おや?池田信男氏がTwitter「教科書の天皇記述は江戸以降で良い」を削除している

今回の教科書改定について、
元号廃止論者の池田信夫氏が
”幕府”だって後から付けた名称なので
「教科書の天皇記述も江戸以降で充分」
「500年以上、誰も知らなかったのだから」
と、Twitterで呟いていたので、
時間があったら、この件についてBlogで取り上げよう
と思っていたら・・・批判を浴びた後、削除している。

池田氏は、以前から・・・このような歴史観。

★天皇はなぜ生き残ったか
 池田信夫Blog 2014年06月08日 
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51900581.html




確かに、中世の武家社会以降
天皇の「権力」体制は崩壊しているが・・・
「江戸時代のミカドは政治的影響力のない
 公家の一つだった。
 当時の天皇家は貧乏で、即位の式典どころか
 葬式のできない天皇もあった。」

所領地や財政を軍事政権に握られ
財政難であったことは確かだが
”政治的影響力のない公家の一つ"というのも乱暴だし
「古事記」や「日本書紀」など古代史を
教科書から外して、無視しても良いという呟きは
如何なものだろうか?

★室町時代の天皇
 http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nob/nobu5.htm


★室町時代の天皇
 http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/1116950.html


★洞院公賢
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E8%B3%A2


★106代 ・ 正親町天皇 深草十二帝陵⑩
 http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45978042.html




戦国時代の武将たちは「帝」を
単なる公家の一つだと思っていただろうか?

★信長の名前と官位
 http://www1.clovernet.ne.jp/kurohoro/his/oda/name/


織田信長は、
1568年の従五位下叙任から、
死後の法名「摠見院殿大相国一品泰巌大居士」
死後従一位太政大臣に叙せられる。
武将にとって、
朝廷から賜る官位は無意味ではないでしょう?




京都御所には、
天皇のみが通る事が出来た建礼門から
東へ数メートル程行った所に
粽屋・川端道喜専用の通用口「道喜門」が現存している。
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天文5年(1536年)、
京都御所の修繕を織田信長が命じた際に
初代川端道喜は工事を監督する工事奉行として任につき
資材搬入の勝手口として塀をくり抜いて作ったのが
この「道喜門」。

京の老舗【道喜】、創業は室町時代の1503年。
11年も続いた応仁の乱で都は荒れ果て、
朝廷も財政難で困窮状態。
後柏原天皇(104代天皇)に、毎朝『御朝物』を献上した。
明治天皇が東京に移る明治2年まで、300年以上も続いた。
江戸時代に入ると朝廷の財政も安定していくのですが
それでも朝食の前には、道喜の餅を眺めるという
『朝餉の儀(あさがれいのぎ)』という儀式として
明治まで残っていたのだそうです。

この店の歴史はコチラから
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/26855555.html
https://www1.doshisha.ac.jp/~prj-0604/pc/kawabata.html

安永9年(1780年)刊の秋里籬島著・竹原春朝画の
『京名所図会』(6巻11冊)にも
  doukiphoto.jpg
 (内裏之図 『都名所図会』の巻頭)

  douki_360_4.jpg
「道喜門は描かれている。

幕末の公武合体を描いた有吉佐和子の長編小説
【和宮様御留】の中にも、祇園会の道喜の献上品
「御菱葩」が描かれていますが、この花びら餅は
裏千家の新年大茶会にも納品されています。
有吉佐和子は、執筆にあたって15代道喜夫人からも
御所との関係をいろいろと教わったのだそうです。




京都には、皇室の菩提所として有名な
御寺・泉涌寺がございます。
御由緒には
http://www.mitera.org/outline.php
”仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、
 当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。
 その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、
 続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る
 歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、
 山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」
 と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、
 長く篤い信仰を集めることとなる。
 泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。”

★驚きの内部ー月輪陵・後月輪陵・続編-
 http://blog.goo.ne.jp/ayaka-r0301/e/2db3204a14357ba68f915b39990885d4





公武合体といえば、皇女和宮が有名ですが
徳川家康が、孫の和子を入内させ
かつての藤原一族のように
天皇の外戚になろうとしたことも見逃せません。

★徳川和子
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%92%8C%E5%AD%90

★第108代 後水尾天皇の后( きさき )
 東福門院・徳川和子

 http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45988264.html




★聖徳太子の発明?
 「天皇と日本」-天寿国繍帳の信憑性-

 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/tennoutonihon.html


★天寿國繍帳 銘文
 http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/tenjukoku/tenjukoku_frgen.htm


★天皇弥栄(すめらぎ いやさか)  
 慶應義塾大学講師 竹田 恒泰
 http://www.hokkaidojingu.or.jp/sizume/column/takeda6.html




