次期指導要領案から「聖徳太子」の名前を守れ! 文科省の戦後創作「厩戸王」併記の意図は?

★「聖徳太子」守れ 
 つくる会が次期指導要領案で要望 
 「日本主体の古代史ストーリーが崩壊する」

 産経新聞 2017.3.7 20:55
 
http://www.sankei.com/life/news/170307/lif1703070042-n1.html
文部科学省が2月に公表した小中学校の次
期学習指導要領改定案について、
「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は7日、
現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」との
併記とした歴史用語の変更を取りやめるよう求める
文書を文科省に提出した。


 文書では、
「厩戸王の呼称になれさせようとしている」と指摘。
律令国家形成の出発点となった聖徳太子を
 抹殺すれば、日本を主体とした古代史の
 ストーリーがほとんど崩壊する
と批判している。

 改定案では、
人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」
史実を学ぶ中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。
文科省は、歴史学では「厩戸王」が一般的としている。


(引用ここまで)


★聖徳太子の名前を守ろう!
 http://hosyusokuhou.jp/archives/48786128.html




聖徳太子は、
確かに、死後に呼ばれた称号であり
本名ではありません。
でも
この称号は長い長い歴史の中で一般化されています。

ウィキには


聖徳太子という名称は死没129年後
天平勝宝3年(751年)に編纂された
『懐風藻』が初出と言われる[注 2]。
そして、平安時代に成立した史書である
『日本三代実録[1]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等は
いずれも「聖徳太子」と記載し、
「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、
遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が
一般的な名称となっていたことが伺える。
(引用ここまで)


★大和法起寺三重塔
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_hokiji.htm
○現存三重塔
天武13年(685)発願・慶雲3年(706)露盤を上げる。
(「聖徳太子伝私記」0<嘉禎4年(1238)>には
法起寺塔露盤銘の記録があると云い、
その銘による。・・・銘文は下に掲載)
この三重塔は当寺創建時の塔とされる。
一辺6.41m、高さ23,90m。(34.3m)、
基壇一辺11.7m。
法輪寺(法淋寺)塔婆は昭和19年焼失し、
現存する飛鳥期唯一の三重塔となる。

○帖子本「聖徳太子伝私記」<嘉禎4年(1238)>
 引用の法起寺塔露盤銘文

 上宮太子聖徳ハ壬午年ノニ月廿二日臨崩之時於
 ニ山代兄王勅シ御願ノ旨ヲ此ノ山本ノ宮ノ殿宇
 即チ慮ロラナリ專為ス作サント寺ト
 及大倭國ノ田十二町近江國ノ田卅川町ナリ至于ニ
 戊戌年福亮僧正聖徳ノ御分ニ敬テ造テ
 弥勒ノ像一躯ヲ構立ス金堂ヲ至于
 乙酉ノ年ニ恵施僧正將ニ竟ンカ御願ヲ構立堂塔ヲ
 丙午年ノ三月ニ露盤営作ル



★法起寺(ほうきじ) 
 聖徳太子の遺言で岡本宮を改築した
 という伝承をもつ寺

 http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/temple/hoki_ji.htm


★重要文化財
 古今目録抄(聖徳太子伝私記)

 http://www.emuseum.jp/detail/100629/000/000?d_lang=ja
聖徳太子伝に関する秘伝や法隆寺の寺誌を
記したものである。
別に『聖徳太子伝私記』ともいう。
13世紀前半に法隆寺の僧侶顕真が上下2巻にまとめ、
上巻では師匠隆詮から伝授された法隆寺や
聖徳太子伝の秘伝を記し、
下巻では聖徳太子の舎人(とねり)調使麻呂に関する
秘伝と自らが調使麻呂直系の子孫であることを述べる。


★法起寺の歴史をさぐる展
 http://yamatojiblog.blog.fc2.com/blog-entry-123.html


★上宮聖徳法王帝説
 http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/taisetsu/frame/taisetsu_frame.htm




では「厩戸王」は、本名でしょうか?

日本書紀では

 厩戸皇子(うまやとのみこ)
 厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)
 豊聡耳法大王(とよとみみののりのおほきみ)
 法主王(のりのぬしのおほきみ)



古事記では
 上宮之厩戸豊聡耳命
 (うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)



法隆寺金堂、薬師像の光背にある名
 東宮聖王(まけのきみひじりのきみ)


法王帝説
 厩戸豊聡耳聖徳法王
 (うまやとのとよとみみのしゃうとくのりのおほきみ)
 上宮厩戸豊聡耳命
 (うへのみやのうまやとのとよとみみのみこと)
 厩戸豊聡八耳命
 (うまやとのとよやつみみのみこと)
 上宮王(うへのみやのみこ)





この状況で、小中学生に
わざわざ「併記」する意味が有るでしょうか?
併記から単独記載への下準備でしょうか?

