には円筒埴輪をならべ、
さらに墳丘周囲には周濠をめぐらせて、その外側には
数基より成る陪塚をともなうなど、
色彩豊かで華麗な装いをみせていた。
規模や形状のみならず、当時は側面からしか古墳を
見られない人びとに対して、葺石によって白く輝く
構築物としての陵墓の色彩的イメージは、
他の構築物とのあいだに大きな格差を感じさせるに
充分であったと考えられる[39]。
このような意味からも、古墳は単なる墓ではなくて
政治の所産であった。

なお、森浩一は、神戸市の五色塚古墳(垂水区)、
さらには同市に所在する西求女塚古墳(灘区)、
処女塚古墳(東灘区)、東求女塚古墳(東灘区)の
事例を掲げ、頑丈な葺石で覆われ白亜に輝く人工の
石山(石塚)は、
海上から望むと絶好の航海の目標(めじるし)に
なることを指摘している。

(中略)
葺石の終焉

古墳時代中期の5世紀には
墳丘規模の拡大がピークに達し、
実際の政治構造も古墳群の構成に
明らかな影響をおよぼしており、
墳墓の形態や規模によって被葬者の社会的地位や
身分が示されたとみられる
が、
5世紀終末に近づくと、巨大な前方後円墳の築造や
階層的な巨大古墳群の形成は下火になっていく。
(以下略)


★前方部斜面に100mの葺石を
 敷き詰めた巣山古墳

 http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_01_22.htm 
 0122-10.jpg
死者を古墳に運んだと思われる
木棺と船形木製品が出土


町教委は、これらの遺物は木棺を舟に載せ、
遺体を殯(もがり)の場から古墳まで運ぶのに
使った葬具と推測している。
しかし、これらの遺物はすべて人の手によって
破壊された形跡がある。
木製品を調査した町文化財保存センター所長の
河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は
「殯の後、遺体を納めた木棺を舟に載せて
 古墳まで運び、遺体を古墳の石棺に移した後、
 葬具一式を破壊し、周濠(しゅうごう)に
 捨てたのだろう」と話されている。

木棺の蓋はクスノキ製で、
木片をつなぎ合わせて長さ約2.1m、幅78m分が
復元できた。原型は長さ約4m、幅約1mで、
両側に計4個の縄掛け突起があったようだ。。
舟形木製品は杉製で、湾曲している。
長さ約3.7m、幅約45cm分が残っていた。
元の形は長さ約8.2mで、両端が反り上がった
舟の側板だったとみられる。

長持ち形木棺の破片

船に棺を載せたイメージは、天理市の東殿山古墳から
出土した円筒埴輪にも描かれている。
『隋書』倭国伝にも
「及葬、置屍船上、陸地牽之
 (葬るときは遺体を船の上に置き、
  陸地は之を曳く」

と記されている。

殯があけて古墳に遺体を埋葬する際に、
棺を木製の船に載せ、修羅(しゅら)で
陸地を曳いていったのは、
おそらく当時の風習であろう。
通常の古墳発掘では、埋葬後の様子しか分からない。
今回はその前段階の様子が解明できる
貴重な発見となった。

■クスノキ
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%82%AD
生育地

世界的には、台湾、中国、ベトナムといった
暖地に生息し
それらの地域から日本に進出した。
(史前帰化植物)

日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に
広く見られるが、特に九州に多く、
生息域は内陸部にまで広がっている。
生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に
8%、12%、80%である。
人の手の入らない森林では見かけることが少なく、
人里近くに多い。
とくに神社林ではしばしば大木が見られ、
ご神木として人々の信仰の対象とされるものもある。


日本のクスノキ文化は”新羅が伝えた”という
韓国人もいるが・・・

★<韓国文化>新羅のクスノキ文化
 http://www.toyo-keizai.co.jp/news/culture/2000/post_3623.php
新羅(や伽耶)ではクスノキを聖樹とする
文化があったと思われる
が、
その根拠となる点を以下に列挙したい。