★国学
 http://www.geocities.co.jp/HiTeens/8761/japan14.htm


★本居宣長研究ノート
 「大和心とは」

 http://www.norinaga.jp/index.php


敷島の 大和心を 人問はば
朝日に匂ふ 山桜花

  ~本居宣長
 http://blog.livedoor.jp/rh1-manyo/archives/27448909.html


★古事記の魅力④ 
 ~桜、生命の再生、もののあわれ~
 http://wanosuteki.jp/post_10615 


★shinzeiの晴耕雨読日誌(901)
 江戸時代、天皇権威復活大作戦

 http://shinzei-co-led.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/shinzei-ec1e.html




今年の1月、池田信夫氏は
「もう元号を使うのはやめよう 」と呼びかけます。
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4647.html


そして、今回は・・・
「教科書の天皇の記述は江戸以降で充分だ」
と呟いていました。

子供達が、自国の歴史に触れる扉
親が歴史好きでない限り、教科書となります。
大人になっても、
自国の歴史への知的好奇心を失わずに学ぶためには
歴史への興味の扉は、出来うる限り開かれていなければ
ならないと思うのです。

先日、朝日新聞の読者欄に投稿された
「元号」に関する記事。
17歳の高校生の投稿文に、日本の未来を託したくなる。

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安倍首相、真珠湾攻撃で戦死した飯田中佐の記念碑などへ献花

★首相、飯田中佐の記念碑訪問 
 真珠湾攻撃で戦死

 日本経済新聞 2016/12/27 12:55
 
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS27H1K_X21C16A2000000/
【ホノルル=山口啓一】
米ハワイ訪問中の安倍晋三首相は26日午後
(日本時間27日昼)、
真珠湾攻撃で戦死した旧日本海軍の
飯田房太中佐の記念碑を訪問し、献花した。
岸田文雄外相や稲田朋美防衛相も同行した。

 飯田中佐は真珠湾攻撃で燃料タンクに被弾したため、
機体を米海軍基地格納庫に突入させて戦死した。
米海軍は飯田中佐の勇気をたたえ、基地内に埋葬。
真珠湾攻撃30周年の1971年に記念碑を建てた。





(引用ここまで)




★真珠湾に散った英霊たち
 http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20111210/1323474812
 空母・蒼龍制空隊分隊長の飯田房太大尉は
カネオヘ基地上空で被弾し、燃料漏れを起こしました
母艦まで帰れないと判断した飯田は
帰投途中で反転しました。
分隊長の覚悟を知った隊員は風防を開け、
敬礼で持って見送りました。
飯田大尉は愛機のゼロ戦とともに同基地に突入して
自爆しました。飯田隊長機に続いて
渥見峻(あつみたかし)一飛曹も燃料漏れのために
後を追う様に自爆しました。

 アメリカ海軍は、敵ながら、壮烈な行為を称賛して、
遺骸の柩(ひつぎ)をアメリカ軍艦旗で包み、
衛兵隊弔銃の礼をもってヌアヌ海軍墓地に埋葬した
といいます。
ヌアヌ海軍墓地には飯田大尉のほか、鈴木三守大尉の三士、
特殊潜航艇の岩佐直治大尉も葬られています。

 ワヒアワには降下爆撃機二機、4戦士が葬られています。
土饅頭の上に十字架をたて英語で
「日本空軍四士戦死 1941年12月7日」と記されています。
撃墜されたとき、搭乗員4名は認識できぬほどの
無残な死体だったといいます。
1機は午前八時頃(攻撃開始とほぼ同じ時刻)一家屋に激突し、
他の一機はパイナップル畑に250キロ爆弾を抱いたまま
墜落しました。
葬儀は軍の当局者が取り扱い、
戦死者にふさわしい礼儀をもって執り行われたといいます。

(全文はリンク先で)









★首相「日米は希望の同盟」 
 日系人との夕食会で

 日本経済新聞 2016/12/27 15:30
 http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK27H1M_X21C16A2000000/













「戦後レジュームからの脱却」を
絶対にさせたくない人々








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西日本新聞「金嬉老事件は在日コリアンの差別の象徴だった」

★見つめ直す「差別と人権」
 西日本新聞 2016年12月25日 10時30分
 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/editorialist/article/297831
 シニア世代の多くの人に、
鮮烈な記憶を残した在日コリアンがいる。

 金嬉老(キムヒロ)元受刑者(故人)である。
日本語読みで「きん・きろう」といった方が通りがいい。
1968年、ライフルを手に静岡県の旅館に
人質を取って籠城した人物だ。


 要求は一つだった。
街中で在日の人々に差別発言を放った警察官の謝罪である。

 彼の幼少時からの差別体験
現場からテレビ中継を通じて全国に伝えられた。
言語道断の事件であることは前提に
在日コリアンの人権意識を覚醒させた出来事として
歴史に刻まれている。