「聖徳太子」で覚えて、高校・大学で
もっと深い知識が必要になった時の為に
日本書紀や古事記など、様々な視点で学べば良いのでは?



★聖徳太子は実在しなかった?!
 http://www12.plala.or.jp/rekisi/syoutoku.htm
l

★「聖徳太子」を「厩戸王」に!?
 http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/8e17f3f4f59bd46be5b8e02a72b39434




さて、どのような人達が
「聖徳太子」を消そうとしてきたか?


★「聖徳太子は、日本の政治的意図による
  創作・捏造だ」…中日新聞

 2008年02月11日
 http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/86f6bfc7606890f0dc0fce13f1b8a1d4
■書き換わる聖徳太子像 
 週のはじめに考える

 2008年2月10日
 実在から非実在へ、
聖徳太子像が大きく書き換えられようとしています。
戦後歴史学がたどりついた成果とも、
真実追究の学問がもつ非情さともいえるでしょうか。

 聖徳太子を知らない日本人はまずいません。
教科書風にいえば
六世紀末から七世紀前半の飛鳥時代、
日本の伝統精神に仏教や儒教の外来思想を身につけ、
日本の国力と文化を飛躍的に高め世界の先進国入り
させていった皇太子です。

(中略)
誇張や粉飾があったにしても、
実在と非実在では話の次元が全く違ってしまいます。
ところが、
積み重ねられた近代の実証的歴史学の結論は
「聖徳太子はいなかった」で、どうやら決定的らしいのです。
 聖徳太子の実在に最後のとどめを刺したとされるのが、
大山誠一中部大学教授の一九九六年からの
「長屋王家木簡と金石文」「聖徳太子の誕生」「聖徳太子と日本人」
などの一連の著書と論文、それに同教授グループの
二〇〇三年の研究書「聖徳太子の真実」でした。
(中略)
日本書紀は養老四(七二〇)年完成の最古の正史で、
その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の
中央集権国家が形成されました。
隋・唐の統一と東アジアの大動乱、それによる大化の改新や
壬申の乱を経て、古代社会の「倭(わ)の大王」は
「日本の天皇」へ変わったとされます。

 大変革の時代の日本書紀の任務は誕生した
天皇の歴史的正統性と権威の構築です。
それが、高天原-天孫降臨-神武天皇-現天皇と連なる
万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる
聖天子・聖徳太子の権威の創作、書紀は政治的意図が
込められた歴史書でした。

 大山教授の指摘や論考は、
歴史学者として踏み込んだものですが、
隋書倭国伝との比較などから「用明、崇峻、推古の三人は
大王(天皇)でなかったのではないか」
「大王位にあったのは蘇我馬子」などの考も示しています。
「日本書紀の虚構を指摘するだけでは歴史学に値せず、
 真実を提示する責任」(「日本書紀の構想」)からで、
日本書紀との対決と挑戦が期待されます。


 千年を超えた執念
 日本書紀が展開した思想と論理は
千三百年の現実を生き現代に引き継がれました。
憲法と皇室典範は「皇位は世襲」で
「皇統に属する男系の男子がこれを継承する」
と定めています。

 しかし、
万世一系は子孫を皇位にと願う持統天皇の
あくなき執念と藤原不比等の構想によって成り、
その父系原理も日本古来のものとはいえないようです。

建国記念の日に永遠であるかのような
日本の原理の由来と未来を探ってみるのも。
 
(引用ここまで)


反日でお馴染みのサヨク中日新聞は、
聖徳太子は非現実という大山誠一論を絡めながら
万世一系も世襲も非実在だと・・・
憲法記念日に取り上げている。
これは反天連と同様な思考ですね。


駒澤大学仏教学部教員で
仏教の教理と仏教関連文化の研究者
石井公成氏のサイトより。


★聖徳太子研究の最前線
 大山誠一「聖徳太子架空説」の誤り

 2010年06月09日
 http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/cd4a360efec5749db439a9126a9b7212
(引用開始)
大山説のうちのそうした点が着目されず、
無視される場合が多いのは、
「何しろ、学問的反論は皆無なのである」
といった断言が示すように、自説を打ち出すばかりで
批判に誠実に対応しないことも一因になっているように
思われます。
聖徳太子は『日本書紀』編纂の最終段階で創造された
のであり、実在したのは厩戸王という王族にすぎない、
というを主張
を十年以上展開しておりながら、