1.百済王陵の棺材がコウヤマキであるのに対し、
  古代新羅王陵の棺材にはクスノキが発見されており、
  黒漆が塗られていた(金冠塚)。
  このことは、新羅ではクスノキが聖木とみなされて
  いたことを示す有力な物証である。
  研究によれば、クスノキとは
  古代伽耶語で「神が宿る霊妙の木」である。
(中略)
韓国にはクスノキは産しないとの説は事実に反する。
1900年代初頭、済州島に大樟林があったことが、
日本人学者により確認されており、
現在も韓国南海岸で自生している。
また1500年代の韓国に、クスノキから樟脳を
製造する専門家がいたことが報告されており、
海印寺の八万大蔵経版木にもいくらか混じっている。
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
百済王陵の棺材「コウヤマキ」は日本産である!
朝鮮半島にもクスノキが自生していると言うが
済州島は新羅と敵対する百済の領地だったから
済州島のクスノキを使用したとは考えにくい。
韓国南海岸で自生しているというが、
ごく一部の地域であり、日本のような巨木には育たない。

★伽耶時代の古墳から木棺を搬出。
 木材は日本産の可能性大

 2005/06/25(土)
 http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1119632341/
【「昌寧松硯洞7号墳の
  クスノキ木棺は日本産」】
(前半)

慶尚南道昌寧郡の松硯洞古墳群の中で
6世紀初め頃に築造された第7号墳の
「秣桶型(丸太型)木棺」を作るのに利用された
クスノキは朝鮮半島自生樹木である可能性は
ほとんどなく
、日本列島から入って来た可能性が
大きいことが分かった。

同時期に築造された公州の武寧王陵から出土した
王と王妃の木棺も、
日本列島だけに自生する金松
と判明した
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
魏志倭人伝にも
倭国の産物として
クスノキが記されている

防虫効果があり長持ちするクスノキが、
倭人の特産品として知られていた可能性が高い。

だから、古代伽耶語で
クスノキ=「神が宿る霊妙の木」
という意味ならば
日本からクスノキを運んだ倭人と、現地の倭人の言葉
古代伽耶語に残っているとした方が自然だよね。




★黒曜石を運んだ
 ミラクルな古代の海上輸送

 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_09_1kokuyouseki_umi.html
 kokuyouseki.jpg

★超大型古墳 10余期ソウルで発見
 2005.10.31
 http://wkorea.exblog.jp/2107409
「江東区の前方後円墳は根拠なし」 
 国立文化財研究所

2005-11-02 17:00:25 Updated.

ソウル江東区に百済時代のものと推定される
前方後円形の古墳10基が見つかったという報道について、
国立文化財研究所は1日、現地調査を行った結果、
前方後円形の古墳である根拠はないと発表しました。
国立文化財研究所によりますと、前方後円墳とされる小山は、
一般の墓と近代になってからの軍事用のざん壕があり、
ざん壕を掘る際に現れた地層は古墳を作る際にできる
人工的な地層ではなく、自然の地層であることなどから
前方後円墳である根拠はないとして、
強く否定しています。

★「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」
 2007.11.18
 http://maokapostamt.jugem.jp/?eid=2354
【新刊】朴天秀(パク・チョンス)著
 『新しく書く古代韓日交渉史』(社会評論) 

 韓日古代史を探る両国の考古学・歴史学者たちの
視角は、大部分が自国中心的だ。
西暦4世紀中盤、百済・近肖古王代に日本へ伝わった
七支刀がよい例だ。
全く同じ銘文を巡り、韓国の学者は
「倭王に下賜したもの」と読み、
日本の学者は「倭王に捧げたもの」と解釈している。

 慶北大と大阪大で考古学を専攻した慶北大の
朴天秀(パク・チョンス)教授(考古学)がこの本で
見せている態度は、
「辺境人」あるいは「灰色人」といったものだ。
彼は、最大限客観的な姿勢で遺物と遺跡を探る。
彼は、百済の先進文物が倭に伝播し文化水準を高めた
のだとしても、
6世紀前半に倭の軍事勢力が栄山江流域で
活動していたという事実も認定する。

とはいえ、倭が韓半島(朝鮮半島)南部の一部を
支配したという「任那日本府説」を支持することもない。

この本の第6章
「栄山江流域の前方後円墳を通して見た百済と倭」は、
同書に一貫する著者の論拠を際立たせている。
前方後円墳とは、上から見る時、前は四角形で
後は丸く見える、鍵穴の形をした巨大古墳のことを言う。
日本では4-6世紀に集中的に出現するが、
韓国では主に栄山江流域で6世紀前半に現れ、
すぐに消える。

この墳墓を巡り、任那日本府説を立証する遺跡だという
主張が日本から起こったのは言うまでもない。
しかし韓国国内の考古学会では
「ある地域で前方後円墳が出たが、
 (日本の学者が喜ぶかと心配で)
 埋め直した」
という噂もあった。