 在日運動家たちは、当時活発になっていた
部落解放運動にも大きな影響を受けていた。
在日コリアン人権協会の創設者は
「私たちにはそれまで、
 差別と闘うという概念がなかった」と言う。
被差別部落の人々は
大正時代に始めた差別との闘いから、
「人間の尊厳」を取り戻す運動を
在日の人々に伝授していった。

 差別される側に共通するのは
「初めはなぜ差別をされるのか分からなかった」
という事実である。
極貧生活で識字率が低い時代があった。
歴史を学び、差別の不条理を知ったとき、
初めて立ち上がることができる。
私が知る障害者団体も彼らの運動に学び、
「共に生きる社会」の実現を強く訴えた。

 運動はときに
「激しく行き過ぎ」と社会の批判を浴びた。

当事者は折に触れ反省した。
金嬉老事件は論外としても
多少手荒な訴えをしなければ苦境は理解されなかった
事情も見逃せない。

運動は外国人登録証への指紋押なつ全廃や
公共施設のバリアフリー化など大きな成果を上げた。

 にもかかわらず
今年は新たにヘイトスピーチ(憎悪表現)対策法、
部落差別解消推進法、障害者差別解消法が施行された。
人権を守る社会は成熟してはいなかったのか。

 「現代」を一皮めくればインターネット上などで
差別言動がはびこっている。
「差別と人権」にこだわってきた
記者の一人として自戒した1年である。


=2016/12/25付 西日本新聞朝刊=


★金嬉老事件
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AC%89%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6


★金嬉老事件
 http://yabusaka.moo.jp/kimuhiro.htm


★金嬉老事件(下) 
 韓国送還後に殺人未遂事件

 http://www.sankei.com/region/news/151209/rgn1512090066-n1.html


★寸又峡温泉にいってみた
 http://iyasaaca.exblog.jp/8034970/


★また曹渓宗か・・
 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/46994289.html


★まだ金嬉老を持ち出す韓国
 シンシアリーのブログ 2014-03-31
 http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11809025507.html




この記事を書いた
西日本新聞の記者は何歳なのかな?
この事件を知らない世代が増えたからって
金嬉老事件を持ち出すのは、逆効果じゃないかな。

私が子供の頃に地元で起きた事件・・・
この事件を取り上げる度に
リアルタイムで事件をTVで観てきた父は、
「自分の犯罪を正当化する為に
 ”差別”を利用しているだけじゃないか!」

と、よく怒っていた。

金嬉老、本名は権嬉老である。
金姓は、彼の母親の再婚相手の姓
権嬉老は、金嬉老の名前の他に7つの名前を使用し
戦後は。
彼に殺されたうちの一人は、まだ18歳だった。

権嬉老は、金嬉老の名前の他に7つの名前を使用。
15歳で窃盗で捕まり、少年院で終戦を迎えた。
戦後は窃盗、詐欺、強盗などを繰り替えし、
行ってもいないのに
”この頃、特攻隊の制服で、
 白い絹のマフラーを巻いて歩き回っていたという。”

殺人、籠城事件を犯すまでに前科7犯、
20年間の内15年以上刑務所暮らし・・・。


”事件前、金は手形を担保にして知人から
 18万円を借金した。この借金は中古車で弁償したが、
 手形は金の元には戻らず、ある暴力団幹部の
 手に渡った。これは射殺されたSのことである。
 これ以後、金はSから脅され続けた。
 まずSたちは手形をたてに、金から35万円を取り立て
 ようと図る。金は九州~青森を逃げ回ったが、
 横浜にいるところをS一派に発見される。
 そこで金はSに「返済」を約束し、
 8月20日に「みんくす」でおちあうことにした。

 事件当日、まずSと他2人が「みんくす」に到着、
 続いて金も訪れた。金はここでSに
 「朝公がちょうたれたことをこくな」と罵られ、
 そのSと子分Oの2人をライフル銃で撃ったのである。”



★「初の劇場型犯罪」金嬉老事件、
 現場はいま 寸又峡温

 朝日新聞 大内悟史 2016年1月13日
 http://www.asahi.com/articles/ASHDX5FDPHDXUTPB00M.html
(引用開始)
籠城中には、記者会見やテレビへの電話出演もした。
警察官の朝鮮人差別を告発するために
 事件を起こした
などと主張し、
生い立ちを語った。
事件は同時進行で報道され、
「日本初の劇場型犯罪」とも言われる。
5日目の午後、記者団に紛れた捜査員がとびかかり、
金は逮捕された。

■「事件で有名になったのは事実」

 当時大学生だった在日本大韓民国民団
県地方本部議長の金勇(67)は、
県内に里帰りしていた時にテレビでヘリコプターからの
現場映像を見て、驚いた。
県内の民団幹部は寸又峡で金を説得したが、
事件後は多くを語らなかったという。
差別されている在日の気持ちを代弁してくれた
 という声も一部にあった。
 ただ、犯罪という形で主張したり
 正当化したりするのを擁護はできない
と話す。
 