その肝心の『日本書紀』では「聖徳太子」という表現は
用いていないばかりか、大山説では太子関連資料を
大量に捏造したとされる光明皇后や行信すら「聖徳太子」
という呼称を用いておらず、
「厩戸王」という呼称にいたっては現存文献にまったく
見られないことなどについて、きちんと説明してこなかったことも、
感心できない点です。
「厩戸王」という呼び方は、
聖徳太子伝承を疑った太子研究の古典である
小倉豊文『聖徳太子と聖徳太子信仰』

(綜芸社、1963年。増訂版は1972年。感動の名著です)が、
「厩戸王」というのが生前の呼称でないか、
としているのが初出ではないでしょうか。

それが教科書にまで載るようになったのは
不思議な話です。


(引用ここまで)


★指導要領改定案の問題点:
 「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、
 「うまやどのおう」も不適切【訂正】

 2017年02月23日
 http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/9fe9f3071a02bb23868183a759e23a4b
(引用開始)
後代の呼び方はいけないのであれば、
天皇の漢字諡號
奈良時代になって定められたのですから、
欽明天皇も推古天皇も天智天皇も天武天皇も
使えないことになります。
さらに重要なのは、
奈良時代から用いられるようになった漢字諡號などと違い、
「厩戸王」という言葉は、
使われた証拠がまったくないことでしょう。
どの時代の史料にも見えません。


 「聖徳太子」という名は、
現存史料による限りでは、奈良中期の『懐風藻』の
序に見えるのが最初であり、
生前に用いられていたことを示す資料はないのは
事実です。聖徳太子という名称を用いると、
後代の伝説化されたイメージが強くなりすぎるという
懸念はあるでしょう。

 しかし、
「厩戸王」はもっと問題があるのです。
このブログで何度も書き(こちら)、
拙著『聖徳太子-実像と伝説の間-』(春秋社、
2016年)でも強調したように、

「厩戸王」というのは、
良心的な研究者であった
広島大学の小倉豊文氏
が、
戦後になってから
後代のイメージに
縛られずに研究するために
仮に用いた名であって、
史料にはまったく見えない名だからです。


これを実名であるかのように扱うのは不適切です。
あるいは、これは史料に見えない仮の呼び方だと
説明するのでしょうか。

(引用ここまで)




伝承に過ぎない?
伝承もそれに纏わる信仰ももまた、歴史だと思う。
何故、その伝承が生まれたのか?も
考えるべきですが
戦後に生まれた仮称「厩戸王」を採用する文科省に
何やら、どす黒い意図を感じるのは
私だけでしょうか????




自国の歴史や伝統文化に無関心なまま育った結果???

DQNに破壊される日本の文化・・・

★聖徳太子像を真っ二つに破壊した
 18歳無職ギャル「つまずいて像を倒した」
 藤井元超住職
 「こういうことはもうしないでほしい」

 2015/07/16(木)
 http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/dqnplus/1437000872/





★学校教育法施行規則の一部を改正する
 省令案並びに幼稚園教育要領案、
 小学校学習指導要領案及び
 中学校学習指導要領案に対する意見公募手続
 (パブリック・コメント)の実施について

 http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000878&Mode=0



意見締め切りは
2017年03月15日!


「皇国史観」を否定したいが為に
「亡国史観」を強要するのは、表裏一体!
明治政府のやった事と同じじゃないのか?

皆さんの意見をお送りください。





政治ランキング
スポンサーサイト

おや?池田信男氏がTwitter「教科書の天皇記述は江戸以降で良い」を削除している

今回の教科書改定について、
元号廃止論者の池田信夫氏が
”幕府”だって後から付けた名称なので
「教科書の天皇記述も江戸以降で充分」
「500年以上、誰も知らなかったのだから」
と、Twitterで呟いていたので、
時間があったら、この件についてBlogで取り上げよう
と思っていたら・・・批判を浴びた後、削除している。

池田氏は、以前から・・・このような歴史観。

★天皇はなぜ生き残ったか
 池田信夫Blog 2014年06月08日 
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51900581.html




確かに、中世の武家社会以降
天皇の「権力」体制は崩壊しているが・・・
「江戸時代のミカドは政治的影響力のない
 公家の一つだった。
 当時の天皇家は貧乏で、即位の式典どころか
 葬式のできない天皇もあった。」

所領地や財政を軍事政権に握られ
財政難であったことは確かだが
”政治的影響力のない公家の一つ"というのも乱暴だし
「古事記」や「日本書紀」など古代史を
教科書から外して、無視しても良いという呟きは
如何なものだろうか?

★室町時代の天皇
 http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nob/nobu5.htm


★室町時代の天皇
 http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/1116950.html


★洞院公賢
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E8%B3%A2


★106代 ・ 正親町天皇 深草十二帝陵⑩
 http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45978042.html




戦国時代の武将たちは「帝」を
単なる公家の一つだと思っていただろうか?