著者は、前方後円墳の形態で見る時、
倭人の墳墓だという事実を認定する。
しかし墳墓から出土した百済の威勢品は、百済に服属した
「倭系官僚」だという事実をあぶり出す。
遺物や遺跡、そして歴史書などを総合すれば、
こういう話になる。
(以下略)


★韓国、栄山江流域の
 前方後円墳の極概略

 http://teda.iza.ne.jp/blog/entry/240380
前方後円墳は、ある時期の「倭」、
日本列島、特有の形式であるとされる。
ここで問題とする韓国の前方後円墳は1917年頃より
その存在が示唆されたが、
1990年頃になって本格的に認識されたといえる
ものである。
現在、図1に示すように栄山江流域に12個の存在が
確認されている。
墓は保守的であり、伝統的な形を持つことから、
あきらかに倭の影響があると認められる。

これは、列島から半島への逆方向の影響と
見ることが出来よう。

 107551.jpg


★第208回 新春講演会
 「騎馬民族は来なかった」

 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm
韓国・東亜大学校・沈奉謹(しんぼんぐん)教授らの
発掘調査で、従来、前方後円墳とみられていた
慶尚南道の松鶴洞一号墳が、
重なり合った3基の円墳であることが明らかになった。
(中略)
今回の発掘の成果を、新聞報道と、
発掘を担当した沈奉謹(しんぼんぐん)教授の
論文からまとめると、

松鶴洞一号墳は従来の 一部の学者の主張とは違って、
前方後円墳ではなく、三基の円形墳が築造時期を
異にしながら互いに連接・重複し ているものである。

当古墳は五世紀後半から六世紀前半にかけて
使用されたものと推定される。

出土品は日本のほか、百済や新羅からもたらされた
とみられる土器もあった。
朝鮮半島各地と日本列島の交流を解明 する
てがかりになる。
日本との結びつきを示す特徴として
次のようなことを確認。

・日本の一部の古墳のように、
 内部を赤く塗った横穴式石室があった。
形から日本製と見られる土器や、
 日本のものとよく似た飾りを付けた馬具が出土

・埴輪のように、墳丘に並べたとみられる
 円筒形の土器が多数出土。


松鶴洞一号墳が、前方後円墳ではなかったこと、
および、全羅南道の前方後円墳も、
すでに、日本の古墳よりも新しい時期のものである
ことが判明しているので、
前方後円墳の源流が朝鮮半島にある
とする根拠は消滅してしまった。

(中略)
2.客観的事実ベースで考えることが必要。

韓国には、前方後円墳韓国起源説のように、
日本の文化はすべて韓国から来た
と主張する学者がいる。

また、李進熙氏のように、任那日本府は
日本のねつ造であるとして、
その存在を頭から否定する学者がいる。

今回の発掘で、あらたに、
5世戸後半から6世紀前半にかけての、
朝鮮半島南部と日本の関係を示す遺物などが
確認されたが、このような事実に即して考えると、
この時期に、日本の影響力が、朝鮮半島南部に
及んでいたとするのは、妥当なのではないか。
任那日本府については、
宋書など、中国文献にも記載があり、

現在の政治的背景や、民族感情とは別に、
客観的な情報をもとに判断すべきである

(以下略)


5世紀の墓を発掘したら、
日本独自のスタイルが見えて…
学界の意見入り乱れている


うふふ、
今度はどんな言い訳論文を発表するのだろうか?
もう、埋め戻したりは出来ないよね♪


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Comments 3

アロン

ネット工作員が、よく皇室は百済の血が入っていると
のたまっていましたが、この記事のようなことも
発表されましたし、どうするんでしょうね?
まぁ、百済自体が完全に日本系の国ですが。

2012-11-30 (Fri) 20:02 | EDIT | REPLY |   

弓取り

内外にはびこる歴史固定主義者

やっぱり、古代の半島南部は日本人の生活圏ですね。というか支配地域。
それでなけりゃ、好太王碑文にあるようなことができるはずがない。

韓国は学者までがウリナラファンタジーの住人。
日本人は歴史を知らないとかほざく「日本人」は、実は歴史を知らない。

2012-12-02 (Sun) 01:17 | EDIT | REPLY |   

墓地猫

前方後円墳は韓国起源ニダー!!

2013-03-13 (Wed) 23:22 | EDIT | REPLY |   

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