(引用ここまで)




差別を利用したのは金嬉老本人だけでなく
一部の在日コリアンの人々と、日本の左翼活動家。
日高六郎(東大教授)、伊藤成彦(中大助教授)、
鈴木道彦(一橋助教授)、金達寿(作家)、角南俊輔(弁護士)、
斉藤浩二(弁護士)、山根二郎(弁護士)などの
いわゆる「良心的文化人」達。



★金嬉老と在日差別
 http://www.tamanegiya.com/kako/kinnkirou19.9.12.html
金嬉老の籠る静岡県寸又峡の「ふじみ屋旅館」まで
応援にのこのこと出かけていったのは、
伊藤成彦、金達寿、角南俊輔、斉藤浩二、山根二郎の
諸氏だったようです。

 金嬉老と会い、その発言にころっと騙されて、
泣いたバカもいたそうです。

 学生運動については金嬉老の
「警官と戦う学生の心の中に
 ダイヤモンドを見つけました」

という言葉に感激した伊藤成彦氏は
「いや、私は、金さん、
 あなたの心の中にダイヤモンドを見つけました

という言葉を吐いたそうです。

「曽我(注=金嬉老が清水で殺した相手)が、
 私の家に踏み込んで私をなぐり、
 アサ公とののしった時、
 私は心の中ですでに彼を殺していました」

「私は十五歳のときから、警察が自分の家となりました。
 しかし、その家はあまり住み心地のいい家では
 ありませんでした」


これらの言葉は、普通の人が聞けば、
「寝ぼけたこと、アホ言っとるな。
 お前がみんな悪いんだろうに」となるのに、
伊藤成彦氏は「あなたは立派な文学者だ
と叫んだそうです。


 このバカどもは、下記の金嬉老の母親、
朴得淑さんの言葉をどう聞くのであろうか。

「あれは、ふだん朝鮮人といわれても
 ハラは立てないが、ムシの居所が悪いと、
 カッとくるね。それだけの話よ。
 だけど、息子は、捕われになっても、
 まだ生きてるからいい。
 しかし、あれが殺した二人の遺族を思うと、
 私、何もいえない。私は息子にいいたかった。
 死ぬのなら早く死ねばよかった」

(引用ここまで)




中核派の機関紙「かけはし」には当時の様子を
★日韓連帯闘争の契機の
 ひとつだった金嬉老事件
 
 かけはし98.9.27号より
 http://www.jrcl.net/web/framek32.html
(引用開始)
日本の運動への大きな衝撃

 当時、この事件は大きな衝撃をもって受け取られた。
ある刑事の「てめえら、朝公(あさこう)がなんだ~」
と暴言をはいたのを謝罪しろというのが
金嬉老さんの要求の一つであった。
その刑事と県警本部長がNHKテレビを通じて謝罪した。
長い間、差別を受けてきた在日朝鮮人にしてみれば、
「胸がスーッとした」「よく言ってくれた」と
声援を送る声が多かった。
金達寿(作家)さんや岡村昭彦(ピューリツアー賞を
もらった報道写真家)さんが被告の特別補佐人として
認められ裁判が進められた


 日本人の中でも、金嬉老さんの訴えを
どう日本人の立場で考えていくのかということで、
公判対策委員会などが作られた。
さらに、旧来の日朝友好運動から、入管体制を
問題にする新たな日韓連帯運動も起きていった。

そして、
当時の華僑青年闘争委員会という
在日中国人青年の急進的運動とも
連携していくようになった。


 それから、反戦自衛官小西誠さんの決起もあり、
全国反戦・東京入管闘・関東叛軍と3つの戦線
共闘して首都の闘争を組むようになっていった。
70年7・7の華青闘の糾弾(日本人を主体とする集会の
つくり方への批判)もあり、日本の歴史の見直し、
主体的な運動の総括などが急進的諸党派にせまられた。
 この当時、東京入管闘の中で、華青闘の糾弾
最も真摯に応えようとしたのは第四インターと中核派であった。
第四インターはベトナム革命と合流する
極東解放革命(韓国における反独裁革命と
北朝鮮における反官僚政治革命としての統一朝鮮革命と
沖縄・日本の反帝社会主義革命を結合する)戦略を提起し、
華青闘の糾弾には被抑圧民族無条件防衛の立場を
明らかにした。


(続きはリンク先で)




金嬉老事件を利用した左翼過激派達が、
ベトナム革命と合流する極東解放革命
(韓国における反独裁革命と北朝鮮における
反官僚政治革命としての統一朝鮮革命
沖縄・日本の反帝社会主義革命を結合する戦略・・・