★信長の名前と官位
 http://www1.clovernet.ne.jp/kurohoro/his/oda/name/


織田信長は、
1568年の従五位下叙任から、
死後の法名「摠見院殿大相国一品泰巌大居士」
死後従一位太政大臣に叙せられる。
武将にとって、
朝廷から賜る官位は無意味ではないでしょう?




京都御所には、
天皇のみが通る事が出来た建礼門から
東へ数メートル程行った所に
粽屋・川端道喜専用の通用口「道喜門」が現存している。
doukith.jpg

天文5年(1536年)、
京都御所の修繕を織田信長が命じた際に
初代川端道喜は工事を監督する工事奉行として任につき
資材搬入の勝手口として塀をくり抜いて作ったのが
この「道喜門」。

京の老舗【道喜】、創業は室町時代の1503年。
11年も続いた応仁の乱で都は荒れ果て、
朝廷も財政難で困窮状態。
後柏原天皇(104代天皇)に、毎朝『御朝物』を献上した。
明治天皇が東京に移る明治2年まで、300年以上も続いた。
江戸時代に入ると朝廷の財政も安定していくのですが
それでも朝食の前には、道喜の餅を眺めるという
『朝餉の儀(あさがれいのぎ)』という儀式として
明治まで残っていたのだそうです。

この店の歴史はコチラから
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/26855555.html
https://www1.doshisha.ac.jp/~prj-0604/pc/kawabata.html

安永9年(1780年)刊の秋里籬島著・竹原春朝画の
『京名所図会』(6巻11冊)にも
  doukiphoto.jpg
 (内裏之図 『都名所図会』の巻頭)

  douki_360_4.jpg
「道喜門は描かれている。

幕末の公武合体を描いた有吉佐和子の長編小説
【和宮様御留】の中にも、祇園会の道喜の献上品
「御菱葩」が描かれていますが、この花びら餅は
裏千家の新年大茶会にも納品されています。
有吉佐和子は、執筆にあたって15代道喜夫人からも
御所との関係をいろいろと教わったのだそうです。




京都には、皇室の菩提所として有名な
御寺・泉涌寺がございます。
御由緒には
http://www.mitera.org/outline.php
”仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、
 当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。
 その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、
 続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る
 歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、
 山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」
 と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、
 長く篤い信仰を集めることとなる。
 泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。”

★驚きの内部ー月輪陵・後月輪陵・続編-
 http://blog.goo.ne.jp/ayaka-r0301/e/2db3204a14357ba68f915b39990885d4





公武合体といえば、皇女和宮が有名ですが
徳川家康が、孫の和子を入内させ
かつての藤原一族のように
天皇の外戚になろうとしたことも見逃せません。

★徳川和子
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%92%8C%E5%AD%90

★第108代 後水尾天皇の后( きさき )
 東福門院・徳川和子

 http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45988264.html




★聖徳太子の発明?
 「天皇と日本」-天寿国繍帳の信憑性-

 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/tennoutonihon.html


★天寿國繍帳 銘文
 http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/tenjukoku/tenjukoku_frgen.htm


★天皇弥栄(すめらぎ いやさか)  
 慶應義塾大学講師 竹田 恒泰
 http://www.hokkaidojingu.or.jp/sizume/column/takeda6.html




★国学
 http://www.geocities.co.jp/HiTeens/8761/japan14.htm


★本居宣長研究ノート
 「大和心とは」

 http://www.norinaga.jp/index.php


敷島の 大和心を 人問はば
朝日に匂ふ 山桜花

  ~本居宣長
 http://blog.livedoor.jp/rh1-manyo/archives/27448909.html


★古事記の魅力④ 
 ~桜、生命の再生、もののあわれ~
 http://wanosuteki.jp/post_10615 


★shinzeiの晴耕雨読日誌(901)
 江戸時代、天皇権威復活大作戦

 http://shinzei-co-led.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/shinzei-ec1e.html




今年の1月、池田信夫氏は
「もう元号を使うのはやめよう 」と呼びかけます。
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-4647.html


そして、今回は・・・
「教科書の天皇の記述は江戸以降で充分だ」
と呟いていました。

子供達が、自国の歴史に触れる扉
親が歴史好きでない限り、教科書となります。
大人になっても、
自国の歴史への知的好奇心を失わずに学ぶためには
歴史への興味の扉は、出来うる限り開かれていなければ
ならないと思うのです。