今も昔も変わらない過激派の夢見る「革命」
その目的のためには、
犯罪者さえも祭り上げて利用する。

父が生前、よく言っていた言葉。
「もしも、金嬉老が日本人だったら・・・
 アイツ等(マスコミ)は、犯人に同情なんかせず
 殺人鬼だの極悪犯だの報道したんだろうになあ、
 ご都合主義の連中だよ。」









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大森捕虜収容所のクリスマス

★大森捕虜収容所の主計軍曹が
 すでに「アンブロークン」の主張を
 否定していた

 ミツジのブログ
 
http://mituzi.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
昭和19年2月から20年4月までの14カ月間、
大森捕虜収容所で金銭給与を担当していた
陸軍主計軍曹、八藤雄一氏
「あゝ、大森捕虜収容所──
 戦中、東京俘虜収容所の真相」

という本を2004年に自費出版している。

彼がこの本を自費出版したのは、
米陸軍第八軍司令官アイケルバーガー中将の
「大森こそは日本軍残虐の本営」
という、
ヒレンブランド著「アンブロークン」の原型のような
談話に対して反論するためだった。

(中略)
大森で捕虜だった
ボブ・マーチンデイル米陸軍少尉の著書
「The 13th Mission」には、1944年12月、
大森捕虜収容所で捕虜たちのクリスマス慰安会が
行われ、大いに盛り上がった出し物「シンデレラ」の
話がある。続けて次のように書かれている。


 最高のクリスマスだった。

 我々は全員、朝食の時に使ういつもの椀で、
 小さな精白パン1個をもらった。
 さらに全員、
 赤十字から送られた慰問の品の入った箱を受け取った。

 夕食には焼き飯と、シチューに近い濃いスープが出た。
 野菜が何種類か入っており、
 浮かんだ豚の脂がスープに風味を添えた。

 幸運な捕虜には、小さな豚肉が入っていた。

 みな満腹して寝ようとしていたとき、
 他の宿舎からクリスマスキャロルの歌声が聞こえてきた。

 楽しいことがたくさんあった1日だったが、
 もっとすごいご馳走は大晦日、正月にやってきた。

 この日は私の人生で、
 一番思い出深いクリスマスとなった。




この幸せに満ちたクリスマスの思い出に出てくる
スープの豚肉、実は八藤氏が苦労して手に入れた
牛肉だったのである。
一部マーチンデイルの記憶とは異なるが、
以下、八藤氏の記述。

 当時の食肉市場は大変な入手困難、
 特に大森から市場に行っても係員は、
 「駄目、駄目、捕虜なんかに食わす肉なんかない」
 と相手にしてくれない。

 この爲に我々は自転車の後部フェンダーの
 「東京俘虜収容所」という白ペンキを消して
 食肉市場に行った程である。

 而も当時の市場には陸海軍の強力部隊が
 屈強な炊事兵士を数名トラックに乗せて
 肉を買い出しに来る。
 各部隊競争であり、早い話、強奪である。

 私は常々幼少時から肉食、パンを主とする
 捕虜連中のことを考え
 せめてクリスマス位は、たとえ少量でも
 牛肉を食わしてやろうと思っていた。
 東俘収主計軍曹は市場で全く不景気にされる。
 でも私は、
 「捕虜だって人間ですよ。
  何とか少しでも売って下さいよ」
 と泣きついてやっと六キロの牛肉塊を入手。
 欣喜雀躍して自転車の前籠に入れて帰り
 炊事の福田軍曹に渡した。

 六キロは六千グラム、
 捕虜六百人で割れば一人十グラム、
 僅かに小指の先の量、
 確かカレーライスに入れて給与した。

 それでもマーチンデールは
 この肉の特配を著書に書いている。
 後年私はこれを読んで思わず一人で泣いた。



私も読んで思わず泣いた。
ヒレンブランドは、日本の捕虜収容所のことを
「奴隷収容所」と述べ、「アンブロークン」には
まさに奴隷の惨状としかいいようのない話ばかりが、
これでもかこれでもかといわんばかりに登場する。
そして、
ここで紹介したクリスマスのエピソードは登場しない。

(全文はリンク先で)


★マーティンデール氏と八藤雄一先輩の手紙
 http://jfn.josuikai.net/circle/eigo/letters.htm


★「アンブロークン」原作の日本側協力者(1)
 http://koyanonezumi.blog.fc2.com/blog-entry-368.html


★アンブロークンの裏の赤い人脈
 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/43036138.html


★町山智浩アンブロークン擁護のgdgd
 反日はどこからくるの
 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/42332159.html






























>いかに中心が
 左翼思想になっているかが
 わかります


★【真珠湾訪問】 河野洋平元衆院議長
 「日本に対する韓中の怒りは強い…
  安倍、真珠湾でよく考えて発言すべきだ」

 政経ch 2016/12/24/ (土)
 http://fxya.blog129.fc2.com/blog-entry-32592.html


★在日無年金裁判原告で
 総連専従活動家女性を
 マンセーする毎日新聞

 韓流研究室 2011-09-02
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1360.html




今年の我が家のクリスマスは・・・

  xmasth.jpg

前菜
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ラム肉のソテー
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パエリャ
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クリスマスケーキの写真は・・・撮り忘れた(´;ω;`)




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奈良の木簡に、高い鼻に坊主頭のペルシャ人役人の落書き?

★高い鼻に坊主頭…
 ペルシャ人役人?描いた木簡

 読売新聞 2016年10月13日 09時18分
 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20161013-OYT1T50006.html
ペルシャ人の役人の名前を記した8世紀の木簡が
出土した奈良市の平城宮跡近くで、
外国人とみられる顔を描いた同時代の木簡が
見つかっていたことが、
奈良文化財研究所の調査でわかった。

 ペルシャ人役人を連想させ、
同研究所平城宮跡資料館(奈良市佐紀町)で
15日に始まる地下の正倉院展
木簡の写真を展示する。

 顔の絵の木簡は、
ペルシャ人を意味する「破斯(はし)」と書かれた
木簡が発見された場所から約70メートル北東で
見つかった。一緒に出土した土器などから
同年代のものとみられる。
顔は木簡の表に二つ、裏に一つ描かれ、
いずれも高い鼻と、坊主頭が特徴。
古代の仮面劇「伎楽(ぎがく)」で使われた
ペルシャ人の面に似ている。


  gigakuI48XU90M.jpg
 木簡の顔に似た「伎楽面・酔胡従」
 (第66回正倉院展図録より)

 木簡には字の練習をした跡もあり、
顔の絵も役人の落書きとみられる。

(引用ここまで)


関連記事
★平城宮にペルシャ人の役人 
 765年木簡に「破斯清通」

 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4471.html




伎楽面・酔胡従の顔を見て思い出すのは、
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修験道で有名な山形県鶴岡市の
出羽三山神社(593年開山)の開祖

「蜂子皇子(はちこのみこ)」

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「羽黒山縁起」などの伝承によると、
蜂子皇子は崇峻天皇の第3皇子で聖徳太子のいとこ
肌の色が黒く、耳元まで口が裂ける異形ながら、
民の苦悩を除く霊力を持っていたとされ、
「能除太子」とも呼ばれる。

木像は17世紀初めまで瀧水寺と呼ばれた
国宝・羽黒山五重塔にまつられ、その後、
羽黒山山頂の開山堂にまつられたとされる。
特定の信徒や修験者の拝観が許されていたが、
明治政府の神仏分離後は「蜂子神社」に改められ
完全非公開となった。

(2014年初公開時の記事)



出羽三山神社の開山は、約1,400年前、
第32代崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子である
蜂子皇子(はちこのみこ)(562-641)が
三本足の烏(八咫烏やたがらす)に導かれ、
羽黒山に登拝し、「伊氏波神(いではの神)」を見出し
羽黒権現を感得、山頂に祠(ほこら)を創建したのが
始まりとされている。

皇子は、更に月山権現と湯殿山権現を感得し、
三山の開祖となり、爾来、羽黒派(古)修験道として
全国に広がった。
葛城山や熊野、大峯など、主要な修験の地の開祖が
役行者(えんのぎょうじゃ)であるのに対し、
出羽三山だけは、蜂子皇子という天才が
修験道の開山となっている。


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 蜂子皇子御尊影 左下は金剛童子、右下は除魔童子
 https://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/season/haguro.html

第三十二代・崇峻天皇の
第三皇子、蜂子皇子(波知乃子王)。

母は小手子で大伴糠手子の娘。
崇峻天皇は、欽明天皇と蘇我小姉君の皇子。
蘇我小姉君は、蘇我の稲目の娘。
蘇我氏は武内宿禰を始祖とする氏族です。

崇峻天皇5年(592年)11月3日、
蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により
暗殺されたため、蜂子皇子は馬子から逃れるべく
丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から
海を船で北へと向った。
そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、
八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、
八人の乙女が笛の音に合わせて
神楽を舞っているのを見て
皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。
八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。

丹後由良は、古くは北前船の港として栄えてきた。
http://www.hikarij.com/vision/hyakuninisyu/kinki/yura.html

蜂子皇子が一人で脱出したとは思えないので
重臣や召使達を伴って北に向かい
山形県鶴岡市由良にたどり着いたのでしょうねぇ。
掛け軸に描かれた蜂子皇子も金剛童子も除魔童子も
どう見ても・・・外国人っぽい。
蜂子皇子と金剛童子はペルシャ系?
除魔童子は巻き髪癖毛のコーカソイドに見える。