先日、朝日新聞の読者欄に投稿された
「元号」に関する記事。
17歳の高校生の投稿文に、日本の未来を託したくなる。

kousituC4ruG0fXUAQEZoU.jpg



政治 ブログランキングへ

安倍首相、真珠湾攻撃で戦死した飯田中佐の記念碑などへ献花

★首相、飯田中佐の記念碑訪問 
 真珠湾攻撃で戦死

 日本経済新聞 2016/12/27 12:55
 
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS27H1K_X21C16A2000000/
【ホノルル=山口啓一】
米ハワイ訪問中の安倍晋三首相は26日午後
(日本時間27日昼)、
真珠湾攻撃で戦死した旧日本海軍の
飯田房太中佐の記念碑を訪問し、献花した。
岸田文雄外相や稲田朋美防衛相も同行した。

 飯田中佐は真珠湾攻撃で燃料タンクに被弾したため、
機体を米海軍基地格納庫に突入させて戦死した。
米海軍は飯田中佐の勇気をたたえ、基地内に埋葬。
真珠湾攻撃30周年の1971年に記念碑を建てた。





(引用ここまで)




★真珠湾に散った英霊たち
 http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20111210/1323474812
 空母・蒼龍制空隊分隊長の飯田房太大尉は
カネオヘ基地上空で被弾し、燃料漏れを起こしました
母艦まで帰れないと判断した飯田は
帰投途中で反転しました。
分隊長の覚悟を知った隊員は風防を開け、
敬礼で持って見送りました。
飯田大尉は愛機のゼロ戦とともに同基地に突入して
自爆しました。飯田隊長機に続いて
渥見峻(あつみたかし)一飛曹も燃料漏れのために
後を追う様に自爆しました。

 アメリカ海軍は、敵ながら、壮烈な行為を称賛して、
遺骸の柩(ひつぎ)をアメリカ軍艦旗で包み、
衛兵隊弔銃の礼をもってヌアヌ海軍墓地に埋葬した
といいます。
ヌアヌ海軍墓地には飯田大尉のほか、鈴木三守大尉の三士、
特殊潜航艇の岩佐直治大尉も葬られています。

 ワヒアワには降下爆撃機二機、4戦士が葬られています。
土饅頭の上に十字架をたて英語で
「日本空軍四士戦死 1941年12月7日」と記されています。
撃墜されたとき、搭乗員4名は認識できぬほどの
無残な死体だったといいます。
1機は午前八時頃(攻撃開始とほぼ同じ時刻)一家屋に激突し、
他の一機はパイナップル畑に250キロ爆弾を抱いたまま
墜落しました。
葬儀は軍の当局者が取り扱い、
戦死者にふさわしい礼儀をもって執り行われたといいます。

(全文はリンク先で)









★首相「日米は希望の同盟」 
 日系人との夕食会で

 日本経済新聞 2016/12/27 15:30
 http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK27H1M_X21C16A2000000/













「戦後レジュームからの脱却」を
絶対にさせたくない人々








政治 ブログランキングへ

西日本新聞「金嬉老事件は在日コリアンの差別の象徴だった」

★見つめ直す「差別と人権」
 西日本新聞 2016年12月25日 10時30分
 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/editorialist/article/297831
 シニア世代の多くの人に、
鮮烈な記憶を残した在日コリアンがいる。

 金嬉老(キムヒロ)元受刑者(故人)である。
日本語読みで「きん・きろう」といった方が通りがいい。
1968年、ライフルを手に静岡県の旅館に
人質を取って籠城した人物だ。


 要求は一つだった。
街中で在日の人々に差別発言を放った警察官の謝罪である。

 彼の幼少時からの差別体験
現場からテレビ中継を通じて全国に伝えられた。
言語道断の事件であることは前提に
在日コリアンの人権意識を覚醒させた出来事として
歴史に刻まれている。

 在日運動家たちは、当時活発になっていた
部落解放運動にも大きな影響を受けていた。
在日コリアン人権協会の創設者は
「私たちにはそれまで、
 差別と闘うという概念がなかった」と言う。
被差別部落の人々は
大正時代に始めた差別との闘いから、
「人間の尊厳」を取り戻す運動を
在日の人々に伝授していった。

 差別される側に共通するのは
「初めはなぜ差別をされるのか分からなかった」
という事実である。
極貧生活で識字率が低い時代があった。
歴史を学び、差別の不条理を知ったとき、
初めて立ち上がることができる。
私が知る障害者団体も彼らの運動に学び、
「共に生きる社会」の実現を強く訴えた。

 運動はときに
「激しく行き過ぎ」と社会の批判を浴びた。

当事者は折に触れ反省した。
金嬉老事件は論外としても
多少手荒な訴えをしなければ苦境は理解されなかった
事情も見逃せない。

運動は外国人登録証への指紋押なつ全廃や
公共施設のバリアフリー化など大きな成果を上げた。

 にもかかわらず
今年は新たにヘイトスピーチ(憎悪表現)対策法、
部落差別解消推進法、障害者差別解消法が施行された。
人権を守る社会は成熟してはいなかったのか。

 「現代」を一皮めくればインターネット上などで
差別言動がはびこっている。
「差別と人権」にこだわってきた
記者の一人として自戒した1年である。


=2016/12/25付 西日本新聞朝刊=


★金嬉老事件
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AC%89%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6