京都府京丹後市丹後町に
間人と書いて「たいざ」と読む地名が有る。
由来は、諸説あるが・・・ウィキによると
聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后
蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後[の当地に
身を寄せ、のちに当地を去るに当たって
自らの名をこの地に贈ったものの、
住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、
皇后が退座(たいざ)したのに因み
間人を「たいざ」と読み替えた、との伝承が残る。
死者を大陸に向けて埋葬する風習が長らく残っていた。


★間人考
 http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49817_44336.html




伎楽は、
「呉楽(くれがく)」「伎楽儛(くれのうたまい)」と呼ばれ
中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞。
そのルーツについては
中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。

『日本書紀』には、
仏教伝来から60年後の推古天皇20年(612年)、

”又百濟人味摩之、歸化、
 曰「學于吳、得伎樂儛。」
 則安置櫻井而集少年令習伎樂儛。
 於是、眞野首弟子・新漢濟文二人習之傅其儛、
 此今大市首・辟田首等祖也。”


百済の味摩之(みまし)が帰化し、自分は呉に学んだので
伎楽の歌舞ができると言った。
そこで、桜井に住まわせ、若者を集めて伎楽を習わせた、
という記述がある。
これを持って、韓国では
「伎楽は韓国人が伝えた!」と自慢しているのだが・・・

百済の味摩之(みまし)は、果たして韓人か?
聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所で
味摩之(みまし)は、真野首弟子(まののおびとでし)と
新漢済文(いまきのあやのさいもん)に教えたという。
新漢済文は、昔から居住していたのではなく
当時、近年渡来した今来の一族の済文(サイモン)さん。

「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、
『日本書紀』欽明天皇(在位 西暦540年~572年)の
項においてである。
呉国の国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、
仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上した
という記述がある。
ただしこのとき、
実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明。

百済の味摩之が帰化する前から、
「伎楽調度一具」が存在している。
献上した和薬使主は、元の名を善那(ぜんな)という。
孝徳天皇の治世〔大化元年(645)~白雉5年(654)〕に
牛乳を献上したという記述もある。
http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/ushi/03_back/200310/p03.html
”和薬使主
 呉国主照淵の孫智聡ヨリ出ヅ。
 欽明天皇ノ御世ニ大伴挟手彦ニ随イテ
 内外ノ典、薬ノ書、明堂ノ図等百六十四巻、仏像一躯、
 伎楽の調度一具等ヲ持チテ入朝ヌ。
 男善那使主、孝徳天皇ノ御世ニ牛乳ヲ献ルニヨリテ、
 姓ヲ和薬使主ト賜イキ。
 渡シ奉レル本方ノ書一百三巻明堂ノ図一ツ、薬臼一ツ、
 及ビ伎楽一具ハ、今大寺に在リ。”


善那の父・智聡は、6世紀中頃(562年)
呉の国から薬方書、医書を多数携えて帰化。
(中国側によると)
日本に針治療の方法を伝えたらしい。

http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-05/10/content_20009413.htm

★弊院のルーツ
 http://blog.livedoor.jp/nanakokotoki-page/archives/1019377832.html
日本書紀には、
『雄略十四年。命臣連迎呉使。
 即安置呉人於檜隈野。因名呉原』

・・・【訓】470年、雄略天皇は、臣下らに命じて
呉(中国)の使いを迎えさせた。
そして呉人を檜隈野(ひのくまの)に安住させた。
そのため『呉原』(くれはら)と名づけた・・・
とあります。
470年といえば、聖徳太子の時代よりも
100年以上も前です。この時代、すでに大和王権は
呉(中国)に使いを送り、最先端の科学・技術・文化を
吸収しようとしていました。
渡来した呉人たちは飛鳥の都の南西部、呉原に
邸宅を与えられました。


そんな中、
562年、呉人の『智聡』(ちそう)が来日します。
彼は、鍼灸・漢方薬の書や仏典を飛鳥に持ち込み、
日本に初めて医学を伝えました。
智聡の子、善那(ぜんな)は、医師として
大化の改新前後の時代に朝廷に仕えています。

(引用ここまで)

この時期、
ペルシャ系の医者も渡来していたというのが前回の話。
 nara0424-01.jpg

因みに、
聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后
身を寄せた丹後国は、丹薬、即ち、
不老長寿の薬の製造で潤っていたという。
聖徳太子のいとこ・蜂子皇子も暗殺の危険を察知し
丹後国に向かい由良から北に向かって船出する。
到着した山形県鶴岡市由良も丹後由良の地名に由縁?
丹後国では、鉱山開発の技術があり水銀を採掘していた。

蜂子皇子の生母・小手子(おでこ)は
現在の福島県伊達郡の川俣町で御隠れになった
という伝承があり、小手姫住居跡も現存する。
晩年、養蚕と織物をこの地に齎した事から、
“機織御前(はたおりごぜん)”とも呼ばれていたそうだ。