★金嬉老事件
 http://yabusaka.moo.jp/kimuhiro.htm


★金嬉老事件(下) 
 韓国送還後に殺人未遂事件

 http://www.sankei.com/region/news/151209/rgn1512090066-n1.html


★寸又峡温泉にいってみた
 http://iyasaaca.exblog.jp/8034970/


★また曹渓宗か・・
 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/46994289.html


★まだ金嬉老を持ち出す韓国
 シンシアリーのブログ 2014-03-31
 http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11809025507.html




この記事を書いた
西日本新聞の記者は何歳なのかな?
この事件を知らない世代が増えたからって
金嬉老事件を持ち出すのは、逆効果じゃないかな。

私が子供の頃に地元で起きた事件・・・
この事件を取り上げる度に
リアルタイムで事件をTVで観てきた父は、
「自分の犯罪を正当化する為に
 ”差別”を利用しているだけじゃないか!」

と、よく怒っていた。

金嬉老、本名は権嬉老である。
金姓は、彼の母親の再婚相手の姓
権嬉老は、金嬉老の名前の他に7つの名前を使用し
戦後は。
彼に殺されたうちの一人は、まだ18歳だった。

権嬉老は、金嬉老の名前の他に7つの名前を使用。
15歳で窃盗で捕まり、少年院で終戦を迎えた。
戦後は窃盗、詐欺、強盗などを繰り替えし、
行ってもいないのに
”この頃、特攻隊の制服で、
 白い絹のマフラーを巻いて歩き回っていたという。”

殺人、籠城事件を犯すまでに前科7犯、
20年間の内15年以上刑務所暮らし・・・。


”事件前、金は手形を担保にして知人から
 18万円を借金した。この借金は中古車で弁償したが、
 手形は金の元には戻らず、ある暴力団幹部の
 手に渡った。これは射殺されたSのことである。
 これ以後、金はSから脅され続けた。
 まずSたちは手形をたてに、金から35万円を取り立て
 ようと図る。金は九州~青森を逃げ回ったが、
 横浜にいるところをS一派に発見される。
 そこで金はSに「返済」を約束し、
 8月20日に「みんくす」でおちあうことにした。

 事件当日、まずSと他2人が「みんくす」に到着、
 続いて金も訪れた。金はここでSに
 「朝公がちょうたれたことをこくな」と罵られ、
 そのSと子分Oの2人をライフル銃で撃ったのである。”



★「初の劇場型犯罪」金嬉老事件、
 現場はいま 寸又峡温

 朝日新聞 大内悟史 2016年1月13日
 http://www.asahi.com/articles/ASHDX5FDPHDXUTPB00M.html
(引用開始)
籠城中には、記者会見やテレビへの電話出演もした。
警察官の朝鮮人差別を告発するために
 事件を起こした
などと主張し、
生い立ちを語った。
事件は同時進行で報道され、
「日本初の劇場型犯罪」とも言われる。
5日目の午後、記者団に紛れた捜査員がとびかかり、
金は逮捕された。

■「事件で有名になったのは事実」

 当時大学生だった在日本大韓民国民団
県地方本部議長の金勇(67)は、
県内に里帰りしていた時にテレビでヘリコプターからの
現場映像を見て、驚いた。
県内の民団幹部は寸又峡で金を説得したが、
事件後は多くを語らなかったという。
差別されている在日の気持ちを代弁してくれた
 という声も一部にあった。
 ただ、犯罪という形で主張したり
 正当化したりするのを擁護はできない
と話す。
 
(引用ここまで)




差別を利用したのは金嬉老本人だけでなく
一部の在日コリアンの人々と、日本の左翼活動家。
日高六郎(東大教授)、伊藤成彦(中大助教授)、
鈴木道彦(一橋助教授)、金達寿(作家)、角南俊輔(弁護士)、
斉藤浩二(弁護士)、山根二郎(弁護士)などの
いわゆる「良心的文化人」達。



★金嬉老と在日差別
 http://www.tamanegiya.com/kako/kinnkirou19.9.12.html
金嬉老の籠る静岡県寸又峡の「ふじみ屋旅館」まで
応援にのこのこと出かけていったのは、
伊藤成彦、金達寿、角南俊輔、斉藤浩二、山根二郎の
諸氏だったようです。

 金嬉老と会い、その発言にころっと騙されて、
泣いたバカもいたそうです。

 学生運動については金嬉老の
「警官と戦う学生の心の中に
 ダイヤモンドを見つけました」

という言葉に感激した伊藤成彦氏は
「いや、私は、金さん、
 あなたの心の中にダイヤモンドを見つけました

という言葉を吐いたそうです。

「曽我(注=金嬉老が清水で殺した相手)が、
 私の家に踏み込んで私をなぐり、
 アサ公とののしった時、
 私は心の中ですでに彼を殺していました」

「私は十五歳のときから、警察が自分の家となりました。
 しかし、その家はあまり住み心地のいい家では
 ありませんでした」


これらの言葉は、普通の人が聞けば、
「寝ぼけたこと、アホ言っとるな。
 お前がみんな悪いんだろうに」となるのに、
伊藤成彦氏は「あなたは立派な文学者だ
と叫んだそうです。


 このバカどもは、下記の金嬉老の母親、
朴得淑さんの言葉をどう聞くのであろうか。

「あれは、ふだん朝鮮人といわれても
 ハラは立てないが、ムシの居所が悪いと、
 カッとくるね。それだけの話よ。
 だけど、息子は、捕われになっても、
 まだ生きてるからいい。
 しかし、あれが殺した二人の遺族を思うと、
 私、何もいえない。私は息子にいいたかった。
 死ぬのなら早く死ねばよかった」

(引用ここまで)




中核派の機関紙「かけはし」には当時の様子を
★日韓連帯闘争の契機の
 ひとつだった金嬉老事件
 
 かけはし98.9.27号より
 http://www.jrcl.net/web/framek32.html
(引用開始)
日本の運動への大きな衝撃

 当時、この事件は大きな衝撃をもって受け取られた。
ある刑事の「てめえら、朝公(あさこう)がなんだ~」
と暴言をはいたのを謝罪しろというのが
金嬉老さんの要求の一つであった。
その刑事と県警本部長がNHKテレビを通じて謝罪した。
長い間、差別を受けてきた在日朝鮮人にしてみれば、
「胸がスーッとした」「よく言ってくれた」と
声援を送る声が多かった。
金達寿(作家)さんや岡村昭彦(ピューリツアー賞を
もらった報道写真家)さんが被告の特別補佐人として
認められ裁判が進められた


 日本人の中でも、金嬉老さんの訴えを
どう日本人の立場で考えていくのかということで、
公判対策委員会などが作られた。
さらに、旧来の日朝友好運動から、入管体制を
問題にする新たな日韓連帯運動も起きていった。

そして、
当時の華僑青年闘争委員会という
在日中国人青年の急進的運動とも
連携していくようになった。


 それから、反戦自衛官小西誠さんの決起もあり、
全国反戦・東京入管闘・関東叛軍と3つの戦線
共闘して首都の闘争を組むようになっていった。
70年7・7の華青闘の糾弾(日本人を主体とする集会の
つくり方への批判)もあり、日本の歴史の見直し、
主体的な運動の総括などが急進的諸党派にせまられた。
 この当時、東京入管闘の中で、華青闘の糾弾
最も真摯に応えようとしたのは第四インターと中核派であった。
第四インターはベトナム革命と合流する
極東解放革命(韓国における反独裁革命と
北朝鮮における反官僚政治革命としての統一朝鮮革命と
沖縄・日本の反帝社会主義革命を結合する)戦略を提起し、
華青闘の糾弾には被抑圧民族無条件防衛の立場を
明らかにした。


(続きはリンク先で)




金嬉老事件を利用した左翼過激派達が、
ベトナム革命と合流する極東解放革命
(韓国における反独裁革命と北朝鮮における
反官僚政治革命としての統一朝鮮革命
沖縄・日本の反帝社会主義革命を結合する戦略・・・

今も昔も変わらない過激派の夢見る「革命」
その目的のためには、
犯罪者さえも祭り上げて利用する。

父が生前、よく言っていた言葉。
「もしも、金嬉老が日本人だったら・・・
 アイツ等(マスコミ)は、犯人に同情なんかせず
 殺人鬼だの極悪犯だの報道したんだろうになあ、
 ご都合主義の連中だよ。」









政治 ブログランキングへ
.