★蜂子皇子画像
 http://blog.goo.ne.jp/ayame-jazz/m/201304
 hata.png
京都:木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)秦氏創建の神社
 三柱鳥居:石が組まれ御幣が立つ、
 鳥居の真ん中は、本殿の主祭神が鎮座する場所、
 本来は周辺が池であった、主祭神が鎮座する磐座、
 水に囲まれていたため、宮司は
  ゾロアスター教にあった拝火神殿と合致している
  秦氏はペルシャ人であったかもしれない、という 


★ゾロアスター教と天皇
 http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-10611756262.html


飛鳥時代にペルシアの技術者が多数来日して、
明日香に残る酒船石、益田岩船、石人像、須弥山石、
猿石、亀石などは彼らによって制作されたという
松本清張の小説【火の路】
昔夢中になって読んだけれど・・・俄然、読み返したくなる。

そういえば、お伽話「浦島太郎」の源流も
雄略朝(西暦5世紀末)の御世に丹波の地に
おこった出来事という伝承が有る。


★「浦島説話」と伊預部馬養連
 http://blog.goo.ne.jp/urashimasetsuwa1122/e/e28730db59300bd57eb3cda740219209




さて、話を元に戻そう。
百済の味摩之(みまし)は、
百済から呉に「伎楽」を学びに行って百済に戻り
日本に渡来してきた百済人ではなく
「伎楽調度一具」を朝廷に献上した和薬使主のように
味摩之(みまし)も呉の国から、百済経由で渡来した
大陸系の人物と考えられるのでは?

日本書紀の味摩之の記事が
「又百濟人味摩之、歸化」なのは、
その前に重要な記述があるからで、
韓国の歴史学者も、韓国ばかり注目している
日本の歴史学者も、その前文は無視に近い・・・


★呉公にかまれた「奈良の夫人」と、
 呉公の舞

 http://blogs.yahoo.co.jp/fumitomotomu/12536470.html


★呉のムカデ橋との奇妙な一致
 http://blogs.yahoo.co.jp/fumitomotomu/12549001.html
(引用開始)
「この年、百済から日本を慕って
 やってくる者が多かった。
 その者たちの顔や体に、斑白や白癩があり
 その異様なことを憎んで海中の島に置き去りに
 しようとした。
 しかしその人が、
 『もし私の斑皮を嫌われるのならば、
  白斑の牛馬を国の中で飼えないではないか。
  また私にはいささかな才能があります。
  築山を造るのが得意です。
  私を留めて使って下されば、
  国のためにも利益があるでしょう。
  海の島に捨てたりして無駄なさるな』
 といった。それでその言葉をきいて捨てないで、
 須弥山の形と、呉風の橋を御所の庭に築くことを命じた。
 時の人はその人を名づけて路子工といった。
 またの名を芝耆摩呂といった。
 また、百済の人味摩之が帰化した。
 『呉の国に学び,伎楽の舞が出来ます』といった。(略)」

(宇治谷孟訳、講談社学術文庫)

ポイントは
推古20年に百済経由で呉=中国江南地方から、
技術者が多数渡来した。

伎楽は、
橋建設や作庭の土木技術とともにつたえられた。


技術者には、江南地方とはおそらく出自が異なる
白い顔の者がいた。


「呉風の橋」は書紀の原文では「呉橋」となっている。
呉橋って何?

呉の領域の浙江省や福建省には、
いまにのこる伝統的な橋があり、
「ムカデ橋」とよばれている。

(全文はリンク先で)


★日本・謎の石造遺物紀行
 飛鳥編 その一 「奇怪な石像群」

 http://www.geocities.jp/gur_bahram/msrj/msrj02.htm


★伎楽面_呉公
 http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007658
  gigakuC0007658.jpg


★妙顕寺 大法要「奉典 伎楽(ぎがく)」
 京都では初めての
 伎楽奉典による大法要

 http://www.sachio-yoshioka.com/2013/0403.html
  gigaku20130403.jpg




「日本書紀」といえば、
”豐御食炊屋姫天皇 推古天皇”の項に
推古9年辛酉(601年)に
九月八日 新羅の間諜者(うかみひと=スパイ)
迦魔多(かまた)を對馬で捕まえる

という記述がある。
http://ncode.syosetu.com/n2851cy/1/

対馬に、新羅のスパイ・迦魔多が潜入して
捕縛される事件・・・
今も昔も変わらぬ状況が笑えるwww

韓国は、竹島だけでなく「対馬は韓国の領土」と
キャンペーンを行っているが
601年には、対馬で起きた新羅スパイ逮捕事件が
朝廷に報告されているって事で、
歴史は、奥が深いわぁ。




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    韓流ブームに仕掛けられた
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