大森捕虜収容所のクリスマス

★大森捕虜収容所の主計軍曹が
 すでに「アンブロークン」の主張を
 否定していた

 ミツジのブログ
 
http://mituzi.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
昭和19年2月から20年4月までの14カ月間、
大森捕虜収容所で金銭給与を担当していた
陸軍主計軍曹、八藤雄一氏
「あゝ、大森捕虜収容所──
 戦中、東京俘虜収容所の真相」

という本を2004年に自費出版している。

彼がこの本を自費出版したのは、
米陸軍第八軍司令官アイケルバーガー中将の
「大森こそは日本軍残虐の本営」
という、
ヒレンブランド著「アンブロークン」の原型のような
談話に対して反論するためだった。

(中略)
大森で捕虜だった
ボブ・マーチンデイル米陸軍少尉の著書
「The 13th Mission」には、1944年12月、
大森捕虜収容所で捕虜たちのクリスマス慰安会が
行われ、大いに盛り上がった出し物「シンデレラ」の
話がある。続けて次のように書かれている。


 最高のクリスマスだった。

 我々は全員、朝食の時に使ういつもの椀で、
 小さな精白パン1個をもらった。
 さらに全員、
 赤十字から送られた慰問の品の入った箱を受け取った。

 夕食には焼き飯と、シチューに近い濃いスープが出た。
 野菜が何種類か入っており、
 浮かんだ豚の脂がスープに風味を添えた。

 幸運な捕虜には、小さな豚肉が入っていた。

 みな満腹して寝ようとしていたとき、
 他の宿舎からクリスマスキャロルの歌声が聞こえてきた。

 楽しいことがたくさんあった1日だったが、
 もっとすごいご馳走は大晦日、正月にやってきた。

 この日は私の人生で、
 一番思い出深いクリスマスとなった。




この幸せに満ちたクリスマスの思い出に出てくる
スープの豚肉、実は八藤氏が苦労して手に入れた
牛肉だったのである。
一部マーチンデイルの記憶とは異なるが、
以下、八藤氏の記述。

 当時の食肉市場は大変な入手困難、
 特に大森から市場に行っても係員は、
 「駄目、駄目、捕虜なんかに食わす肉なんかない」
 と相手にしてくれない。

 この爲に我々は自転車の後部フェンダーの
 「東京俘虜収容所」という白ペンキを消して
 食肉市場に行った程である。

 而も当時の市場には陸海軍の強力部隊が
 屈強な炊事兵士を数名トラックに乗せて
 肉を買い出しに来る。
 各部隊競争であり、早い話、強奪である。

 私は常々幼少時から肉食、パンを主とする
 捕虜連中のことを考え
 せめてクリスマス位は、たとえ少量でも
 牛肉を食わしてやろうと思っていた。
 東俘収主計軍曹は市場で全く不景気にされる。
 でも私は、
 「捕虜だって人間ですよ。
  何とか少しでも売って下さいよ」
 と泣きついてやっと六キロの牛肉塊を入手。
 欣喜雀躍して自転車の前籠に入れて帰り
 炊事の福田軍曹に渡した。

 六キロは六千グラム、
 捕虜六百人で割れば一人十グラム、
 僅かに小指の先の量、
 確かカレーライスに入れて給与した。

 それでもマーチンデールは
 この肉の特配を著書に書いている。
 後年私はこれを読んで思わず一人で泣いた。



私も読んで思わず泣いた。
ヒレンブランドは、日本の捕虜収容所のことを
「奴隷収容所」と述べ、「アンブロークン」には
まさに奴隷の惨状としかいいようのない話ばかりが、
これでもかこれでもかといわんばかりに登場する。
そして、
ここで紹介したクリスマスのエピソードは登場しない。

(全文はリンク先で)


★マーティンデール氏と八藤雄一先輩の手紙
 http://jfn.josuikai.net/circle/eigo/letters.htm


★「アンブロークン」原作の日本側協力者(1)
 http://koyanonezumi.blog.fc2.com/blog-entry-368.html


★アンブロークンの裏の赤い人脈
 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/43036138.html


★町山智浩アンブロークン擁護のgdgd
 反日はどこからくるの
 http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/archives/42332159.html






























>いかに中心が
 左翼思想になっているかが
 わかります


★【真珠湾訪問】 河野洋平元衆院議長
 「日本に対する韓中の怒りは強い…
  安倍、真珠湾でよく考えて発言すべきだ」

 政経ch 2016/12/24/ (土)
 http://fxya.blog129.fc2.com/blog-entry-32592.html


★在日無年金裁判原告で
 総連専従活動家女性を
 マンセーする毎日新聞

 韓流研究室 2011-09-02
 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1360.html




今年の我が家のクリスマスは・・・

  xmasth.jpg

前菜
 xmas_0442.jpg

ラム肉のソテー
 xmas_0448.jpg

パエリャ
 xmas_0450.jpg

クリスマスケーキの写真は・・・撮り忘れた(´;ω;`)




人気ブログランキングへ
プロフィール

あや

  • Author:あや
  • 韓流に嵌った母と義母の為に
    韓国情報を調べていたら・・・
    韓流ブームに仕掛けられた
    怪しい罠に気付いてしまった。
    韓流の闇と、利権や陰謀
    仕掛け人を徹底研究!
ランキング
ランキングに参加しています!
最近のコメント
最近の記事
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
ブログ内検索